第3話:星を読む知姫の日記が示す、「来世でまた会おう」と誓った魂の軌道
翌朝、森を抜けると、世界は一変した。
雨は上がり、空は淡い曇り空。
アスファルトの道を霊柩車が走ると、路肩の水たまりがタイヤの下で光を弾いた。
「次は、街か?」
「半分、街。半分、墓場」
シズクは、曖昧な言い方をする。
「『記憶の図書館』。
知姫が住んでいた場所」
ナビも使わず、彼女は慣れた様子で細い路地へと車を滑り込ませていく。
やがて、古いレンガ造りの建物が見えてきた。
周囲のビルは、どれも最近のデザインで、ガラスとコンクリートでできている。
その中にぽつんと取り残されたその建物は、まるで時間から外れた島のようだった。
「……本当に、図書館なんだな」
入り口の上には、かすれた金文字で「市立〇〇図書館」と書かれたプレートがぶら下がっている。
ただし、「〇〇」の部分はすっかり錆びて読めなくなっていた。
「閉館になってから、二十年以上経っているはず」
シズクは、木製の重い扉に手をかけた。
ギィ、と古い蝶番が悲鳴を上げる。
中からは、埃と紙とインクの匂いが、濃密に溢れてきた。
◆
図書館の中は、薄暗かった。
高い天井から吊るされた照明は、すべて消えている。
外の光が、煤けたガラス窓を通して、ほこりっぽい空気の中に筋を描いていた。
本棚は、天井に届きそうなほど高く、隙間なく本が詰め込まれている。
背表紙は色あせ、破れ、歪み、ところどころ抜け落ちている。
「誰もいないのか?」
「人間はね」
シズクは、通路をゆっくりと歩き始めた。
「ここに『いた』人たちは、もう別の場所で眠っている。
でも、本はまだここにいる」
本棚の間を抜けるたび、わずかな風がページをめくる。
カサ……カサ……と紙の擦れる音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。
「知姫は、人間の書いた本をすべて読もうとしたアンデッド」
シズクの声が、本棚の迷路に柔らかく反響する。
「彼女は言っていた。
『人間は有限だからこそ、無限を想像できる』って」
無造作に積まれた本の山を、彼女は器用に避けて進んでいく。
「自分の命が有限だと知っているからこそ、『永遠の愛』とか、『終わらない物語』とか、『不滅の魂』なんてものを描ける。
それが、彼女にはたまらなく魅力的だったみたい」
「アンデッドは、不滅だもんな」
「だから、想像できないのよ。
『終わること』の重さを」
本棚の一角に、倒れた脚立が転がっていた。
その上には、開いたままの本が一冊、埃を被っている。
「星と運命」というタイトル。
「知姫は、どんな本が好きだったんだ?」
「なんでも読んでたけど、特に好きだったのは──星の本」
シズクは、迷いなく図書館の奥へと進む。
「ここ」
彼女が立ち止まった先には、古びた木の扉が一枚あった。
取っ手には、誰も読めない古い文字が刻まれている。
シズクが軽く押すと、扉はあっさりと開いた。
◆
中は、小さな部屋だった。
四畳半ほどの空間の壁一面に、星図と天文図が貼られている。
古い和紙に描かれた星座。
外国の言葉で書かれた星表。
手描きと思しき、日付入りの夜空のスケッチ。
天井にも、星図が貼られていた。
部屋全体が、夜空の内部に変わってしまったみたいだ。
「ここが、知姫の寝室」
シズクは、部屋の中央に置かれた小さな机に手を触れる。
「彼女は本を読み漁るだけじゃなくて、自分で星を観察して、記録していた。
人間の『星を見る目』に、興味があったから」
僕は、壁に貼られた星図のひとつに目を留めた。
「……これ」
思わず、声が漏れる。
そこには、北半球の星空が描かれていた。
ところどころに小さなメモが書き込まれていて、流星群の軌跡や、彗星の通り道が赤いインクで線として刻まれている。
その線の引き方が──見覚えがあった。
「どうしたの?」
「これ、僕が描いてたのと、すごく似てる」
病院のノートに書き込んでいた、僕なりの星図。
屋上から見える星の位置や、動きを、子どもの頃から何度も何度も描き写してきた。
その癖が、この星図にもあった。
星と星を結ぶ線。
メモの書き方。
重要そうな星にだけ印をつけるやり方。
「シズク」
「なに?」
「アンデッドになる人間って、選ばれるのか?」
胸のどこかで、嫌な予感と、妙な期待が交錯する。
「そうね」
シズクは、机の引き出しを開けながら言った。
「私たちと『縁』のある魂だけが、アンデッドになる資格を持つ。
偶然、という言葉で片付けられないほどの繋がりがある人たち」
「縁、ね……」
「誰かを待っていた者。
誰かに待たれていた者。
何度も同じ場所に引き寄せられる者」
彼女は、引き出しの奥から一冊の古い日記を取り出した。
革表紙のノート。
角はすり減り、ところどころ糸がほつれている。
「これが、知姫が人間だった頃の日記」
シズクは、机の上に日記を置いた。
最初のページには、達筆な文字でこう書かれていた。
『わたしは星を読む者として生まれた。
星々の運行から、人々の運命を読み解き、道を指し示す者として』
「占星術師、か」
「そう。
でも、彼女は次第に気づいていった。
『どれだけ星を読んでも、すべての運命は救えない』って」
ページをめくるたび、短い記録が目に飛び込んでくる。
『〇月〇日 北の空に、かつて見たことのない輝き。
この光は、誰かの誕生か、それとも終焉か』
『〇月〇日 夜空は語る。
けれど、人は耳を塞ぐ。』
『〇月〇日 あの人の星は、すでに傾いていた。
伝えることができなかった。』
文字は、日に日に掠れていく。
インクの色も、濃い黒から、薄墨のような色に変わっていた。
最後のページ。
そこには、こう書かれていた。
『星は、私たちに語りかける。
今生だけでなく、来世のことも。
来世でまた会おう。
星の下で』
震える指で、その行をなぞる。
「シズク」
「なに?」
「僕たちって──前世で会ったことがあるの?」
ずっと心のどこかで感じていた違和感。
初めて会ったはずなのに、シズクの声や仕草に、妙な懐かしさを感じていた理由。
それが、言葉になった瞬間だった。
シズクは、少しのあいだ日記を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「あると思う」
彼女の声は、かすかに震えていた。
「確かな記憶じゃない。
でも、断片は残ってる」
赤い瞳が、壁の星図のひとつをじっと見つめる。
「平安の村で。
疫病に倒れた私を、看取ってくれた人がいた。
旅の武士だった」
それは──昨日、古城で見た夢の景色と、ぴたりと重なった。
「彼は、私に言ったの。
『来世で必ず見つける』って」
喉が、乾く。
「そのとき、私も言った。
『来世で、必ず会いましょう』って」
図書館の外で、風が窓を揺らす音がした。
「その魂が、何度転生しても、私のところに戻ってくる気配があった。
でも、人間はすぐに死んでしまう。
見つけても、またすぐにいなくなる」
シズクの指先が、机の端を強く掴む。
「それでも私は、待ち続けた。
川辺で待っていたときの感覚を忘れられなかったから」
「じゃあ……」
声が震える。
「僕が、その『武士』の、生まれ変わりかもしれない、ってことか」
「そうかもしれない」
シズクは、ゆっくりとこちらを見た。
「少なくとも、あなたの魂は、私が知っている『彼』と、よく似ている。
星の見方も。
死を前にしたときの目も」
胸の奥で、なにかが爆ぜたような感覚。
運命、という言葉を、安易に使いたくはなかった。
でも、それ以外にこの奇妙な符合を説明する言葉が見つからなかった。
「……僕は、どうすればいいんだろうな」
自嘲気味に笑うと、シズクも少しだけ笑った。
「今は、何もしなくていい。
ただ、ここにいるだけで」
窓の外の曇り空が、少しずつ色を変え始めていた。
夕暮れが近い。
「屋上に行きましょう」
シズクが、ふっと立ち上がる。
「知姫がよく星を見ていた場所」
◆
図書館の屋上は、思ったよりも広かった。
錆びた手すり。
ひび割れたコンクリート。
ところどころに、苔が生えている。
空は、雲に覆われていた。
それでも、西の地平線のあたりが、うっすらと赤く染まり始めている。
「ここから、星が昇るのをよく眺めてた」
シズクは、手すりにもたれかかる。
「知姫と一緒に」
「一緒に、か」
「彼女は、星を『読む』。
私は、星を『見る』。
そうやって、よく夜を明かした」
風が、彼女の銀髪を揺らす。
「陽斗」
「ん?」
「あなたは、これから先のことを考える?」
難しい問いだった。
余命三ヶ月。
その言葉は、まだどこか現実感がなかった。
でも、体は確実に限界に近づいている。
「……考えないようにしてる」
正直に言った。
「考えたら、怖いから?」
「怖いのもあるけど」
曇り空を見上げる。
「これまでも、ずっと『先のこと』は考えられなかったからな。
来年のこととか、成人した自分の姿とかさ。
想像しても、すぐに『いや、無理か』って思っちゃう」
「今は?」
「今は──」
言葉を探す。
「今の一日を、ちゃんと使い切りたいって思ってる」
図書館の屋上で、曇り空の向こうの星を待つ。
そんな時間が、かつての僕には考えられなかった贅沢に思えた。
「あなたは、何度も私を探してくれたのかもしれない」
シズクが、ぽつりと呟く。
「でも、私は気づかなかった。
あるいは、気づいても、手を伸ばせなかった」
彼女の声に、かすかな悔いが混じっていた。
「だから今度は、私が探す番。
あなたが歩ける限りの時間を、隅々まで探す」
「……星占いみたいだな」
「知姫も言ってたわ」
シズクは、小さく笑う。
「『星は私たちに語りかける。来世でまた会おう』って」
雲の切れ間から、ひとつ、星が顔を出した。
それは、やけに明るく見えた。
僕とシズクは、並んでその光を見上げた。
過去と、今と、これからが、ほんの少しだけ一本の線で繋がったような気がした。




