第1話 定年目前、無職、独身。帰る家はボロ屋敷だけ。
【前書き】
はじめまして。
人生の黄昏時を迎えた男の話です。
派手な魔法もチートもありませんが、納屋の奥には何かがあるようで
人生の終わりは、ドラマチックなものではない。
もっと静かで、埃っぽくて、少しカビ臭いものだ。少なくとも、俺にとってはそうだった。
「……寒いな」
独り言が、誰もいない日本家屋の広い玄関に吸い込まれていく。
築六十年。両親が残した実家は、主を失ってから十年以上、放置されていた。床は軋み、畳は焼け、あちこちに蜘蛛の巣が張っている。
俺の名前は、リョウ。五十八歳。
昨日付けで、三十五年勤めた会社を「早期退職」という名のリストラで追い出された。
妻はいない。子供もいない。友人と呼べる人間は、年賀状だけの付き合いですら途絶えて久しい。
手元にあるのは、わずかな退職金と、このボロ屋敷だけだ。
コンビニで買ってきた、温めるだけの弁当を食べる。
電子レンジの回転音が、やけに大きく聞こえた。
チーン、という音が鳴り終わると、世界はまた静寂に包まれる。
プラスチックの容器に入ったハンバーグは、ゴムのような味がした。
味気ない。
俺の人生そのものだと思った。
食事を終え、やることもないので、俺はスマホを取り出した。
ニュースアプリを開く。
『景気回復の兆し』
『有名芸能人が不倫』
『異世界転生アニメが大ヒット』
どれもこれも、俺には関係のない世界の話だ。指先一つで画面をスクロールし、流し見する。
誰とも繋がっていないSNSのアイコンが、虚しく光っていた。
世界はこんなにも騒がしいのに、俺の周りだけ真空パックされたみたいに音がしない。
「……片付けでもするか」
寝るにはまだ早い。
俺は重い腰を上げ、懐中電灯を手に取った。
母屋の荷物はあらかた業者に頼んで処分したが、離れにある納屋だけは手付かずだった。
子供の頃、あそこは俺の宝物庫だった。
古びた雑誌、壊れたラジオ、そして親父の大工道具。
何か、金目のものでも残っていればいいのだが。そんな浅ましい期待を抱いて、俺はサンダル履きで庭に出た。
冬の夜風が肌を刺す。
納屋の扉は、錆びついた南京錠で閉ざされていた。
鍵束の中から合いそうなものを探し出し、鍵穴にねじ込む。
ガチリ、と硬い音がして、錠が外れた。
ギィィィ……。
蝶番が悲鳴を上げる。
埃っぽい空気が舞い上がり、俺は咳き込んだ。
懐中電灯の光を向ける。
中は、記憶のままだった。
壁に掛けられた錆びた鋸。埃を被った古い三輪車。隅に積まれた古新聞の束。
時間が止まっている。
俺は懐かしさよりも、徒労感を覚えた。これを片付けるのに、どれだけの労力がかかるのだろう。分別するだけで一苦労だ。
溜息をつき、奥へ進む。
納屋の最奥。
そこには、俺の記憶にない「扉」があった。
「……なんだ、これ」
壁に立てかけられた古材の後ろ。
重厚な、樫の木で作られたような扉が嵌め込まれている。
取っ手は真鍮製だろうか。鈍く光っていた。
親父がこんなものを作った覚えはない。そもそも、納屋の裏はすぐに山林だ。扉なんて作っても、土壁にぶつかるだけのはずだ。
リフォームの跡か?
それとも、どこかの金持ちの屋敷から解体品を貰ってきたのか?
親父はそういう、ガラクタ集めが趣味だった。
俺は吸い寄せられるように、その取っ手に手を伸ばした。
ひんやりとした金属の感触。
回してみる。
抵抗なく、ノブが回った。
カチャリ。
軽い音と共に、扉が手前に開く。
土壁が見えるはずだった。
あるいは、裏山の暗闇が。
しかし。
「――は?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
光が、溢れてきた。
懐中電灯の人工的な白さではない。
太陽の光だ。
今は夜の八時を回っているはずなのに、扉の向こうは、昼下がりだった。
眩しさに目を細める。
視界が慣れてくると、そこにある「風景」が見えてきた。
石畳の路地。
レンガ造りの建物。
遠くに見える、尖塔のような屋根。
そして何より、匂いが違った。
乾いた土と、香辛料のような香り、そしてどこか獣臭いような、強烈な生活臭。
ガヤガヤと、人の話し声が聞こえる。
日本語ではない。けれど、奇妙なことに意味が頭に入ってくる。
『おい、水を持て!』
『今日の市は終わりだ』
『竜車の車輪が外れたぞ!』
竜車?
市?
俺は無意識に一歩、足を踏み出した。
サンダル履きの足が、石畳を踏む。
硬い感触。
振り返る。
すぐ後ろには、薄暗い日本の納屋がある。古新聞と三輪車が見える。
前を向く。
中世ヨーロッパのような街並みが広がっている。
「……夢か」
俺は呟いた。
そうか、俺は疲れているんだ。
いきなり無職になって、将来の不安に押しつぶされて、脳が現実逃避を始めたに違いない。
最近のラノベじゃあるまいし。
五十八歳のおっさんが異世界に行ってどうする。チート能力で無双でもしろというのか。
腰痛持ちで、老眼が始まりかけているこの俺に。
「馬鹿馬鹿しい」
俺は冷めた頭でそう結論づけると、静かに後ずさりした。
納屋側に戻る。
そして、扉を閉めた。
バタン。
音がして、光が遮断された。
再び、薄暗い納屋に戻る。
懐中電灯の光だけが頼りだ。
「寝よう」
今日はもう、何も考えずに寝よう。
明日の朝になれば、この扉はただの壁に戻っているはずだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は納屋を出ようとした。
その時だった。
ふわり、と。
足元で何かが光った。
「うおっ!?」
思わず声を上げて飛び退く。腰にピキリと痛みが走った。
見ると、ソフトボールくらいの大きさの「光の玉」が、俺の足元を漂っていた。
蛍? いや、そんな大きさじゃない。
LEDライト? いや、コードも電池もない。
それは意志があるように、俺の周りをくるくると回り、そしてスリスリと俺の脛に体を擦り付けてきた。
温かい。
まるで、猫のような人懐っこさだ。
「……なんだ、お前」
恐る恐る手を伸ばす。
指先が触れると、光の玉は嬉しそうに明滅した。
ポワン、ポワン。
心地よい熱が指先から伝わってくる。
不思議と、恐怖はなかった。
この広い世界で、俺に触れようとしてくる存在は、もう十年以上いなかったからかもしれない。
たとえそれが、得体の知れない発光体であったとしても。
「……ついてくるのか?」
俺が歩き出すと、光の玉はふわりと浮かび、俺の肩の横に収まった。
まるで、最初からそこにいるのが当たり前のように。
納屋を出て、南京錠をかける。
光の玉――仮に『タマ』としておこう――は、そのまま俺と一緒に母屋へと入っていった。
暗い廊下が、タマの光でほんのりと明るい。
俺は苦笑した。
異世界への扉に、謎の発光体。
頭がおかしくなったにしては、妙にリアルだ。
「まあ、いいか」
どうせ、失うものなんて何もない。
俺はタマが照らす明かりを頼りに、冷え切った布団に潜り込んだ。
明日、目が覚めてもタマがいたら。
あの扉がまだあったら。
その時は、もう少しだけ生きてみようかと思った。
【後書き】
ここまで読んでいただきありがとうございます。
主人公リョウの、地味で静かな第二の人生が始まりました。
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リョウの腰痛が少しだけ和らぎます。
次回、「百円ライター、異世界で火を噴く(物理ではない)」をお送りします。




