第1話:もう二度と会えなくても、「あなたを自由にする方を選ぶ」と告げた終焉の崖
霊柩車のエンジン音が、いつもより遠く聞こえた。
フロントガラスの向こうで、夜の海岸線が流れていく。
左手には黒い海。右手には断崖の影。
ヘッドライトの光が濡れたガードレールをかすめ、その奥に落ちていく白い波頭をほんの一瞬だけ照らしては、すぐ闇に返していく。
シズクは、黙ってハンドルを握っていた。
いつもと同じ姿勢。
同じ横顔。
なのに、その肩がかすかに強張っているのが分かる。
後部に横たわる僕の体は、もうほとんど自分のものではないみたいだった。
指先の感覚は薄れ、足の先は氷みたいに冷たい。
胸の奥で鳴る鼓動だけが、まだはっきりと「ここにいる」と主張している。
「……シズク」
かすれた声を出すと、すぐに彼女の視線がバックミラー越しにこちらを向いた。
「起きてたの」
「どこに、向かってるんだ?」
「最後の目的地」
短く、それだけ。
その言い方に、余計な説明はいらなかった。
彼女にとっても、僕にとっても、「最後」がどこを指しているのかは、もう分かりきっているから。
「『終焉の崖』」
シズクは、少し間を置いて名前を告げた。
「アンデッドたちが最後に集まる場所。
この世界と、あの世の境目が、一番はっきり見える崖」
窓の外に、細い道標が見えた。
錆びた標識に、かすれた文字で「〇〇灯台」と書かれている。
シズクはそこを曲がり、さらに細い山道へと入っていった。
登るにつれて、海の音が近くなる。
風が強くなり、車体が時折揺れた。
やがて、霊柩車は小さな駐車スペースに止まった。
ヘッドライトを消すと、世界は途端に暗くなる。
遠くで、波の砕ける音。
頭上には、星がひとかたまりになって瞬いていた。
「着いたわ」
運転席のドアが開く音。
少しして、後部ドアが静かに開いた。
冷たい夜風が、容赦なく吹き込んでくる。
肺が驚いて、小さく痙攣する。
「ごめんね。揺らすわよ」
シズクの腕が、僕の背中と膝裏に回り込む。
軽々と、というわけにはいかない。
彼女の体がわずかに沈み込み、息がほんの少しだけ詰まる。
「重くて、悪いな」
「生きてる証拠よ」
彼女はそう言って、ゆっくりと僕を抱え上げた。
その腕は細いのに、驚くほど安定していた。
霊柩車の外へ運び出されると、潮の匂いが全身を包み込む。
目の前に、灯台がそびえていた。
コンクリート製の古い灯台。
塗装は剥がれ、ところどころにヒビが走っている。
それでもまだ、夜の岬の上に真っ直ぐ立っている。
灯りは点いていなかった。
代わりに、頭上の星々が、灯台の輪郭を銀色に縁取っていた。
「歩ける?」
「……無理、だな」
正直に言うと、シズクは小さく頷いた。
「じゃあ、このまま」
灯台の入口までは、急な石段が続いている。
彼女はひとつずつ踏みしめるようにして、その段を登っていった。
胸と背中に伝わる彼女の体温は、いつも通り冷たい。
それなのに、なぜか安心する。
何段登ったのか分からなくなった頃、ようやく狭い鉄のドアの前に辿り着いた。
シズクは片足でドアを押し開け、中へ入る。
灯台内部の階段は、螺旋状だった。
鉄製の階段が、キィ、キィと軋む。
「落とすなよ」
「落とさない」
即答。その声に、かすかな苛立ちと焦りが混じっているのを感じる。
階段を登るたび、彼女の呼吸が少しずつ荒くなっていく。
それでも、足取りは乱れない。
やがて、最上階に辿り着いた。
丸い小部屋。
中央には、今は使われていない古いレンズ装置が鎮座している。
シズクはその横のスペースに、そっと僕を降ろした。
背中には、冷たい床の感触。
でも、視界に広がる光景は、すべてを覆い隠した。
「……すげぇ」
それ以外の言葉が、出てこなかった。
四方の窓から見える夜の海は、星空と完全に溶け合っていた。
空の星が、波間に落ちて揺れている。
海の黒が、空に昇って星々を飲み込んでいる。
上も下も分からなくなるほどの、光と闇の渦。
「ここからは、死者の国が見える」
シズクが、静かに言う。
「アンデッドだけが見ることができる、あの世への入り口」
「どれが?」
「全部よ」
彼女は、窓の外をぐるりと見回す。
「海も、空も。
この境界線そのものが、『あちら』への扉みたいなもの」
言われてみると、確かに普通の夜景とは違う気がした。
いつか病院の屋上から見た星空よりも、はるかに深くて、遠くて、近い。
どこかで見た古い宇宙図鑑の挿絵そのもののような光景。
でも、それが「終わり」への入口だと思うと、不思議なほど怖くなかった。
「きれいだな」
ようやく、それだけを搾り出す。
「僕、怖くないよ」
呼吸は浅くなっている。
話すたびに、胸の奥がじんと熱くなる。
「だって、シズクがいるから」
シズクは、驚いたような、泣き出しそうな、複雑な顔をした。
「アンデッドは、泣かない」
彼女は、どこかに言い聞かせるように呟く。
「それが掟」
その言葉を口にした瞬間、彼女の目尻に、ひと筋の光が浮かんだ。
星の反射かと思った。
でも、それはゆっくりと頬を伝い、顎の先からぽたりと落ちた。
涙だった。
「でも、私はあなたのために泣ける」
震える声で、彼女は言った。
「千年、生きてきて。
無数の魂を送ってきて。
たくさんの『最後』を見てきたけど」
言葉が、少し途切れる。
「こんなふうに涙が出るのは、初めて」
その告白が、ひどく重く胸にのしかかる。
千年分の「涙の不在」が、一気にここで決壊しているみたいだった。
「陽斗」
シズクは、僕の隣にひざまずく。
冷たい手が、そっと僕の指を包んだ。
「私は、あなたの魂を食べない」
その宣告は、静かで、決然としていた。
言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
「……食べない?」
「あなたを、自由に天へ帰す」
彼女の指先が、ほんの少し震える。
「アンデッドとしての私の役目は、あなたの魂を食べて、自分の中で運び続けること。
そうすれば、あなたは忘却に飲まれない。
私の中で、永遠に生き続けられる」
「うん」
「でも、それは──私のための救いでしかない」
シズクは、悔しそうに唇を噛んだ。
「あなたの魂を『私のもの』にして、安心しようとしているだけ。
あなたの自由を奪って、『永遠に一緒だ』って自分を慰めているだけ」
その言い方は、あまりにも自分に厳しすぎた。
「だから、私は選ぶ」
彼女は、窓の外の夜の海を見つめる。
「あなたを、自由にする方を」
「でも、そうしたら僕たちは……」
言葉が続かない。
頭の中では、その先にある結論がはっきりしているのに、それを言葉にするのが怖かった。
「もう、会えない」
シズクが、代わりに口にする。
「少なくとも、この世界では。
アンデッドとしての私と、人間の魂としてのあなたは、二度と交わらない」
灯台のガラス窓に、彼女の横顔が映る。
その目は、涙の跡で赤くなっていた。
「それでもいい。
それが、あなたへの私の愛」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、喉の奥がぎゅっと熱くなる。
「自分の存在よりも、あなたの自由を選びたい。
たとえ、そのせいで、私がひとりに戻ったとしても」
「……ずるいな」
かろうじて、そう言った。
「そんなこと言われたら、僕も『食べてくれ』って言えなくなるじゃないか」
「それでいい」
シズクは、ゆっくりと笑った。
灯台の外では、遠い波の音が、夜の海岸線を洗っていた。
星々は、何も知らない顔で、ただ淡々と瞬き続けている。
終焉の崖での決断は、静かに、しかし確実に下された。
僕は、シズクの手を握り返した。
冷たいその手は、今まででいちばん、あたたかく感じられた。




