第2話:「僕の人生は最後の数週間で完成した」と言えるようになった、夜葬紀行の終点
時間の流れが、夜と朝の境界にくっきりと線を引いていく。
灯台の最上階。
ガラス越しに広がる夜の海と星空のあいだで、僕とシズクは最後の夜を過ごしていた。
シズクは、僕の頭をそっと膝に乗せている。
硬い床の冷たさから守るように、彼女の太ももが静かにそこにあった。
彼女の手は、ゆっくりと僕の髪を撫でている。
その仕草は、どこか母親めいていて、同時に恋人のようでもあった。
「ねぇ、陽斗」
「ん……」
返事ひとつにも、少し間が必要だった。
呼吸は浅く、胸を上下させるたびに、どこかがきしむ。
「少しだけ、私の話をしてもいい?」
「……いつもしてるだろ」
「そうね」
シズクは、小さく笑った。
「でも、今夜のは、特別版」
彼女は、星空に視線を向けた。
「千年前、ローマに行ったことがあるの」
「ローマ?」
意外な地名に、思わず目を開ける。
「まだ帝国の残り火がくすぶっていた頃。
円形闘技場の観客席から、剣闘士たちの死を、何度も見送った」
彼女の声が、少し低くなる。
「彼らは、命を見せ物にされていた。
勝てば歓声。
負ければ、沈黙か、嘲笑」
コロッセオの観客席。
真っ赤な夕陽。
砂に染み込む血の色。
「でも、その中にひとりだけ、笑って死んだ男がいた」
「笑って?」
「うん。
観客席に向かって、親指を立てて。
『俺は生き抜いた』って顔で」
シズクの声に、少しだけ敬意が混じる。
「彼は、死ぬべき場所で、ちゃんと『生きた』って言い切ってた」
次の景色。
「中世のヨーロッパでは、黒死病が流行っていた。
街中が死で溢れていた」
狭い石畳の路地。
教会の鐘。
棺を運ぶ人々。
「そこにも、不思議な人がいた。
自分も病に冒されているのに、他人の看病ばかりしている修道女」
「……君みたいだな」
「私は食べるけどね」
淡々とした言い方に、苦笑が漏れる。
「彼女は最後まで、自分のために祈らなかった。
『私の神様は、私よりも彼らを救ってほしいはずだから』って」
次の景色。
「江戸の町は、賑やかだった。
夜でも、提灯の明かりと人の声が絶えなかった」
祭りの夜。
屋台。
橋の上で花火を見る人々。
「そこで、私は一人の侍の最期を見た。
無念の死だった。
でも、彼は最後に、空を見上げて笑った」
『ああ、きれいだ』
彼の最後の言葉が、シズクの声に重なる。
「彼は、自分の人生が思い通りじゃなくても、『この空を見られたから』って、少しだけ満足してた」
それは、どこか僕にも似ていると、思った。
「あなたが見られなかった世界を、少しでも伝えたくて」
シズクは、言葉を続ける。
「ローマの石畳も。
中世の夜明け前の霧も。
江戸の橋の上の風も」
彼女の指が、僕の前髪をやさしくよける。
「全部、一度に全部は無理だけど。
少しでも、あなたに渡したい」
「……十分、だよ」
なんとか、笑みを作る。
「病室の天井ばっかり見てた僕にしたら、
今まで見てきた景色だけでも、もうお腹いっぱいだ」
本当は、もっともっと聞いていたかった。
もっともっと見ていたかった。
でも、人間の時間には限りがある。
それは、シズクが誰よりもよく知っていることだ。
「僕の代わりに、これからも世界を見てほしい」
ぽつりと、そう言った。
シズクの指が、一瞬だけ止まる。
「でも、あなたがいなければ──」
「大丈夫だよ」
彼女の言葉を、そっと遮る。
「僕は、シズクの心の中にいるから」
それは安っぽい慰めだったかもしれない。
でも、今の僕にできる精一杯の「置き土産」でもあった。
「君が見る世界を、僕も一緒に見てる。
そう信じてれば、君も少しは楽になるだろ」
「勝手なこと言う」
シズクは、小さく笑った。
でも、その声は明らかに震えていた。
夜は、少しずつ深くなっていく。
星々は、その光を弱めることなく、むしろいっそう強く瞬いている。
僕の呼吸は、さらに浅くなっていた。
肺が空気を取り込むたびに、胸が痛む。
それでも、まだ生きている。
「シズク」
「なに?」
「僕と出会ってくれて、ありがとう」
その言葉を言うためだけに、ずっと息を温存していたような気がする。
「僕の人生は、最後の数週間で完成したんだ」
十八年と数ヶ月。
その大半は、病室と、家と、病院の往復だった。
でも、最後の数週間だけは違った。
潮女の海。
鉄姫の駅。
笑姫の観覧車。
月姫の古城。
木霊の樹海。
知姫の星図。
湯女の温泉。
そして、終焉の崖。
「シズクがいなかったら、こんな世界があるって知らないまま死んでた」
彼女の膝の上で、視界が少し霞む。
涙か、意識の薄れか。
もう、どちらでもよかった。
「あなたこそ」
シズクは、ゆっくりと僕を抱き寄せた。
耳元で、彼女の鼓動は聞こえない。
代わりに、僕の心臓の音がやけに大きく響いている。
「あなたこそ、千年の孤独から私を救ってくれた」
その告白に、胸が熱くなる。
「千年、私は待っていた。
自分でも理由がよく分からない誰かを。
星空の下で約束をした誰かを」
彼女の声が、少しずつ崩れていく。
「そして、ようやく会えたと思ったら──
あなたは、もうすぐいなくなる」
「……ごめん」
「謝るなって、言ってるでしょう」
彼女の腕に、少しだけ力がこもる。
「それでも、会えてよかった。
あなたと旅ができてよかった。
あなたの心臓の音を聞けてよかった」
東の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。
夜と朝の境界が、遠くの水平線上に細い線を描き始める。
「陽斗」
「ん……?」
「最後に、お願いがあるって言ってたわね」
「ああ」
まとまった呼吸をひとつしてから、僕は体をほんの少しだけシズクの方へ傾けた。
耳元に唇を近づける距離まで。
夜明け前の静寂の中で、僕は、彼女だけに聞こえるように囁いた。
「……シズク。僕の心臓を、君にやるよ」
シズクの肩が、小さく震えた。
まだ、答えはいらない。
この願いが、どれほど残酷で、どれほど優しいかを、彼女が理解していることだけは分かったから。
東の空が、ゆっくりと色を変えていく。
最後の夜明けが、すぐそこまで来ていた。




