第5話:月姫の古城で交わした、命を分け合う禁忌の儀式と、削れた存在の行方
石の冷たさが、背中越しに伝わってきた。
目を開けると、そこは知らない天井だった。
病院の白い天井ではない。
暗い石造りのアーチ。所々に亀裂が走り、蔦が絡みついている。
「……ここ、どこだ」
声は、かろうじて出た。
体が、いつもよりさらに重い。
指先に、ほとんど力が入らない。
呼吸も浅く、肺に入る空気の量が少ないのが分かる。
「古城の跡よ」
すぐ傍らから、聞き慣れた声がした。
シズクが、石の柱に寄りかかるように座っている。
その顔には、普段見せないほど明確な疲労の色が浮かんでいた。
「ここは、『月姫』って呼ばれていたアンデッドの住処だった場所。
アンデッドたちが集まって、儀式を行った聖地でもある」
僕が寝かされているのは、石でできた祭壇の上だった。
周囲には、崩れかけた石壁と柱。
天井の一部は抜けていて、そこから満月の光が真っ直ぐ祭壇の上に降り注いでいる。
「……連れてきた、のか」
「ええ。
観覧車の上から、ここまで」
「どうやってだよ」
「車で」
シズクは、当然のように言う。
「運ぶの、大変だったんだから」
冗談めかしているが、その声にも表情にも、笑いの気配はなかった。
「ごめん」
「だから、謝らないでって言ってるでしょう」
彼女は、少しだけ眉をひそめた。
「あなたが謝るたびに、私の方が悪いことをしている気分になる」
「実際、悪いことしてるんじゃないのか?」
「そうね。
これからもっと悪いことをするつもり」
シズクは、ゆっくりと立ち上がった。
「ここは特別な場所。
月姫が残した『儀式』の力が、まだ少しだけ残っている」
満月の光が、祭壇の縁を白く照らす。
「陽斗。
少しだけ、眠って」
彼女は、そう言って身をかがめ、僕の額にそっと唇を触れさせた。
冷たいキス。
でも、その冷たさは、不思議と恐怖を呼ばなかった。
「すぐに、終わるから」
その声が、遠くに響く。
視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
それは、死の訪れに似ているのかもしれない。
でも、その暗闇は、どこか懐かしい手触りをしていた。
◆
夢を見た。
平安時代の装束を着た少女が、川辺に座っている。
黒髪を長く垂らし、白い小袖の裾を濡らしながら、彼女はじっと川面を見つめていた。
夜空には、無数の星。
水面には、その星が揺れて映っている。
少女は、誰かを待っていた。
その表情は、寂しさと期待と諦めが混ざった、複雑なものだった。
『来ない、のね』
彼女は、誰にともなく呟く。
『でも、約束したから。
私は、待つ』
川の水音が、静かに流れていく。
『来世で、また会いましょう』
少女は、そう言って微笑んだ。
その微笑みは、どこかで見たことがある気がした。
そのまま彼女は、ゆっくりと立ち上がり、川の中へ歩き出した。
水が裾を濡らし、腰を越え、胸を越える。
『必ず、見つける』
どこかで、別の声がした。
男の声。
旅装束を纏った若い武士が、村はずれの道で倒れかけの少女を抱きとめている。
『来世でも、その次でも。
何度でも探す』
少女は、嬉しそうに泣きながら頷いた。
疫病。
焼ける村。
祈り。
アンデッドの手。
断片的な映像が、渦を巻くように流れていく。
川面に映る星が、一瞬だけ形を変える。
その中に、自分の顔が見えた気がした。
◆
目を覚ますと、満月はまだ空にあった。
でも、体の中を満たしていたあの重さは、驚くほど薄れていた。
呼吸が、さっきよりずっと楽になっている。
指を握ると、ちゃんと力が入る。
祭壇から上半身を起こすと、シズクがすぐ背後の石柱にもたれかかって座っているのが見えた。
彼女の顔色は、ひどく悪かった。
白い肌が、さらに血の気を失っている。
「……何をしたんだ」
声は、予想以上にしっかり出た。
シズクは、ゆっくりとこちらを見た。
赤い瞳の光は、いつもより少し淡い。
「私の力の一部を、あなたに与えた」
彼女は、隠すことなく言った。
「この場所の力を借りて。
月姫が残した『儀式』を使って」
「儀式……」
「アンデッドの力を、人間に分け与える禁忌の術」
彼女は、淡々と続ける。
「そうすれば、その人間は少しだけ長く生きられる。
でも、そのぶん、私の方の『存在』が削られる」
その説明は、あまりにも簡潔だった。
それでいて、あまりにも重かった。
「なんで、そんなこと……」
「言ったでしょう」
シズクは、弱々しく笑う。
「あなたとの旅を、もう少し続けたかったから」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「それだけ、のために?」
「それだけ、が大事なのよ」
彼女は、空を見上げた。
「私にも、時間の制限ができた。
あなたに力を分け与えたことで、私もいずれ『存在の忘却』に近づくかもしれない」
「……馬鹿じゃないのか」
思わず出た言葉に、シズクは肩をすくめる。
「影女のこと、愚かだって言ってたくせに」
「自覚はあるわよ」
彼女は、素直に認めた。
「でも、千二百年生きてきて、ようやく分かったの。
『愚かさ』と『愛しさ』は、けっこう近いところにあるって」
満月の光が、彼女の銀髪を白く染める。
その髪は、どこか弱々しく揺れている。
「シズク」
「なに?」
「ありがとう」
言葉にしてみると、それは驚くほど軽かった。
でも、その軽さの中に、今持てる限りの重みを込めた。
「僕のために、自分を削るなんてさ。
正直、腹立たしいくらい嬉しい」
シズクは、一瞬きょとんとした顔をして、それからふっと笑った。
「変な人間」
「お互い様だろ」
祭壇から降り、僕は彼女の隣に腰を下ろした。
石の床は冷たい。でも、彼女の肩は、かすかにあたたかかった。
「僕は、特別なんだろ」
「そうよ」
「じゃあ、せっかく特別扱いされたんだ。
最後まで付き合うよ」
空には、満天の星。
その中で、満月だけが異様に明るく輝いていた。
「僕たちは、同じ時を生きてるんだろ」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。
「君の時間が削られた分だけ、僕の時間が伸びてる。
それなら、その時間を一緒に使うのが筋だろ」
シズクは、しばらく何も言わなかった。
風が、古城の壁を撫でる音だけが聞こえる。
「……そうね」
やがて、彼女は小さく頷いた。
「一人で長く生きるより、誰かと短く生きる方が、いいのかもしれない」
「影女みたいに?」
「そう。
あのときは『愚か』だと思ったけど、今は少しだけ、分かる気がする」
東の空が、わずかに白み始めていた。
夜と朝の境目が、ゆっくりと城壁の向こうを染めていく。
「陽斗」
「ん?」
「あなたは、これから先、どれだけの星を見たい?」
その問いに、即答はできなかった。
これまでの僕なら、「そんなに見なくていい」とか、「もう十分だ」とか、適当なことを言ってごまかしていたかもしれない。
でも今は、違った。
「……できるだけ、多く」
それが、今の僕の正直な気持ちだった。
「病院の屋上から見上げるだけじゃない星空を。
いろんな場所で、いろんな空で、いろんな誰かと」
シズクは、ゆっくりと立ち上がった。
朝焼けが、彼女の銀髪を赤く染め始める。
その姿は、まるで燃える炎と月光が混ざり合ったようだった。
「じゃあ、行きましょう」
彼女は、右手を差し出した。
その手は、以前より少しだけ冷たかった。
でも、迷わず僕はその手を取る。
指と指が絡む。
その接点から、かすかな鼓動が伝わってくる気がした。
「どこへ?」
「まだ挨拶してないアンデッドが、たくさんいる」
シズクは、東の空を眺めながら言う。
「木霊。
知姫。
湯女。
それから──境界にいる、神社の主」
名前を聞くだけで、胸が高鳴る。
それが恐怖なのか、期待なのか、自分でも判別できない。
「陽斗」
「なんだよ」
「あなたの心臓の音、さっきよりずっと綺麗になった」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「あんまり綺麗だと、食べるのがもったいなくなる」
「簡単に食べるって言うな」
「約束だから」
そう言いながらも、その声には、前とは違う迷いの影があった。
朝日が、古城の石壁を照らし始める。
夜と昼の境界で、僕とシズクは指を絡ませたまま、新しい一日の始まりを迎えた。
終わりに向かう旅は、同時に始まりへと続いている。
僕たちの「夜葬紀行」は、まだ、終わらない。




