第2話:誰かを安心させようとする笑みを、初めて見せた夜の洞窟
樹海の奥で、風が強くなった。
雨粒が、葉を叩く音が増す。
「どうして?」
シズクの声は、静かだった。
「どうして、そんなに私と一緒にいたいの?」
質問の意味くらい、分かっているはずなのに。
改めて言葉にしようとすると、喉の奥がひどく乾いた。
「……シズクと過ごす時間が、僕の人生で一番輝いているから」
冗談でも、比喩でもなく。
ただ、そのままの事実として。
「病院のベッドの上で、ただ天井を見てた時間よりも。
医者の顔色をうかがってた時間よりも。
母さんの目を見られなくて、俯いてた時間よりも」
楠の幹が、低くうなったような気がした。
「君とバカみたいな話をしたり、星を見たり、心霊スポットを歩いてる時間の方が、ずっと『生きてる』って感じがするんだ」
雨が、頬を打つ。
それが涙かどうか、自分でもよく分からなかった。
しばらくの沈黙が、樹海を満たした。
やがて、シズクは小さく息を吐いた。
「そう」
彼女の声は、少しだけ柔らかかった。
「なら、今はそれでいい」
「今は?」
「人間の気持ちは、すぐ変わるから」
シズクは、楠の幹に手を当てる。
「でも、その言葉はこの木が覚えてくれる。
あなたがここで、そう言ったこと」
楠の葉が、ざわりと揺れた。
無数の石塔の上に、細かな水滴が跳ねる。
「……夜になったら、雨宿りできる場所に案内する。
ここで眠ると、誰かの夢を見過ぎて、頭が壊れるかもしれないから」
「そんな笑えない冗談やめろ」
「冗談じゃないわ」
彼女はあっさりと否定した。
◆
樹海の中ほどに、小さな洞窟があった。
岩肌がぽっかりと口を開け、内部は人が二人横になればいっぱいになる程度の空間だ。中は意外なほど乾いていて、外の雨音だけが遠くから聞こえてくる。
「この洞窟も、木霊がよく使ってた」
シズクは、バックから取り出した薄いブランケットを敷きながら言う。
「迷った人間を、ここで一晩休ませてから、下界まで送り届けたりしてた」
「送還サービス付きの樹海か」
「ビジネスにしたら儲かりそうね」
そんな軽口を交わしながらも、彼女の表情はどこか遠くを見ていた。
ブランケットの上に腰を下ろすと、全身の疲労がどっと押し寄せてきた。
さっきまで張り詰めていた何かが、一気に緩んでいく。
洞窟の中は暗いが、シズクが持ってきたランタンの淡い光が、岩肌をぼんやりと照らしていた。
「シズク」
「なに?」
「アンデッドが食べた魂って、どうなるんだ?」
ずっと聞きたかった質問を、ようやく口にする。
シズクは、一瞬だけ目を伏せた。
「私たちの中で、その人の記憶は生き続ける」
ランタンの光が、彼女の横顔に影を落とす。
「死ぬ瞬間の景色も。
その人が最後に考えたことも。
子どもの頃の思い出も。
全部、断片的に、私の中に溜まっていく」
「全部……覚えてるのか?」
「全部を、はっきりとは無理。
でも、きっかけがあれば、すぐに蘇る」
彼女は、岩壁にもたれかかる。
「例えば、雨の匂いを嗅ぐと、昔溺れた子の記憶が浮かぶ。
どこかの街角を歩いていると、そこで事故に遭った誰かの視界が重なる。
夕焼けを見ると、戦場で死んだ兵士の最後の空が混ざる」
それは、想像しただけで目眩がしそうな感覚だった。
「……それって、孤独じゃないのか?」
僕は、思わず口をついて出た言葉を止められなかった。
「自分一人でいるはずなのに、頭の中には何百人もの『声』があるって。
誰の記憶が自分のものなのか、分からなくなったりしないのか」
「とても、孤独よ」
シズクは、ためらいなく言った。
「だから、私たちは旅を続ける」
「旅?」
「新しい風景を、その魂たちに見せるために」
彼女は、ランタンの光を見つめる。
「私の中で眠っている人たちにね。
『こんな海があった』とか、『こんな森がある』とか。
『あなたが見られなかった星は、こうして昇る』って、教えてあげる」
その言葉には、静かな情熱のようなものがあった。
「それに──」
シズクは、少し間を置いて続けた。
「そうしていないと、私自身が壊れてしまうから」
「壊れる?」
「誰の記憶が誰のものか、分からなくなるの。
『これは私の感情か』『誰かの感情の残り香か』、境界が曖昧になっていく」
ランタンの炎が、ひときわ強く揺れた。
「だから、私はいつも確認している。
『これは火鳥の記憶』
『これは潮女の記憶』
『これは鉄姫の』
『これは笑姫の』」
彼女は、赤い瞳をこちらに向ける。
「そして──『これは、陽斗の』って」
胸の奥が、じんと熱くなった。
僕の中途半端な人生の記憶が、彼女の中でどんな色をしているんだろう。
病室の天井。夜の病院の廊下。屋上から見た星。
そこに、今の旅の光景も少しずつ塗り重ねられている。
「……シズク」
「なに?」
「僕の記憶も、大切に運んでほしい」
ランタンの光の中で、彼女の表情が少しだけ揺れた。
「僕が死んだあと。
君が僕の魂を食べたとき。
僕が見たものを、ちゃんと誰かに見せてやってほしい」
「誰かに?」
「君の中にいる、誰かにさ」
僕は、ゆっくりと横になった。
洞窟の天井に、うっすらと苔が光っている。
「僕が見た星空を、誰かの目にも重ねてやってほしい。
『この星は、陽斗っていう馬鹿が見上げてた星だ』って」
自嘲気味に笑うと、シズクも小さく笑った。
「馬鹿っていう自己紹介、便利ね」
「事実だろ」
「そうね。
でも──」
ふいに、彼女の手が僕の肩にそっと触れた。
冷たいはずのその手が、今日はほんの少しだけあたたかく感じる。
「約束する」
シズクは、確かな声で言った。
「あなたの記憶は、ちゃんと私が運ぶ。
どこかの誰かが見る景色に、少しずつ混ぜていく」
雨音が、洞窟の外で優しく鳴っている。
そのリズムが、心臓の鼓動と重なっていく。
「だから──安心して、眠って」
彼女の囁きに従うように、瞼が重くなった。
闇に落ちる直前、ふと気づいた。
シズクが、微笑んでいた。
心の底から、誰かを安心させようとするような笑みを。
それを見たのは、はじめてだった。




