第2話:霊柩車の少女との邂逅
誰かが、車から降りる気配がした。
足音。コツ、コツ、と一定のリズムで近づいてくる。
「──死にに来たの?」
耳元で、少女の声がした。
透明なガラス玉を転がしたような、冷たい声。
感情の温度が、限りなくゼロに近い。
体は動かないのに、意識だけが少し浮上する。
まぶたをほんの少しだけ持ち上げると、そこには夜空よりも深い黒が広がっていた。
黒塗りの車。
長方形の、異様に背の高いシルエット。
霊柩車──。
僕の喉が、かすかに震えた。
声にならない息が、白く漏れる。
車体の側面には、見慣れないエンブレムが刻まれていた。どこかの葬儀社のロゴだろうか。けれど、その意匠は妙に古めかしくて、現代の企業ロゴというより、古代の紋章のように見えた。
運転席のドアが静かに閉まり、足音が近づいてくる。
視線だけを、ゆっくりと動かす。
街灯もない闇の中、彼女は不自然なほどはっきりと見えた。
肩までの銀髪。
それは白ではなく、確かに銀だった。夜の闇に溶けることなく、月光もないのに淡く光っている。
瞳は、赤。ワインレッドよりも濃く、血よりも深く。暗闇の中で、熾火のように瞬いている。
肌は、陶器みたいに白かった。
病的な白さではない。死を思わせる青もない。むしろ、生という概念から一歩引いたところにあるような、無機質な白さ。
黒いワンピース。膝丈のスカート。
その上に羽織ったコートの裾が、夜風に揺れている。
足元は、まるで葬儀スタッフみたいな黒い革靴。ただ、彼女がその靴で歩くたび、アスファルトに落ちる足音は奇妙なほど軽かった。
彼女は僕を見下ろし、首を少しだけ傾げた。
「ねぇ。死にに来たんでしょう?」
問いかけというより、確認。
目の前で車に轢かれそうになっている人間にかける言葉としては、あまりにも異様だった。
僕は、かろうじて喉を震わせる。
「……うん」
かすれる声だった。
彼女は瞬きもせず、僕の顔をじっと見つめる。
「誰かに殺されたかったの? それとも、自分で死にたかったの?」
その言い方が、ひどく残酷で、ひどく正確だった。
誰かに迷惑をかけたくはなかった。
でも、自分で確実に死ぬ勇気もなかった。
だから、曖昧な「事故」に期待した。通りがかった車が、運悪く、僕を認識し損ねることを。
それはつまり、「誰かの手で死にたかった」ということだ。
彼女は、僕の沈黙を答えと受け取ったのか、ほんのわずかに口元を歪めた。
笑っている、のかもしれない。でも、その笑みには喜びや愉悦の色はなかった。ただ、感情という液体をすっかり抜き取られたような、形だけの微笑み。
「なら、乗せてあげる」
そう言って、彼女は霊柩車の方へと視線を向けた。
「ここで野垂れ死にするより、少しはマシな場所まで」
僕は、目を瞬いた。
その言葉の意味がすぐには飲み込めない。
「……どこ、に?」
自分の声が、やけに遠い。
少女は、ゆっくりとしゃがみこみ、僕の顔と同じ高さまで目線を下ろした。
近くで見ると、その瞳の赤はますます濃く見えた。そこに僕自身の姿が、小さく逆さまに映り込んでいる。
「死ぬ場所」
彼女は、何でもないことのように言った。
「誰にも見つからずに、誰の足も止めさせないで、ひっそりと死ねる場所」
心臓が、一拍だけ、強く鳴った。
彼女の言葉は、僕の中のどす黒い願望を、そのまま口に出したみたいだった。
誰にも迷惑をかけずに死にたい。
誰にも見つからずに消えたい。
忘れられて、いなかったことにされたい。
それがどれほど身勝手で、どれほど残酷な願いかなんて、分かっているはずなのに。
彼女は立ち上がり、僕の腕を掴んだ。
その手は、驚くほど冷たかった。
けれど、冷たさの奥に、かすかな「硬さ」がある。人間の皮膚の柔らかさとは違う、何か異質な感触。
支えられて立ち上がると、視界がぐらりと揺れた。
膝が笑う。彼女は何も言わず、僕の体重をほとんど全部引き受ける形で、霊柩車の後部ドアまで連れて行った。
黒い塗装は、夜の闇をさらに圧縮したように光を吸い込んでいる。
そこに映る自分の顔は、骸骨みたいにやつれていて、笑えるくらい「死にかけの人間」そのものだった。
後部ドアが、重い音を立てて開く。
中は、白い。
思わず息を呑んだ。
そこには、祭壇のような小さな台と、その奥に棺を置くための空間があった。左右の壁には古い蝋燭立てが埋め込まれていて、今も細い炎が揺らめいている。
──おかしい。
こんなもの、普通の霊柩車にあるはずがない。
第一、蝋燭の火なんて、走行中に危ないに決まっている。
違和感は、そこだけじゃなかった。
車内の匂いが、妙だ。防腐剤や消毒液の匂いではなく、乾いた香草と、遠い土の香り。古い教会の一角を切り取ってきたみたいな、時代のズレた空気。
少女は、棺のようなスペースの手前にある長椅子を指差した。
「そこに座って。立ってると、倒れるでしょう?」
言われるまでもなく、足はすでに限界だった。
僕はよろよろと中に入り、長椅子に腰を下ろした。クッションは薄く、板の冷たさが背中に伝わる。
彼女は黙ってドアを閉め、運転席へと回っていった。
エンジンがかかる音。車体がわずかに震える。
僕は、まだ信じられなかった。
なぜ僕は、見知らぬ少女の運転する霊柩車に、こんなにもすんなりと乗り込んでしまったのか。
けれど、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
*病院には、もう戻れない。*
それは、僕がいま初めて、何かを「選んだ」瞬間だった。




