第3話:アンデッドの掟を外れて、人間の心臓を宿す「半人間」になる決意
東の空が、群青から薄橙へと移り変わる。
星々がひとつ、またひとつと、その光を空に返していく。
夜と朝の境界線の上で、僕の呼吸は、ひとつひとつが貴重なものになっていた。
「……私に、あなたの心臓を?」
シズクは、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
声は、かすれている。
掟と、願いと、自分自身の欲望と──いろんなものが、その喉を締め付けているのだろう。
「ああ」
短く答えるだけでも、肺の奥がきしむ。
「アンデッドは、人間の臓器を自分のものにすることで、その人間の一部の感覚を永遠に持ち続けることができる」
以前、彼女から聞いた話が、頭の中で蘇る。
「君の中で、僕の心臓がずっと鳴ってたらさ。
君が世界を見てるあいだ、僕の『生きてる』も、少しだけ続く気がして」
シズクは、目を閉じた。
「それは、禁忌中の禁忌」
吐き出すような声。
「魂を食べるのとは違う。
臓器を取り込むのは、『アンデッドがアンデッドであること』そのものを変えてしまう」
「アンデッドでいられなくなる?」
「たぶん、そうね」
彼女は、唇を噛む。
「人間と、アンデッドの中間。
どちらにも完全には属せない、半端な存在になる」
「半人間の、不死のなりそこない、か」
「そんな感じ」
少しだけ、苦笑いの色が混じった。
「でも」
シズクは、はっきりと言った。
「それがいやで、あなたの願いを断れるほど、私は強くない」
胸の奥が、かすかに熱くなる。
「いいの?」
僕は、確かめるように尋ねた。
「君にとって、一番重い罰かもしれないだろ」
「いいわけないでしょう」
シズクは、きっぱりと言い切る。
「怖いし、嫌だし、不安よ。
千年もやってきた『仕事』から外れるのは」
それでも、と彼女は続けた。
「あなたの願いを、叶えたい」
その言葉は、まるで誓いのようだった。
「僕たちは、別々の形で永遠を生きることになる」
僕は、吐息と一緒に言葉を押し出す。
「僕は天へ行く。
君は、この世界に残る。
でも、僕の心臓は、君の中で鼓動し続ける」
それは、奇妙な折衷案だった。
魂は自由に。心臓は束縛に。
「……ずるい人間」
シズクは、小さく笑った。
「自分は天へ行くのに、人の身体に爆弾を仕込んでいくなんて」
「爆弾って言うなよ」
思わず吹き出す。
「でも、君なら耐えられるだろ。
千年分の魂を抱えてきたんだからさ。
ひとつくらい、心臓が増えたって」
「そういう問題じゃない」
言い合いながらも、二人のあいだに、おかしな温かさが流れる。
それは、死を前にした者だけが持つ、特別な静けさだった。
空は、さらに明るくなる。
水平線のあたりが、柔らかい金色に染まり始めていた。
「陽斗」
シズクは、ゆっくりと僕の上体を抱き起こした。
僕の背中は、彼女の腕に支えられ、視界の先には海と空だけが広がる。
「あなたの魂は、必ず天へ送る」
彼女は、決意を込めてそう言った。
「これは、アンデッドとしての最後の仕事。
そして、私個人としての、わがままな選択」
僕は、ゆっくりと頷いた。
心臓の鼓動が、少しずつ、しかし確実に弱くなっているのを感じる。
「最後に、キスをしていい?」
シズクの問いに、笑う余裕は、もうほとんど残っていなかった。
「最後、じゃないだろ。
君が僕を食べないならさ」
「そうね」
彼女の瞳に、再び涙が浮かぶ。
「これは、魂を食らうためじゃない。
あなたを、最後まで愛するためのキス」
その言葉に、胸のどこかが熱くなった。
「……いいよ」
それだけを、かろうじて告げる。
シズクは、ゆっくりと顔を近づけた。
冷たい唇が、僕の唇に触れる。
海と空の境界線が、滲んで見えなくなる。
時間の感覚が、ふっと外れる。
心臓が、一度だけ強く跳ねた。
次の瞬間、何かがふっと軽くなる。
身体の重み。
痛み。
重力。
それらが、一斉に薄れていく。
視界の端で、自分の体が小さく横たわっているのが見えた。
その上から、淡い光が立ち上っている。
自分の「外側」から、自分を見ている。
不思議と、怖くなかった。
光は、ゆっくりと空へ向かって昇っていく。
まるで星屑が逆流しているみたいに。
シズクは、僕の体を抱きしめたまま、空を見上げている。
唇はまだ、僕の唇の形を覚えているようだった。
僕は、自分の身体から離れていく光の流れの中で、最後のひと押しをした。
——行け。
その意識の動きに応えるように、光はふっと加速した。
地平線の向こうから、朝日が昇り始めた。
最初の一筋の黄金色の光が、海と空と灯台と、彼女と僕の残滓をまとめて照らし出す。
シズクの胸の中で、何かが動いた。
彼女の手が、無意識に自分の胸に触れる。
そこに、新しい鼓動が生まれていた。
ドクン。
ひどく不器用で、頼りない。
でも、確かなリズムを持った鼓動。
「……陽斗」
シズクは、涙で滲んだ視界の中、東の空を見上げる。
そこで、彼女は見た。
朝焼けに飲み込まれていくひとすじの光が、まるで笑っているように、柔らかく揺れていたのを。
「いってらっしゃい」
彼女は、静かに呟いた。
「もう、二度と戻ってこなくていい。
その代わり──」
胸の鼓動が、彼女の言葉に応えるように強く鳴る。
「あなたの心臓は、ここに残していきなさい」
朝日が完全に昇る頃、陽斗というひとりの少年の魂は、光の中へと溶けていった。
世界は新しい一日を迎え、終焉の崖の上には、不死の少女だけが残された。
その胸の中で、少年の心臓が、ゆっくりと、しかし力強く鼓動を始めていた。




