第9話 五つ目の箱
夜。
約束の時間になっても、悠真は帰ってこなかった。
時計の針が、八を過ぎ、九を過ぎ、十を過ぎる。
テーブルの上の白い小箱だけが、部屋の中心で静かに光っている。
リボンはきつく結ばれたまま。
——『開けるのは夜に。約束。』
約束は、もう夜の中に溶けている。
私は椅子に座り、小箱を手に取った。
リボンを指先で撫でる。
布地の感触が、心臓の鼓動に合わせて震えた。
(開ける? 開けない?)
彼の言葉を守れば、私は“良い妻”でいられる。
破れば、またあの静かな怒りが戻る。
だけど——
私は、もう輪の中で息ができない。
指先で結び目を引いた。
するり。
リボンがほどけた瞬間、窓の外で雷が鳴った。
箱を開ける。
中には、小さな鍵。
銀色に光る、古い形の鍵。
下には、一枚の紙。
> 『開けたい場所を思い浮かべて。』
私は震える指で鍵を持ち上げた。
重さが、現実の証拠みたいだった。
鍵穴。
朝に見た、あの瞳のある鍵穴。
——開けろ、ということ?
◇
玄関の前に立つ。
家の中は静まり返っている。
電気を消しても、壁のどこかで微かな機械音がする。
“監視”の呼吸のような音。
鍵を握り、鍵穴に差し込む。
カチリ。
手のひらの中の金属が脈打った。
まるで、心臓の鼓動が移ったみたいに。
息を止めて、回す。
カチャ……。
ドアが、内側からわずかに開いた。
外気が流れ込む。
冷たい夜の匂い。
私は一歩踏み出した。
自由の味が、そこにあった。
だけど——すぐに分かった。
外の空気も、見られている。
視線の感覚。
電柱の上の黒いカメラ。
隣家の窓のわずかな隙間。
夜の闇が、すべて瞳に変わっている。
逃げ場なんて、最初からどこにもない。
◇
「どこへ行くの?」
背後から声。
心臓が跳ねた。
振り返ると、玄関の影に悠真が立っていた。
黒いコート。
傘も持たず、濡れた髪。
「……早く帰ったんじゃないの?」
「駅で見たよ。お前、ドアを開けた」
「違う。空気が悪くて、少し——」
「嘘だ」
低く、乾いた声。
「お前、また“外”を見たんだな。」
私は鍵を胸に抱いた。
「だって……この家の中、怖い。ずっと誰かが見てる」
「見てるのは俺だけだ」
「違う! カメラも、封筒も、ノートも——」
「俺だよ。」
時が止まった。
「……え?」
「封筒も、ノートも、全部俺がやった。お前が信じないから。」
「なんで、そんな——」
「お前が壊れないように。俺が、ちゃんと“教えてやる”ためだ。」
世界が裏返る音がした。
喉の奥で、言葉が砕ける。
「鍵穴の瞳も?」
「そう。」
「……私、見られてたの?」
「愛してる。だから見てた。」
その「愛してる」は、もう“暴力”と同じ音をしていた。
◇
悠真は一歩近づいた。
床が軋む。
「なぁ、戻ろう。全部俺が悪かった。」
優しい声。いつもの声。
「箱も、全部、守るためだったんだ。」
「守る?」
「お前が、俺のものだって、忘れないように。」
私は後ずさった。
「もう、無理。息ができない。」
「じゃあ、俺も息を止める。」
彼は胸に手を当てた。
「お前がいないと、生きられないんだ。」
涙のような笑み。
——それは懺悔じゃない。呪いだった。
◇
私は鍵を握りしめた。
銀の刃のような冷たさ。
「これ、開ける鍵なんでしょ。」
「そうだ。俺たちの家を、永遠に閉じる鍵だ。」
「違う。」
私は鍵を逆さに持ち、ドアの金属に叩きつけた。
カンッ!
音が、夜の闇に散った。
鍵の先が曲がり、折れた。
「お前、何してる!」
悠真が叫び、私の手首を掴んだ。
痛み。
ブレスレットの金具が弾け、床に転がる。
その瞬間、電子音。
——ピッ、カチャ。
玄関のロックが自動で開いた。
「やめろ、外に出るな!」
「もう、嫌!」
私は叫び、ドアを開けた。
冷たい風が頬を打つ。
玄関灯が揺れ、外の階段の上に誰かの影が見えた。
長いコート。黒い傘。
あのとき美容師が言っていた“男”。
「……誰?」
彼は静かに手を上げ、何かを差し出した。
白い封筒。
封を破る前に、背後で悠真の声。
「戻れ!」
腕を掴まれ、引き戻される。
体が転び、鍵と封筒が廊下に落ちた。
ばさり。
封筒の中から一枚の紙が舞い上がり、私の顔に貼りついた。
> 『彼の名前は悠真じゃない。』
私は凍りついた。
「……何、これ」
悠真が紙を奪い取る。
「そんなもの、誰が——」
その言葉の途中で、電気が落ちた。
真っ暗な中、リビングの方から小さな光。
カメラの赤いランプ。
私たちを、見ている。
悠真が振り向いた瞬間、赤い光が消えた。
闇の中で、私の足元に何かが転がる。
それは折れた鍵の破片。
拾い上げると、先端に小さく刻まれていた。
> 「K-02 試作」
試作——誰の? 何の?
悠真が何かを言いかけ、声を失った。
部屋の奥で、もう一つの声がした。
「……ユウマ、ノ、カギ、ハ、ミツカッタ?」
——電子音。
まるで機械のような抑揚で。
私たちは同時に顔を上げた。
音は、壁の中から聞こえてくる。
輪の中心——そこから。
◇
私は立ち尽くした。
家の中のすべての輪——指、喉、手首、耳。
そして今、壁の中にも輪がある。
私たちは、その中心に閉じ込められている。
悠真が床に倒れた鍵を拾い上げた。
「……俺は、守りたかっただけなんだ」
「誰から?」
「“外”からだよ。」
彼の声は震えていた。
「外にいるのは、俺たちを作ったやつだ。」
私は理解できなかった。
けれど、悠真の瞳は本気だった。
「俺も……お前も、誰かの記録なんだよ。」
その言葉が、静かな雷みたいに落ちた。
壁の中の機械音が、また呟いた。
> 「カイホウ、マデ、ノコリ、イチ。」
悠真が私を見た。
「開放……?」
「開くな!」
「でも——」
その瞬間、リビングのカメラが再び赤く光り、
電子音が重なった。
> 「最終鍵、作動開始。」
家の壁が、低く唸った。
床が震え、空気が波打つ。
悠真が私を抱き寄せる。
「離れろ!」
「嫌——もう離れたくない!」
私は彼の胸に顔を埋めた。
彼の体温。鼓動。
全部、確かなものだった。
——この“確かさ”さえ、記録の一部だとしても。
◇
光が弾けた。
壁の輪が開き、
白い光が、すべてを飲み込んだ。
何かが終わる音。
何かが始まる音。
私は光の中で、彼の名前を呼んだ。
「悠真!」
返事は、なかった。
光の向こうで、誰かが微笑んだ気がした。




