第1話:病室の天井と「余命三ヶ月」
「もって、あと三ヶ月」――。
原因不明の病で余命を告げられた十八歳の少年・陽斗は、誰にも迷惑をかけず消えるため、深夜の病院を抜け出した。
国道で倒れかけた彼の前に現れたのは、漆黒の霊柩車を操る謎の少女・シズク。
彼女は、死者の最期の願いを叶え、その魂を喰らう「アンデッド」だった。
陽斗は自らの魂を代価に、彼女と旅をする契約を結ぶ。
廃墟や心霊スポットを巡りながら、彼は失われたはずの人生を、ひとつずつ取り戻していく。
これは、終わりへ向かう少年と、終われなかった少女が歩いた、少しだけ世界線のずれた夜の物語。
自分の心臓の音が、こんなにも耳障りだと思ったのは、あの日が初めてだった。
病室の天井は、真っ白だ。
いや、「真っ白」と言うには、少し古びている。蛍光灯の光が当たるたび、うっすら黄ばんだシミが浮かび上がる。その形を星座みたいに繋いで遊んでいたのは、いつの頃までだったか。
今日、その天井の星図は、もうどうでもよくなっていた。
余命三ヶ月。
医者は、教科書に載っていそうな整った発音でそう言った。
「原因は分かっていません。進行性の、多臓器不全です。痛みは最小限に抑えられますが……」
そこで一度だけ、彼は言葉を切った。
ほんの一秒か二秒の沈黙。その短さが、やけに長く感じられた。
「……もって、あと三ヶ月くらいでしょう」
母は、泣かなかった。
泣く余裕が、もう残っていないのかもしれない。目の下の隈は濃く、頬はこけ、手の甲には青い血管が浮き上がっている。父も同じだった。泣きもしないし、取り乱しもしない。ただ、仕事用のスーツの膝に指を食い込ませて、黙ってうつむいていた。
僕は、笑った。
笑うしか、なかった。
三ヶ月。
九十日。
およそ二千百六十時間。
そう頭の中で計算しながら、僕はひたすら天井を見つめていた。
医者の声も、母のうわずった返事も、父の押し殺したようなため息も、全部ガラス越しみたいに遠い。
──ああ、やっぱりそうなんだ。
ずっと前から、なんとなく気づいていたことを、ようやく誰かが言葉にしてくれただけだった。
僕は、生き残る側じゃなくて、消えていく側の人間なんだと。
◆
夜になっても、病室は静かだった。
面会時間が終わる少し前に、母は「明日また来るからね」とぎこちない笑顔を残して帰っていった。父は何も言わなかった。ただ、一度だけ僕の頭に手を伸ばして──途中でその手を引っ込めて、黙って背を向けた。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
シンとした個室。
点滴スタンドの金属が、わずかに軋む。モニターには、心電図の波がゆるやかに揺れている。
僕はベッドの柵を掴み、ゆっくりと上半身を起こした。
体は鉛みたいに重い。肺のあたりに、薄い膜が一枚張り付いたような違和感がつきまとう。息を吸うたび、その膜がカサリと鳴る気がする。
ベッド脇の小さなテーブルには、母が買ってきた雑誌が積まれている。「余命宣告を受けたら読む本」「がんと向き合う家族の物語」──そんなタイトルが、嫌でも目に入る。
僕はひとつ、息を吐いた。
誰のための本なんだろう。
これを「読む側」にすらなれない僕たち家族は、どこにも載っていない気がした。
父と母の会話が、断片的に頭の中に蘇る。
『……これ以上は、無理だよ。病院代だって──』
『でも、陽斗は……』
『分かってる。分かってるけど……』
病室の外、深夜の廊下で交わされていた、小さな声。
僕は眠ったふりをしながら、全部聞いていた。
──僕は、重い。
──僕は、負債だ。
その事実だけが、やけにクリアに胸の中に沈んでいる。
だからこそ、考えてしまう。
*誰にも迷惑をかけずに、消える方法はないだろうか。*
点滴の針を抜くのは、拍子抜けするくらい簡単だった。
鈍い痛みと、少しの血。止血用のテープを適当に貼って、病院支給のパジャマから私服に着替える。痩せ細った体には少しぶかぶかになったジーンズと、色褪せたパーカー。
ロッカーの奥から、充電ケーブルに繋がれたスマホを引き抜き、ポケットにねじ込む。
ベッドの上には、スマホ以外のすべてが置き去りになった。診察券、保険証、入院のしおり。僕がここにいた証拠みたいな紙切れたちだ。
ドアに手をかける。
深夜二時。ナースステーションは、いつもこの時間帯が一番静かだと知っている。眠れない夜には、よく廊下を歩いていたから。
扉を細く開けて、廊下を覗く。
白い光。消毒液の匂い。
ナースステーションの中には、パソコンの画面だけが青白く光っていて、椅子には誰も座っていない。
今だ。
サンダルの音をできるだけ小さくしながら、僕は廊下を進んだ。
息が上がる。たったそれだけのことで、胸の奥がじんじんと痛む。それでも、足は止まらなかった。
エレベーターのボタンを押す。
数秒後、チン、と間の抜けた音がして扉が開く。
自動ドアを抜けた先の夜風は、冷たくて、別世界の匂いがした。
アルコールと薬品の匂いしかなかった肺の中に、湿った土とアスファルトと排気ガスの臭気が、一気に流れ込んでくる。
ひゅ、と肩が震えた。
それが寒さなのか、恐怖なのか、あるいは解放感なのか、自分でもよく分からない。
病院の敷地を出て、国道へ向かって歩き出す。
街灯がところどころに立っているだけの、郊外の夜道。虫の声も、車の音もほとんど聞こえない。こんな時間に歩いている人間なんて、本来いないはずだ。
でも、今夜の僕は、その「本来」の外側にいる。
国道に出ると、さすがに車の往来があった。
深夜のトラック、タクシー、たまに爆音を立てるバイク。
どのヘッドライトも、僕をひと睨みするように照らしては、すぐに通り過ぎていった。
僕は歩道の端を歩き続ける。
どこへ行くのか、明確な目的地なんてない。ただ「ここから離れたい」という衝動だけが、足を前へ前へと突き動かしていた。
三ヶ月。
きっと、その半分も生きられない。
だったらせめて、最後の瞬間くらい、自分で選びたい。
*誰にも迷惑をかけずに、消える場所を。*
山の方へ向かう道は、やがて街灯すらなくなっていく。
星は、思っていたほど見えなかった。都市の光が、遠くまで空を汚している。
胸が苦しい。視界の端が、じわじわと暗くなっていく。
汗なのか冷気なのか分からないものが、背中を伝って流れ落ちる。足は棒みたいに重く、感覚が薄れていく。
*ああ、このままここで倒れたら──*
それは、都合がいいことなのかもしれない。
見知らぬ誰かが通報して、救急車が来て、病院へ戻される。
それは、僕の「逃亡失敗」を意味する。
逃げたくなかった。
けれど、戻りたくもなかった。
そんな矛盾ごと、夜の闇が飲み込んでくれればいいのに、と。
膝が笑った。
次の瞬間、アスファルトが顔に向かって迫ってきた。
衝撃。
頬が焼けるように痛む。口の中に、鉄の味。
耳の中で、心臓の音がうるさく鳴り響く。ドクン、ドクン、と。
──うるさい。
頭の中でそう呟いた瞬間、その音さえも、ふっと遠ざかっていった。
暗闇。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
そのときだ。
タイヤがアスファルトを擦る音が、耳の端に引っかかった。
キィ、と控えめなブレーキ音。
ヘッドライトの光が、背後から僕の体を白く照らす。




