第4話:夜葬紀行は終幕ではなく、少年の記憶と心臓を連れて世界を巡る新しい出発
灯台に、静寂が戻った。
風の音と、遠くの波の音。
ガラス窓をかすかに揺らす海鳥の羽音。
シズクは、しばらくのあいだ、その場から動けなかった。
腕の中には、もう声も息もない陽斗の身体がある。
その胸の中には、心臓はもうなかった。
けれど、彼女自身の胸の奥では、新しい鼓動が鳴っている。
ドクン。
ドクン。
それは、彼女が千年以上忘れていた感覚だった。
「……陽斗」
静かに、名前を呼ぶ。
返事はない。
でも、胸の奥の鼓動が、確かに応えていた。
「あなたは、ここにいる」
彼女は、左の手のひらを自分の胸に当てる。
鼓動は、彼女の指先にも伝わってくる。
冷たいはずのその手に、ほんのりと暖かさが灯る。
シズクは、ゆっくりと立ち上がった。
灯台の窓から見える朝の海は、さっきまでの異界の気配を薄めていた。
ただの現世の海。
ただの朝焼けの空。
終焉の崖は、ひとつの仕事を終えたに過ぎない。
「……帰ろうか」
誰にともなく呟いてから、彼女は陽斗の身体をそっと抱き上げた。
灯台の階段を降りる。
夜が終わり、朝が世界を塗り替えていく。
◆
霊柩車の後部には、黒い布で丁寧に包まれたひとつの身体が横たわっていた。
その横に、小さな花束が置かれている。
森で摘んだ名も知らぬ花。
知姫の図書館の前で見つけた、雑草の白い小花。
それらが、彼の旅路の縮図のようにそこにあった。
シズクは、運転席に座り、ハンドルに手をかける。
左手は、時々無意識に胸元へと伸び、そこにある鼓動を確かめていた。
「陽斗」
エンジンをかける前に、彼女は静かに話しかける。
「最後の場所には、最初の場所がふさわしいと思わない?」
答えはもちろん返ってこない。
返ってこないのに、彼女は微かに笑った。
「うん。私もそう思う」
霊柩車は、岬を離れ、山道を下りていく。
朝の光が、黒いボディに淡い輪郭を描いた。
目指す先は、旅の一番最初に訪れた場所。
あの、廃墟となった精神病院の裏山だった。
◆
山の中腹にある、あの病院は、以前と同じようにひっそりとそこにあった。
窓ガラスは割れたまま。
外壁のひびは、むしろ増えている。
周囲の木々はさらに伸び、コンクリートの建物を呑み込み始めていた。
シズクは、霊柩車を病院の裏手まで回し、静かに停めた。
裏山への小さな獣道。
そこを、彼女はゆっくりと進んでいく。
腕の中には、黒い布に包まれた陽斗の遺体。
何度も魂を送り出してきた彼女にとっても、この重さだけは他の誰とも違っていた。
やがて、小さな平地に辿り着く。
木々の間から、少しだけ空が覗いている場所。
「ここにしよう」
シズクは、静かに呟いた。
スコップも、掘削機もない。
ただ、自分の手だけ。
彼女は、地面に膝をつき、土に指を突き立てた。
アンデッドとしての力は、すでにかなり失われている。
それでも、土は彼女の意志を理解したかのように、少しずつ柔らかさを増していく。
静かな作業が続く。
鳥の声も、風の音も、遠くの街の気配も、すべてが背景に溶けていく。
やがて、人ひとりを抱くには十分な深さの穴ができた。
シズクは、陽斗の身体をそっと横たえた。
布を少しだけ持ち上げ、彼の顔を最後に一度だけ見つめる。
「……寝顔は、病院にいた頃とあまり変わらないわね」
皮肉なことに、死の安らぎは、生の苦しみよりも穏やかに見えた。
彼女は、そっと目を閉じてやる。
その額に、短くキスを落とす。
「おやすみ、陽斗」
土を戻す作業は、それを取り除く作業よりも、少しだけ早かった。
一握り、また一握り。
乾いた土と湿った土が混ざり合い、黒い布の上に降り積もっていく。
全てが埋まり終わったとき、そこには、少しだけ盛り上がった土の丘ができていた。
シズクは、そこに小さな石をひとつ置き、その上にさらにいくつか石を積んだ。
即席の石碑。
不格好だけれど、彼女にとっては何よりも大切な「目印」。
最後に、懐から小さな金属プレートを取り出す。
古いネームプレート。
かつて病室のドアにぶら下がっていた、「佐倉陽斗」という名前が刻まれたプレート。
それを、石の表面に埋め込む。
その下に、小さく文字を刻んだ。
爪が欠けるのも構わずに、時間をかけて。
『夜明けを共に見た二人の記憶ここに眠る』
書き終えたあと、彼女はしばらくその文字を見つめていた。
そして、小さく頷く。
「これで、いい」
風が、廃病院の壁を撫でる音がした。
遠くで、何かが崩れ落ちる気配。
この場所も、いつか完全に森に呑まれるだろう。
この石碑も、土に埋もれ、木の根に押し流されるかもしれない。
それでも。
「覚えてるから」
シズクは、胸に手を当てる。
そこに鳴る鼓動が、答えを返していた。
『ここにいる』
そう訴えるように。
「私はアンデッドではなくなった」
ぽつりと呟く。
魂を食べる力は、もうほとんど残っていない。
境界を見る目も、以前よりずっと鈍くなった。
「でも」
彼女は、立ち上がり、空を見上げた。
「あなたの記憶を運ぶ旅人にはなれる」
それだけは、確信を持って言えた。
霊柩車のドアを開け、運転席に乗り込む。
エンジンをかけると、車体がかすかに震えた。
「さぁ、どこへ行こうか」
問いかけに、胸の奥の鼓動が、わずかに早くなる。
「……そうね。
最初は、あの海にしようか」
陽斗が、子どもの頃に一度だけ家族で行ったという海。
退屈な家族旅行だと文句を言いながら、それでも心のどこかで「もう一度見たい」と思っていた場所。
それを、彼は旅の途中でぽつりと話していた。
「あのときは、台風が来てて、ちゃんと星が見えなかったって言ってたわね」
今日は、いい天気だ。
夜になれば、きっと星もよく見えるだろう。
「行こう、陽斗」
シズクは、ハンドルを握り直した。
彼の名前を呼ぶたびに、胸の鼓動が応える。
霊柩車は、再び夜の道へ滑り出した。
かつては無数の死を乗せてきたその車は、今はたったひとつの心臓を乗せて走り続ける。
「夜葬紀行」は、終わりではなく、新たな始まりだった。




