第4話:雪の廃温泉で湯女の残した湯に浸かり、「天国みたいだ」と笑う夜
図書館の街を離れると、霊柩車は再び山へ向かった。
季節が一気に変わったかのように、窓の外の景色に白いものが混ざり始める。
はらはらと舞い落ちる雪片が、フロントガラスに貼りついてはすぐに溶けた。
「雪だ」
「山の上だからね。
ここは、湯女がいた温泉地」
「ゆめ?」
「『湯女』って書いて、『ユメ』って読む。
人々の疲れを、湯と一緒に引き受けるアンデッド」
シズクの言葉に合わせるように、遠くに湯けむりが見え始めた。
かつては賑わっていたであろう温泉街。
今は、閉まったままの旅館の看板と、色あせた観光ポスターだけが残っていた。
◆
霊柩車が止まったのは、その温泉街の一番奥だった。
大きな木造の旅館が、山肌にへばりつくように建っている。
看板の文字は半分剥がれ、「〇〇荘」の「〇〇」の部分だけが読めない。
「ここ」
シズクは迷いなく玄関に向かう。
引き戸は、鍵など意味をなさないほど朽ちていた。
中は暗く、かびた畳の匂いが鼻を刺す。
「湯女は、人間の疲労や病を、自分の中に引き受けていた」
廊下を歩きながら、シズクが説明する。
「温泉に浸かった人たちの、肩こりや腰痛。
重たい心や、治りかけの風邪。
そういうものを、少しずつ、自分の中に移してあげていた」
「そんなことしたら、湯女の方がボロボロになるんじゃないのか」
「実際、そうなったわ」
シズクは、あっさりと言う。
「でも、彼女はそれを望んでいた。
『少しでも楽になって帰ってもらえるなら、それでいい』って」
廊下の突き当たりの扉を開けると、露天風呂へ続く石畳の道が現れた。
外は、しんしんと雪が降り続いている。
その中で、ひとつだけ湯気を立てている湯船があった。
「……本当に、湯気出てる」
「言ったでしょう。
湯女の力で、この湯だけは、まだ温かい」
湯面から立ち昇る湯気が、雪と混ざり合って白いヴェールを作っていた。
「入ろう」
シズクは、当然のように言う。
「風邪引くぞ」
「あなた、もうそれどころじゃない病気でしょう」
「それもそうか」
脱衣所は、すでに半ば崩壊していた。
それでも、適当に荷物を置いて、服を脱ぐ。
冬の外気に触れた瞬間、全身に鳥肌が立った。
「早く入りなさい」
シズクは、先に湯船の縁に座り、足だけ湯に浸けている。
湯は、驚くほど温かかった。
足先がじんじんと痺れ、膝まで沈めると、全身がとろけそうになる。
湯船の縁に手をつき、ゆっくりと体を沈める。
「……あぁ」
声にならない息が漏れた。
温かさが、皮膚から、筋肉から、内臓の奥まで染み込んでいく。
さっきまで冷たかった手足の指先が、じわじわと熱を取り戻していく。
「どう?」
「天国って、こんな感じなのかな」
「天国なんて、行ったことないから分からない」
シズクは、肩まで湯に浸かりながら言った。
「でも、人間はよく『極楽浄土は蓮の湯船だ』なんて描写をするわね」
雪が、静かに降り続いている。
頭上には、曇り空。
それでも、湯気のヴェールの向こうに、うっすらと星の気配が感じられた。
胸に手を当てる。
心臓の鼓動は、確かに弱くなっている。
でも、不思議と恐怖はなかった。
隣で同じ湯に浸かっているシズクの存在が、その恐怖を和らげてくれているようだった。
「シズク」
「なに?」
「アンデッドって、どうやって人間の魂を食べるんだ?」
以前から聞いていた話を、改めて確かめたくなった。
「キスをする」
彼女は、あっさりと言った。
「それで、終わり?」
「それで、すべてが始まりで、終わり」
湯気の向こうで、彼女の赤い瞳が静かに光る。
「あなたたちは、最後の瞬間まで、感覚を持っている。
痛みも、恐怖も。
それを、できるだけ和らげるために」
「キス、か」
さっきの海辺の夜が、ふと頭をよぎる。
「それって、最後の最後まで優しいんだな」
「優しい……のかしら」
シズクは、少しだけ目を伏せる。
「私たちは、あなたたちの魂を食べる。
どれだけ優しい手段を用いても、結果は変わらない」
「でも、最後に誰かに抱きしめられるのは、きっと救いだよ」
自分の言葉に、少し驚く。
昔の僕なら、「キスで魂を食われる」なんて話を聞いたら、真っ先に逃げ出していただろう。
でも今は、違う。
「誰にも触れられずに、冷たいベッドでひとりで死ぬよりもさ。
最後に誰かが『ここにいる』って言ってくれるだけで、だいぶ違うと思う」
雪が、湯の表面に落ちてはすぐに溶けていく。
その一瞬の冷たさが、逆に湯の温かさを際立たせていた。
ふいに、シズクが僕のすぐ隣まで寄ってきた。
肩と肩が、湯の中で触れ合う。
「でも、あなたはまだ死なせない」
耳元で、低く囁かれる。
背筋に、温かいものが走った。
その言葉だけで、心臓の鼓動が少しだけ強くなる。
◆
その夜、僕たちは旅館の一室で布団を並べて眠った。
天井は低く、壁はところどころ剥がれていたが、布団はまだ十分に使える状態だった。
雪の音だけが、静かな部屋に降り積もっていく。
眠りは浅かった。
夜中、ひどい痛みで目が覚めた。
腹の奥。
あるいは胸の奥。
もはや、どこが痛いのか判別できないほどの、全身を貫く痛み。
「っ、あ……」
声を出すことすらできない。
体が勝手に丸まる。
布団を掴む指が、白くなる。
「陽斗?」
すぐ横から、シズクの声が飛んできた。
気配からして、彼女も眠っていなかったのかもしれない。
「どこが痛い?」
問いかけに、答えられない。
痛みは、場所を選ばず、全身を焼き尽くそうとしていた。
喉の奥から、勝手に呻き声が漏れる。
涙が、知らないうちに頬を伝っていた。
「……もう、そんな時間」
シズクの声が、震える。
「まだよ。
まだ、連れて行かない」
ベッドのきしむ音。
次に感じたのは、彼女の手が僕の頬に触れる冷たさだった。
「陽斗。
もう一度、私の血を飲む?」
以前と同じ問いかけ。
でも、今度は、その意味が前よりもずっと重く感じられた。
「これ以上は危険。
人間の体に、アンデッドの力を重ねすぎると──」
彼女は、一瞬言葉を切った。
「境界が壊れるかもしれない。
生と死の境目が、曖昧になってしまう」
「それって……」
痛みの合間を縫うように、かすれた声を絞り出す。
「君の方も、削れるんだろ」
「そうね」
シズクは、正直に頷いた。
「でも、あなたが『もう十分だ』って言わない限り、私はまだ諦めない」
その言葉が、痛みの中心に刺さる。
「……勝手だな」
「そうよ。
私は、ずっと勝手だった」
彼女は、自分の手首にそっと爪を立てた。
「陽斗。
もう一度、聞く」
冷たい手首が、僕の唇に触れる。
「まだ、生きたい?」
即答だった。
「……生きたい」
痛みで歪んだ視界の中で、それだけははっきりしていた。
シズクは、小さく頷いた。
「じゃあ」
鉄の味。
微かな甘さ。
彼女の血が再び舌に触れ、喉を通り、体中に広がっていく。
焼けるような痛みが、少しずつ、少しずつ、引いていく。
代わりに、強烈な疲労が押し寄せてきた。
「これ以上は、本当に危険」
シズクの声が遠くなる。
「もう、何度もはできない」
呼吸が落ち着いてくると、僕は、彼女の手を探して掴んだ。
冷たい指。
それが、震えているのが分かった。
「……もう、十分だよ」
かすれ声で、笑う。
「こんなに素晴らしい時間を、ありがとう」
湯女の温泉。
笑姫の観覧車。
潮女の海。
鉄姫のホーム。
木霊の樹海。
知姫の星図。
病院の天井だけだった僕の世界に、こんなにも多くの景色が重ねられている。
「僕の人生は、本当は三ヶ月じゃなくて、十八年と、君と旅した日々で、ちゃんと完成してる」
シズクの肩が、小さく震えた。
「人間の魂を食べてきた私が」
押し殺したような声。
「今初めて、一つの魂を救いたいと思っている」
その告白は、痛みよりも強く胸に響いた。
雪の音だけが、静かに降り続ける。
僕は、彼女の手を握ったまま、意識を手放した。
互いの存在を確かめ合うように、ただ静かに。




