第1話:雨の樹海と木霊の楠が、迷った魂と「生きる意味」をそっと受け止める夜
雨の匂いは、病院の消毒液とはまるで違っていた。
ワイパーがフロントガラスを一定のリズムで叩き、飛び散った水滴が夜のヘッドライトに短い虹を作る。霊柩車は、舗装の荒い山道をゆっくりと登っていた。
「ずいぶん山奥だな」
後部座席の窓ガラスを伝う水の筋を眺めながら、僕は呟いた。
「そうね。ここは、人間があまり来ない場所だから」
運転席のシズクは、視線を前に向けたまま言う。
「『樹海』って呼ばれている森の一角。
ここは、『木霊』っていうアンデッドの領域」
「自殺の名所、ってやつか」
「人間はすぐそう呼びたがるけれど」
シズクは、少しだけ肩をすくめた。
「本当は、迷った魂のための、静かな玄関よ」
◆
山道の終点で、霊柩車はエンジンを止めた。
ドアを開けた瞬間、冷たい雨が容赦なく降りかかる。霧を含んだような細かな雨粒が、肌にまとわりついて離れない。視界の半分以上が、濃い緑と灰色のヴェールで塗りつぶされていた。
「滑るから、気をつけて」
シズクが差し出した黒い傘に入り込み、僕たちはぬかるんだ獣道を歩き出した。
木々は異様なほど背が高く、幹の間隔は狭い。頭上には枝葉の天蓋が広がり、空はほとんど見えなかった。
足を踏み出した瞬間──
胸の奥で、何かが微かに震えた。
木々の息。
土の中で水が流れていく感覚。
葉に落ちた雨粒が、重さを増してから弾ける寸前の、わずかな張り。
そんなものが、一度に押し寄せてくる。
「……なんだ、これ」
思わず足を止めると、隣のシズクがちらりとこちらを見た。
「感じる?」
「ああ……。なんか、森の……呼吸、みたいな」
「それが、アンデッドの感覚」
彼女の声は、しとしとと降る雨に溶け込むように柔らかかった。
「生きているものと、死にかけているもの、その境目の震えを感じ取れる。
木々や草花もね。彼らも、生と死のあいだで、常に揺れてる」
僕は、すぐ横の大木の幹にそっと手を当ててみた。
濡れた樹皮はひんやりとしているのに、その奥からは、ゆっくりとした鼓動のようなものが伝わってくる。
「……生きてるんだな」
「当たり前でしょう」
シズクは、少しだけ楽しそうに笑った。
「人間は、自分以外の生き物の『生きてる』を、すぐ忘れるから」
雨音が、徐々に強くなる。
それでも、木々の葉がクッションになって、地面に届く頃には柔らかな囁き声に変わっていた。
森の奥へ、さらに進む。
時間の感覚が、薄れていく。
時計も、電波も、この場所には意味を持たない。
「……なぁ、シズク」
「なに?」
「樹海ってさ。怖いイメージしかなかったけど」
僕は、周りを見回しながら言った。
「ここ、変に落ち着くな」
「そう?」
「うん。なんか、うるさいくらい静かでさ」
自分でもうまく言えない。矛盾した感覚。
でも、病院の無音の静けさとは違う、満ちた静寂がここにはあった。
「それは、たぶん木霊のおかげ」
シズクは、前方を指差した。
「もうすぐよ」
◆
森の中で、そこだけぽっかりと空が開けていた。
巨大な一本の楠が、そこに立っていた。
他の木々よりもひときわ太く、高く、幹には幾重もの年輪が刻まれている。
雨に濡れた葉は、墨のような深い緑色をしていた。
その根元には──
無数の小さな石塔が、ひしめき合うように置かれていた。
ひとつひとつは、掌に乗るほどの大きさだ。
丸いもの、角張ったもの、苔むしたもの、ひび割れたもの。
手作りのような、不揃いな塔が、楠の周囲をぐるりと取り囲んでいる。
「……これ、全部」
「ここで、自ら命を絶った人たちのための印」
シズクは、石塔のひとつにそっと指先を触れた。
「木霊が作った。
あるいは、彼女に導かれた誰かが、置いた」
雨に濡れた石は、ひんやりとしている。
でも、その内側には、さっき触れた木の幹と同じような、微かな震えがあった。
「木霊はね、この樹海で命を絶った人たちの魂を浄化していた」
シズクは、楠を見上げる。
「彼女は言っていたわ。
『生きる意味を見失った人間を責めてはいけない。
彼らは私が導く』って」
雨が、石塔の上で小さな輪を描く。
それが波紋になって、じわりと広がっていく。
「ここで死んだ人間たちの多くは、誰にも見送られなかった。
家族にも、友人にも、知られないまま、森に消えていった」
シズクの声には、わずかな痛みが滲んでいた。
「だから木霊は、せめて彼らの『最期の場所』だけでも記憶しようとしたの」
彼女は、別の石塔に手を当てる。
その瞬間──かすかな青白い光が、石の中から滲み出した。
ほとんど目を凝らさないと分からないほどの、淡い光。
それでも、そのひとつひとつが確かに「誰か」の名残だと、直感した。
「彼らの記憶は、この森に溶け込んでいる」
シズクの言葉に合わせるように、楠の葉がさらさらと揺れた。
何十、何百という「声」が、雨音の中に混じって聞こえてくる気がした。
叫びでも、呻きでもない。
ただ、そこにいたという「存在の痕跡」。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
*生きる意味を見失った人間を責めてはいけない。*
その言葉が、静かに染み込んでくる。
僕は、石塔のひとつに手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、ひどく短い映像が、頭の中をかすめていく。
電車の揺れ。
夜の会社のデスク。
冷えた缶コーヒー。
帰れない駅のホーム。
誰かの、一瞬。
そして、その「続き」がここで途切れたのだと分かる。
「……シズク」
「なに?」
「生きる意味って、なんなんだろうな」
自分でも、安っぽい問いだと思う。
宗教本か哲学書の最初のページみたいな言葉。
「それが分かってたら、私たちの仕事はないわ」
シズクは、さらりと言った。
「ただひとつ言えるのはね。
意味を見失ったこと自体が、『罪』じゃないってこと」
彼女は、雨に濡れた髪をかき上げる。
「人間は、そんなに強くない。
いつだって、少しのきっかけで折れてしまう。
折れたことを責めるのは、残された者の『都合』よ」
言葉のひとつひとつが、やけに重く感じられる。
*じゃあ、僕はどうなんだろう。*
家族を置いて、勝手に病院を出た僕は。
ここに来なければ、病室で静かに死ねたのかもしれない僕は。
それを考えた瞬間、胸の奥に別の痛みが走った。
父と母の顔が、ふと頭に浮かぶ。
僕の失踪を知らされて、どんな顔をしているだろう。
「家に、帰りたい?」
シズクの問いは、唐突だった。
雨の音に紛れていたはずなのに、その声だけが妙にはっきりと耳に届いた。
「……分からない」
正直に言う。
嘘をついても、この森の湿った空気が、すぐに見抜いてしまいそうだった。
「父さんと母さんが、今どうしてるのかは気になる。
悲しんでるのか、怒ってるのか、呆れてるのか」
石塔から手を離し、空を見上げる。
厚い雲に隠れて、空の色は分からない。
「もしかしたら、少しだけ、ほっとしてるかもしれない」
「ほっとしてる?」
「医療費のこととかさ。
これ以上、僕にお金を使わなくて済むって。
罪悪感もあるだろうけど、同時に、どこかで軽くなってる部分もあるんじゃないかって」
そう考えてしまう自分が、一番嫌だった。
「今さら帰って……『ただいま』って言ってもさ。
何も、変えられないだろ」
僕は、握りしめた拳をゆっくり開いた。
「だったら、このまま旅を続けたい。
君と、一緒に」




