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虐げられても、あなたを愛してしまう──壊れた花嫁の記録  作者: マルコ


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第9話 五つ目の箱

夜。

 約束の時間になっても、悠真は帰ってこなかった。

 時計の針が、八を過ぎ、九を過ぎ、十を過ぎる。

 テーブルの上の白い小箱だけが、部屋の中心で静かに光っている。

 リボンはきつく結ばれたまま。

 ——『開けるのは夜に。約束。』


 約束は、もう夜の中に溶けている。

 私は椅子に座り、小箱を手に取った。

 リボンを指先で撫でる。

 布地の感触が、心臓の鼓動に合わせて震えた。


 (開ける? 開けない?)

 彼の言葉を守れば、私は“良い妻”でいられる。

 破れば、またあの静かな怒りが戻る。

 だけど——

 私は、もう輪の中で息ができない。


 指先で結び目を引いた。

 するり。

 リボンがほどけた瞬間、窓の外で雷が鳴った。

 箱を開ける。

 中には、小さな鍵。

 銀色に光る、古い形の鍵。

 下には、一枚の紙。

 > 『開けたい場所を思い浮かべて。』


 私は震える指で鍵を持ち上げた。

 重さが、現実の証拠みたいだった。

 鍵穴。

 朝に見た、あの瞳のある鍵穴。

 ——開けろ、ということ?



 玄関の前に立つ。

 家の中は静まり返っている。

 電気を消しても、壁のどこかで微かな機械音がする。

 “監視”の呼吸のような音。

 鍵を握り、鍵穴に差し込む。

 カチリ。

 手のひらの中の金属が脈打った。

 まるで、心臓の鼓動が移ったみたいに。

 息を止めて、回す。

 カチャ……。


 ドアが、内側からわずかに開いた。

 外気が流れ込む。

 冷たい夜の匂い。

 私は一歩踏み出した。

 自由の味が、そこにあった。


 だけど——すぐに分かった。

 外の空気も、見られている。

 視線の感覚。

 電柱の上の黒いカメラ。

 隣家の窓のわずかな隙間。

 夜の闇が、すべて瞳に変わっている。


 逃げ場なんて、最初からどこにもない。



 「どこへ行くの?」


 背後から声。

 心臓が跳ねた。

 振り返ると、玄関の影に悠真が立っていた。

 黒いコート。

 傘も持たず、濡れた髪。

 「……早く帰ったんじゃないの?」

 「駅で見たよ。お前、ドアを開けた」

 「違う。空気が悪くて、少し——」

 「嘘だ」

 低く、乾いた声。

 「お前、また“外”を見たんだな。」


 私は鍵を胸に抱いた。

 「だって……この家の中、怖い。ずっと誰かが見てる」

 「見てるのは俺だけだ」

 「違う! カメラも、封筒も、ノートも——」

 「俺だよ。」


 時が止まった。

 「……え?」

 「封筒も、ノートも、全部俺がやった。お前が信じないから。」

 「なんで、そんな——」

 「お前が壊れないように。俺が、ちゃんと“教えてやる”ためだ。」


 世界が裏返る音がした。

 喉の奥で、言葉が砕ける。

 「鍵穴の瞳も?」

 「そう。」

 「……私、見られてたの?」

 「愛してる。だから見てた。」


 その「愛してる」は、もう“暴力”と同じ音をしていた。



 悠真は一歩近づいた。

 床が軋む。

 「なぁ、戻ろう。全部俺が悪かった。」

 優しい声。いつもの声。

 「箱も、全部、守るためだったんだ。」

 「守る?」

 「お前が、俺のものだって、忘れないように。」


 私は後ずさった。

 「もう、無理。息ができない。」

 「じゃあ、俺も息を止める。」

 彼は胸に手を当てた。

 「お前がいないと、生きられないんだ。」

 涙のような笑み。

 ——それは懺悔じゃない。呪いだった。



 私は鍵を握りしめた。

 銀の刃のような冷たさ。

 「これ、開ける鍵なんでしょ。」

 「そうだ。俺たちの家を、永遠に閉じる鍵だ。」

 「違う。」

 私は鍵を逆さに持ち、ドアの金属に叩きつけた。

 カンッ!

 音が、夜の闇に散った。

 鍵の先が曲がり、折れた。

 「お前、何してる!」

 悠真が叫び、私の手首を掴んだ。

 痛み。

 ブレスレットの金具が弾け、床に転がる。

 その瞬間、電子音。

 ——ピッ、カチャ。

 玄関のロックが自動で開いた。


 「やめろ、外に出るな!」

 「もう、嫌!」

 私は叫び、ドアを開けた。

 冷たい風が頬を打つ。

 玄関灯が揺れ、外の階段の上に誰かの影が見えた。

 長いコート。黒い傘。

 あのとき美容師が言っていた“男”。

 「……誰?」

 彼は静かに手を上げ、何かを差し出した。

 白い封筒。

 封を破る前に、背後で悠真の声。

 「戻れ!」

 腕を掴まれ、引き戻される。

 体が転び、鍵と封筒が廊下に落ちた。

 ばさり。

 封筒の中から一枚の紙が舞い上がり、私の顔に貼りついた。


 > 『彼の名前は悠真じゃない。』


 私は凍りついた。

 「……何、これ」

 悠真が紙を奪い取る。

 「そんなもの、誰が——」

 その言葉の途中で、電気が落ちた。

 真っ暗な中、リビングの方から小さな光。

 カメラの赤いランプ。

 私たちを、見ている。

 悠真が振り向いた瞬間、赤い光が消えた。

 闇の中で、私の足元に何かが転がる。

 それは折れた鍵の破片。

 拾い上げると、先端に小さく刻まれていた。


 > 「K-02 試作」


 試作——誰の? 何の?

 悠真が何かを言いかけ、声を失った。

 部屋の奥で、もう一つの声がした。

 「……ユウマ、ノ、カギ、ハ、ミツカッタ?」

 ——電子音。

 まるで機械のような抑揚で。

 私たちは同時に顔を上げた。

 音は、壁の中から聞こえてくる。

 輪の中心——そこから。



 私は立ち尽くした。

 家の中のすべての輪——指、喉、手首、耳。

 そして今、壁の中にも輪がある。

 私たちは、その中心に閉じ込められている。


 悠真が床に倒れた鍵を拾い上げた。

 「……俺は、守りたかっただけなんだ」

 「誰から?」

 「“外”からだよ。」

 彼の声は震えていた。

 「外にいるのは、俺たちを作ったやつだ。」


 私は理解できなかった。

 けれど、悠真の瞳は本気だった。

 「俺も……お前も、誰かの記録なんだよ。」


 その言葉が、静かな雷みたいに落ちた。


 壁の中の機械音が、また呟いた。

 > 「カイホウ、マデ、ノコリ、イチ。」


 悠真が私を見た。

 「開放……?」

 「開くな!」

 「でも——」

 その瞬間、リビングのカメラが再び赤く光り、

 電子音が重なった。


 > 「最終鍵、作動開始。」


 家の壁が、低く唸った。

 床が震え、空気が波打つ。

 悠真が私を抱き寄せる。

 「離れろ!」

 「嫌——もう離れたくない!」

 私は彼の胸に顔を埋めた。

 彼の体温。鼓動。

 全部、確かなものだった。


 ——この“確かさ”さえ、記録の一部だとしても。



 光が弾けた。

 壁の輪が開き、

 白い光が、すべてを飲み込んだ。


 何かが終わる音。

 何かが始まる音。


 私は光の中で、彼の名前を呼んだ。

 「悠真!」

 返事は、なかった。

 光の向こうで、誰かが微笑んだ気がした。

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