第3話:忘れられた幽霊駅と、迷子たちを見送る『鉄姫』の祠
海を離れると、霊柩車はふたたび街へと向かった。
高速道路を戻り、都市へ近づくほど、夜の闇はネオンと街灯に侵食されていく。
ビルの窓、コンビニの光、信号の赤と青。
死の匂いが薄くなり、かわりに「生活」の音が増えていく。
「都会も、たまには悪くない」
シズクが、珍しくそんなことを口にした。
「心霊スポットは、田舎だけの特権じゃないのよ。
人が多い場所ほど、『忘れられた場所』も増える」
「忘れられた、場所?」
「ビルの谷間の神社。
誰も乗り降りしないバス停。
そして──」
彼女は、ウインカーを出して細い路地へと入っていく。
「地下鉄の、幽霊駅」
◆
人気のない駅前通りから少し外れた場所に、古びたビルがあった。
シャッターは閉まり、看板は色あせている。
そのビルとビルの隙間に、不自然なほど新しい鉄製の扉がひっそりと立っていた。
シズクは慣れた様子で、その扉に手をかける。
「鍵は?」
「いらないわ。
ここは、もう誰のものでもない」
扉は、驚くほどあっさりと開いた。
内側には、古いコンクリートの階段が、地下へと続いている。
照明はついていない。
ぽっかりと開いた暗闇が、口を開けて待っていた。
「行きましょう」
シズクは、懐中電灯をひとつ取り出し、スイッチを入れる。
白い光が階段を照らし、長い影が壁に伸びる。
「……これ、普通に不法侵入じゃないのか?」
「幽霊駅に法律は適用されないわ」
根拠のない理屈をさらりと言いながら、彼女は階段を降り始めた。
僕も観念して、その背中を追う。
足音が、コツン、コツンと一定のリズムで響く。
階段はかなり深い。
息が上がり、胸の奥がじんと痛み始める。
「大丈夫?」
「……まだ、平気」
自分でも少し驚くくらい、本当に「まだ平気」だった。
海辺の夜、影女の旅館の湯。
それらが、ほんの少しだけ、僕の体を保ってくれているのかもしれない。
階段を降り切った先には、長いコンクリートの通路が広がっていた。
壁には、ところどころ古い広告のポスターが貼られている。
「新線開通!」と書かれたポスターの日付は、僕の生まれるずっと前のものだった。
「……ここ、本当に地下鉄の跡?」
「そう。
計画だけはあった路線。
途中まで工事されたけれど、経済状況とか色々あって、結局開通しなかった」
シズクは、懐中電灯の光を前方に向けながら説明する。
「でもね、ここには『駅』だけは作られていたの。
電車が来る予定だったホーム。
誰かが乗り降りするはずだった場所」
「誰も使わなかった、駅……」
「正確には、人間が『正式に』使わなかった駅、ね」
シズクは、意味ありげに付け加える。
「ここには、『鉄姫』っていうアンデッドがいたから」
「鉄の、姫?」
「彼女は、鉄路の守り手だった。
地上でも地下でも、線路沿いで死んだ人たちを、静かに見送っていた」
線路事故。飛び込み自殺。ホームからの転落。
その言葉たちが、頭の中に浮かぶ。
「彼女はね、地中の暗闇の中で、迷子になった子どもたちをよく助けていた。
地下鉄って、子どもには迷路みたいでしょう?
乗り換えを間違えたり、親とはぐれたり」
シズクの声が、コンクリートのトンネルに柔らかく反響する。
「人間だった頃、鉄姫は子どもに恵まれなかったらしいの。
だから、迷子の子どもを見ると、放っておけなかった」
通路の先から、冷たい空気が流れてくる。
懐中電灯の光が届く限界で、暗闇が濃く揺れていた。
「アンデッドって、みんな元人間なのか?」
僕は、前を歩くシズクの背中に問いかける。
「半分くらいは、そうね。
人間だったときに、何か『境界』を覗き込んでしまった人たち。
死にかけた者。
誰かの死を、異様に近くで見てしまった者。
神様や悪魔と取引しかけた者」
「じゃあ、もう半分は?」
「最初から、そういう存在として生まれた者」
シズクは、何でもないことのように言う。
「人間と違って、最初から『死』との関わりを前提に作られた魂も、世界にはあるの。
でも、そういう話は、今はいいでしょう」
彼女は、ふっと口を閉じた。
やがて、通路の先に開けた空間が見えてきた。
ホームだった。
両側をコンクリートの壁に挟まれた、長い長いプラットフォーム。
天井からは古びた蛍光灯がぶら下がっているが、どれも点いていない。
線路のあった場所は真っ黒で、底が見えない。
ホームの中央あたりに、小さな祠がぽつんと置かれていた。
「……なんで、こんなところに祠が?」
「ここが、『駅』だからよ」
シズクは祠に近づき、小さな花束を取り出した。
どこからそんなものを持ってきたのかと驚く暇もなく、彼女は花をそっと供える。
「鉄姫。
来たわよ」
その声に応えるようにして、ホームの空気がわずかに揺れた。
気のせいかもしれない。
でも、確かに何かが変わった。
「彼女は、この幽霊駅に『自分の駅』を作ったの。
迷子になった子どもたちが、たどり着けるように。
死んでしまった人たちが、『次の電車』に乗れるように」
祠の中には、小さな鉄道模型の車両が置かれていた。
赤いラインの入った銀色の車両。
現実のどの路線にも似ているようで、少し違う。
「でも、ここは開通しなかった。
人間たちは、この駅の存在を忘れた。
やがて、鉄姫も──」
シズクは、祠に触れたまま、静かに言葉を飲み込んだ。
僕は、ホームの端に近づき、線路のあった場所を覗き込む。
懐中電灯の光が底を照らす。
そこには、錆びたレールと、古い枕木が見えた。
「……シズク」
「なに?」
「君は、人間だった頃のこと、どれくらい覚えてる?」
自分でも、なぜ今その質問をしたのか分からなかった。
鉄姫の話が、自分たちのことにもかぶって見えたのかもしれない。
「ほとんど覚えていない」
シズクの答えは、意外なほど即答だった。
「村のこと。
家のこと。
両親の顔も。
疫病で次々に倒れていった人たちの名前も」
祠から手を離し、彼女はホームの端に腰を下ろす。
「でも、ひとつだけ、覚えている」
「なにを?」
「川辺で、誰かを待っていたこと」
彼女の赤い瞳が、遠くを見る。
「星が綺麗な夜だった。
私は、誰かを待っていた。
その人が来ないことを、どこかで分かっていながら」
「誰を、待ってたんだ?」
「覚えていない」
シズクは、小さく首を振る。
「でも、その人は戻ってこなかった」
ホームに、冷たい空気が流れる。
「それからのことは、曖昧。
川に飛び込んだのかもしれないし、違うのかもしれない。
気がついたら、私は『アンデッド』として目を覚ましていた」
地下空間の静けさが、彼女の言葉を際立たせる。
「アンデッドは、自分の過去をすべて覚えているわけじゃない。
むしろ、忘れたことの方が多い。
覚えているのは、『待っていた』とか、『探していた』とか、そういう感情の断片だけ」
だからこそ、彼女は旅を続けるのかもしれない。
待っていた誰かを探すために。
探していた何かを確かめるために。
「……シズク」
「なに?」
「本当に、僕の魂を食べるのか?」
自分でも、何度同じことを聞いているんだろうと思う。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「それが、私の役目だから」
彼女の答えは、いつもと同じだった。
「でも、それはただの……仕事、なんだよな?」
仕事として、人の魂を食べる。
ルールとして、最期の願いを叶える。
そこに「感情」が混じる余地は、どこまであるんだろう。
シズクは、ホームのコンクリートを指先でなぞりながら、しばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと僕の方へ手を伸ばした。
冷たい指が、僕の手の甲に触れる。
それから、そっと絡め取るように、指を組んだ。
彼女の手は、相変わらず冷たい。
でも、不思議と、その冷たさがあたたかく感じられた。
「陽斗」
「……なに」
「あなたは、特別」
その言葉は、これまで聞いたどんな宣告よりも、心臓に直接響いた。
「なぜかは、まだ言えない」
シズクは、小さく笑った。
「でも、あなたの心臓の音は、他の誰とも違う。
聞いていて、心地いい。
それが、私があなたと一緒に旅をしているいちばん単純な理由」
「……心臓の音フェチかよ」
精一杯の軽口で、胸のざわめきを誤魔化そうとする。
「そうかもしれないわね」
シズクは、あっさりと認めた。
「でも、それだけじゃない」
「じゃあ、なにが?」
「それは、もう少し先で」
はぐらかされたまま、僕は言葉を失う。
ホームの奥から、ふいに冷たい風が吹いた。
地下のはずなのに、海の底のような水の匂いがした。
身体の芯に疲労がたまり始めているのを感じる。
足が重い。視界の端が、少しだけ暗く揺れる。
「陽斗?」
シズクが、わずかに鋭い声を出す。
「……ちょっと、ふらついただけ」
そう言って笑おうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
ホームの床が、足の裏から遠ざかっていく。
体が傾く。
何かが僕の体を支えた。
シズクの腕だ。
「無理しないで」
彼女の声が、耳のすぐ近くで聞こえる。
「あなたの命は、私が想像していたよりも、早く消耗している」
彼女の言葉が、遠くなったり近くなったりする。
心臓の鼓動が、やけに大きく響いている。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
抱きかかえられるような形で、僕はシズクの肩にしがみつく。
体中が重くて、指先に力が入らない。
「陽斗。
私の血を、飲む?」
その提案は、あまりにも唐突だった。
「私の血を少し飲めば、少しは持ちこたえられるかもしれない」
視界の端で、シズクの白い手首がわずかに動いた。
「……それ、飲んだら、どうなる」
「少しだけ、私たちに近づく。
生と死の境目に、足をかけることになる。
でも、完全には越えない。
あくまで、一時的な延命」
選択肢は、残酷なほど少なかった。
「飲まなければ、このままここで倒れて、終わるかもしれない。
飲めば、少しだけ旅を続けられる」
シズクの声は、いつになく真剣だった。
「あなたが決めて」
僕は、床に膝をつきながら、彼女の顔を見上げた。
赤い瞳の奥に、かすかな焦りが浮かんでいる。
彼女は、不死の存在であるはずなのに、その表情は、どこか「人間的」だった。
「……飲む」
唇が乾いて、うまく動かない。
それでも、言葉は出た。
「まだ、終わりたくない」
シズクは、小さく頷いた。
「分かった」
彼女は、自分の手首にそっと歯を立てた。
白い肌に、赤い線が浮かび上がる。
血が滲み、ゆっくりと流れ出す。
「陽斗」
手首が、僕の唇に押し当てられる。
「少しだけ」
鉄の匂いが鼻を突いた。
ためらいながらも、僕は唇を開く。
舌に、温かい液体が触れた。
鉄の味。
でも、その奥に、不思議な甘さがあった。
どこか懐かしいような。
遠い昔に飲んだことがあるような。
そんな錯覚を呼び起こす味。
喉を通る血が、体の中に広がっていく。
冷えていた手足の指先が、じんじんと痺れるように熱くなる。
心臓が、一度大きく跳ねた。
そのあと、鼓動のリズムが少しだけ変わる。
「そのくらいでいい」
シズクが、静かに手首を引いた。
傷口は、もうほとんど塞がっている。
「どう?」
「……変な感じだ」
立ち上がろうとすると、さっきまでの重さが少しだけ和らいでいた。
体の中に、異物が流れ込んだ感覚。
でも、それが不快ではない。
「気持ち悪くなったら、すぐ言って」
「お前の血、変な味するな」
「失礼ね。
高級ワインみたいなものよ」
彼女の冗談に、思わず笑いが漏れる。
「これで、少しは長く一緒にいられるね」
ホームを出て、再び長い通路を戻りながら、シズクがぽつりと言った。
「なんで、僕なんかと……そんなに一緒にいたいんだ?」
自嘲も混じった問いだった。
自分で自分を「なんか」と切り捨てるのは、あまりいい癖じゃないと分かっていても。
シズクは、懐中電灯の光を前方に向けたまま答える。
「言ったでしょう。
あなたの心臓の音が、聞いていて心地いいから」
「それだけかよ」
「それだけ、って大事よ」
通路を昇る足音が、少しだけ軽くなっている。
彼女の言葉には、嘘が混じっている気はしなかった。
でも、同時に──それだけじゃない何かが、確かにそこに隠れているようにも感じられた。
地上の扉を開けると、夜の街のネオンが一気に目に飛び込んでくる。
地下の静寂からの反動で、その光と音がやけにうるさい。
「次は?」
霊柩車に戻りながら、僕は尋ねる。
「次は、少し楽しいところ」
シズクは、久しぶりに子どもみたいな笑みを浮かべた。
「廃墟の遊園地よ」




