第5話:平安の約束から現代の病室まで、星を見上げ続けた魂が辿った千年の軌跡
それは、あまりにも唐突だった。
次に体が大きく揺れたとき、僕は霊柩車の後部にいた。
窓の外の景色は、雪。
白い世界。
街でも温泉街でもない、どこか別の場所。
「……シズク?」
呼びかけようとして、自分の声が出ていないことに気づいた。
喉が動かない。
舌も、唇も、重い。
まぶたすら、うまく上がらない。
音だけが聞こえてくる。
エンジン音。
タイヤが雪を踏みしめる音。
シズクの、荒い息。
「もう少し……」
彼女のかすれた声が、フロントから聞こえる。
「もう少しだけ、持ちこたえて」
僕の体は、ほとんど自分のものではないみたいだった。
重くて、冷たくて、遠い。
世界が、白と黒のモザイクに崩れていく。
◆
かすかな揺れのあと、霊柩車は止まった。
ふわり、と体が持ち上げられる感覚。
誰かの腕の中に抱えられている。
雪を踏む音。
きしむ木の階段。
軋む扉。
それらが、遠くで鳴っている。
やがて、柔らかな布の上に体が置かれた。
香の匂い。
古い木の匂い。
そして、どこかで嗅いだことのある、清め塩のような乾いた匂い。
「ここが、『境界』」
シズクの声が、頭上から降ってきた。
「生と死のあいだにある、神社」
ようやく、まぶたが開いた。
視界に入ってきたのは、木の天井だった。
梁がむき出しで、そこには古い注連縄がかかっている。
僕は、畳の上に寝かされていた。
枕元には、小さな紙垂が揺れている。
部屋の奥には、簡素な祭壇があり、その中央に古びた木箱が置かれていた。
箱の表面には、無数の文字が刻まれている。
「陽斗」
シズクが、僕の顔を覗き込んだ。
目の下の隈は濃く、唇の色も悪い。
それでも、その瞳だけは強く輝いていた。
「間に合って、よかった」
「……ここ、は」
「境界の神社。
生と死の境界線が、一番薄い場所」
シズクは、祭壇の前に膝をつき、慎重に木箱の蓋を開けた。
中には、巻物が一本、収められていた。
古い和紙が、かすかに黄ばんでいる。
「アンデッドの秘術が記されている」
シズクは、慎重に巻物を広げた。
そこには、見慣れない文字と、いくつかの図が描かれていた。
人の形。星の位置。月の満ち欠け。
それらが、一本の線で繋がれている。
「禁断の術だけど」
シズクは、僕を振り返る。
「これで、あなたの記憶が戻るかもしれない」
「記憶……」
「あなたの魂が、今までどこを巡ってきたか。
誰と約束をしてきたのか」
彼女の声は、いつになく慎重だった。
「本当は、こんなことするべきじゃない。
前世の記憶なんて、知らないままの方が楽だから」
「でも、君は──」
「私は、知りたい」
シズクは、はっきりと言った。
「あなたが誰なのか。
私が、何を待ってきたのか。
全部、はっきりさせたい」
祭壇の上に巻物を広げ、彼女は僕の側に戻ってくる。
「少しだけ、頭が痛くなるかもしれない」
「今さら、怖くないよ」
痛みには、もうだいぶ慣れていた。
シズクは、僕の額にそっと手を当てた。
冷たい指先。
その下で、脈が弱々しく打っている。
「陽斗。
目を閉じて」
言われるままに、瞼を下ろす。
彼女の唇が、額に触れた。
今度のキスは、魂を奪うためではなく──記憶を呼び覚ますためのものだと、直感した。
耳元で、聞き取れない呪文のような言葉が囁かれる。
古い歌。
祈り。
呼び声。
意識が、ふっと浮き上がった。
◆
闇の中に、ひとつの灯がともる。
最初の灯は、平安の村だった。
茅葺き屋根。
裸足の子どもたち。
遠くで鳴る太鼓の音。
若い武士の背中。
旅装束。
腰には刀。
肩には、疲れ。
その武士が、村はずれの小さな家に入る。
中には、病に伏せた一人の少女がいた。
長い黒髪。
白い小袖。
痩せ細った腕。
けれど、その瞳だけは、驚くほど強い光を宿している。
『来てくれて、ありがとう』
少女が微笑む。
武士は、黙って頷く。
村は、疫病に覆われていた。
誰もが恐れ、祈り、諦めていた。
武士は、少女の手を握る。
『怖くないの?』
『怖いさ』
でも──と、彼は続ける。
『あなたが一人で死ぬ方が、もっと怖い』
少女は、涙を浮かべながら笑う。
『来世で、会えたらいいね』
『会おう』
武士は、真剣な目で言う。
『来世でも、その次でも。
何度でも、必ず見つける』
少女の瞳が、ふっと優しくなる。
『じゃあ、約束』
小指同士が、そっと絡む。
それが、最初の「約束」だった。
◆
景色が変わる。
戦場。
血の匂い。
燃える村。
武士は、剣を振るう。
何度も傷を負い、何度も立ち上がる。
でも、星空の下に倒れたとき、彼の頭の中にあったのは、あの村の少女の顔だけだった。
『必ず、見つける』
最後の瞬間まで、その言葉だけが彼を支えていた。
やがて、その魂は闇に落ちる。
けれど、その闇は終わりではなかった。
◆
別の灯が、ともる。
江戸の町。
明治の工場。
昭和の教室。
平成の病室。
そのすべてに、「彼」はいた。
名前は違う。
顔も違う。
生きた時代も、環境も、まるで違う。
でも、同じものがひとつだけあった。
星を見上げる癖。
夜になると、理由もなく空を見上げる。
誰かを待っているのか、自分でも分からないまま。
でも、胸の奥には、いつもひとつの感覚があった。
*誰かと、約束をしている。*
誰かを、探している。
◆
別の灯。
川辺で、少女が亡くなる。
その魂を、誰かが抱きとめる。
白い手。
銀の髪。
赤い瞳。
『あなたは、呪われているのではない。
選ばれているのだ』
あのときの言葉が、遠くで響く。
少女は、アンデッドになる。
待つ者から、送り出す者へ。
でも、その心のどこかには、まだ残っていた。
『来世で、また会いましょう』
川辺の星空。
約束の言葉。
彼女は、それを手放せなかった。
◆
灯が、ひとつに重なる。
今。
病室から抜け出した夜。
国道で倒れた瞬間。
黒い霊柩車。
シズクの赤い瞳。
「死にに来たの?」という声。
あのとき、彼女はようやく気づいたのかもしれない。
何度も探して、何度もすれ違ってきた魂が、ようやく自分の前に現れたことに。
***
意識が、ゆっくりと戻ってくる。
木の天井。
香の匂い。
シズクの顔。
頬には、濡れた跡があった。
それが涙なのか、汗なのか、雨なのかは分からない。
「……覚えていた」
声が、かすかに出た。
「僕たち、約束をしていたんだな」
シズクは、ゆっくりと頷いた。
「来世で、また会おうって」
「ああ」
喉がひりつく。
「何度も、何度も、探してたんだな、僕は」
「そして、私は、待ち続けてた」
彼女の声も震えていた。
「でも、アンデッドは、人間を愛してはいけない」
シズクは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それが掟。
私たちは魂を食らい、送り出す存在であって、共に生きる存在ではない」
その掟の意味が、今になって重く胸にのしかかる。
彼女がどれだけ僕を待っていても。
僕がどれだけ彼女を探しても。
最後には、彼女は僕の魂を「食べなければならない」。
「シズク」
僕は、力を振り絞って手を伸ばした。
彼女の頬に触れる。
冷たい。
でも、その奥には、はっきりとした震えがあった。
「でも、僕たちは──何度も巡り会ったんだろ」
平安の村でも。
別の時代でも。
星図の部屋でも。
「それは、掟よりも強いんじゃないのか」
彼女の肩が、小さく震えた。
「だから私は、苦しい」
絞り出すような声。
「あなたの魂を食べれば、あなたは私の中で永遠に生きられる。
忘却に飲まれることはない。
ずっと、私の記憶の中で、あなたは星を見続けられる」
それは、たしかにひとつの「救い」だ。
「でも、それは本当のあなたではなくなる」
シズクは、目を閉じた。
「あなたの意志も、あなたの選択も、あなたの『今』も。
私の中の無数の記憶のひとつに、混ざってしまう」
外では、雪が降り始めていた。
しんしんと。
静かに。
時間の流れを、白く塗りつぶすように。
「私には、決断する時間がない」
彼女は、拳を握り締める。
「あなたの命は、もう……」
言葉の続きを、彼女は口にしなかった。
でも、分かっていた。
僕の時間が、本当に「境界」に立たされていることを。
「シズク」
できる限りの笑顔を作る。
最後に、泣き顔なんて見せたくなかった。
「僕は、後悔してないよ」
彼女の瞳が、揺れる。
「この旅は、僕の人生で最高の贈り物だった」
病院のベッドで迎えるはずだった「終わり」よりも。
何倍も、何十倍も、ましなんかじゃない。
比べものにならないくらい、豊かで、痛くて、眩しい時間だった。
「だから、あとは──君が決めていい」
彼女の中に僕を閉じ込めるのか。
それとも、僕を自由に手放すのか。
「君が楽になれる方を、選べばいい」
その言葉に、シズクはゆっくりと首を振った。
「楽になれる選択なんて、どこにもない」
雪が、社殿の屋根を静かに白く染めていく。
月明かりが、その雪を青く照らす。
生と死の境界に立つ神社で。
僕たちは、最後の選択を前に、ただ互いを見つめ合っていた。
彼女の赤い瞳の奥には、千年分の記憶と、千年分の迷いと──たったひとつの「約束」が、静かに灯っていた。




