第8話 鍵穴の瞳
鍵穴の奥に、瞳があった。
気のせいだと、最初は思った。
朝の光が金属に反射しただけだと。
でも、私は見た。
——黒い点が、一度、瞬いたのを。
「悠真……!」
呼びかけても、返事はなかった。
寝室のドアは閉まっている。
私は膝をつき、再び鍵穴を覗いた。
そこにもう、瞳はなかった。
ただ、静かな闇だけがあった。
封筒を握る手が震える。
白い紙に残る指の跡が、まるで血管みたいに赤く滲む。
「中を見て」
——誰が? 何を? 何の“中”を?
◇
玄関から離れ、リビングの窓を開けた。
冷たい風が入り込み、カーテンが舞う。
向かいのアパートの壁には、監視カメラが一台。
管理会社の備え付け。
けれど、向きが——こちらを向いている。
(……いつ、角度を変えたの?)
レンズの中の黒が、鍵穴のそれと同じに見えた。
私はカーテンを閉め、スマホを掴んだ。
警察、という文字を打ちかけて、止まる。
もし本当に通報したら、悠真は——どう思うだろう。
私を心配する? 怒る? それとも、壊す?
「……だめ」
私はスマホを伏せた。
この家の中で、“通報”という単語は禁句だと、身体が知っている。
◇
昼過ぎ。
台所の蛇口をひねると、水が赤く濁った。
驚いて止めると、すぐに透明に戻る。
気のせいだ。
そう思いたくて、私は何度も手を洗った。
指輪の隙間に水が入り込み、冷たさが骨まで刺さる。
何かが、この家の中に棲みついている。
◇
午後三時。
インターホンが鳴った。
心臓が跳ねた。
モニターには、宅配業者の制服。
段ボールを抱えている。
「来栖さん宛の荷物です」
サインをして受け取る。
差出人欄には——自分の名前が書かれていた。
(私? 私から?)
封を切ると、中には一冊のノート。
表紙は黒。
中を開くと、最初のページに鉛筆の文字が並んでいる。
> 2022年6月 結婚記念日
> 悠真が初めて「俺がいないとお前は駄目だ」と言った日
> その夜、私は笑って「そうだね」と答えた
> これが最初の失敗だった
——これは、私の日記。
でも、私はこんなノートを書いた覚えがない。
筆跡は、確かに私のものなのに。
ページをめくるたび、息が浅くなる。
そこには、過去の出来事が正確に記録されていた。
私しか知らない夜の会話、怒鳴り声の温度、冷蔵庫に投げられたグラスの音。
そして、最後の行には、こう記されていた。
> 鍵穴の向こうに、「彼」が立っている。
> でも、その彼は——私の悠真じゃない。
◇
玄関のほうで、物音。
ノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
「……悠真?」
返事の代わりに、電子ロックのピッ、カチャ。
ドアが開く。
靴音。
見慣れた背中。
悠真が帰ってきた。
「早かったね」
「……会議、キャンセルになった」
靴を脱ぐ手が、少しだけ震えていた。
「どうしたの?」
「……外、誰かいた」
「誰?」
「分からない。階段の影に立ってた。見てた」
——見てた。
その言葉に、胸が冷たくなる。
「もしかして、封筒の人?」
「お前、また何か届いたのか?」
「朝、ポストに……」
悠真は私の手の中のノートを見つめた。
「それ、何?」
「分からない。私の名前で届いたの」
「見せて」
私は迷いながらノートを差し出す。
彼はページをめくり、静かに眉を寄せた。
「……これ、お前が書いたんだろ」
「違う。書いてない」
「嘘をつくな」
「本当に——」
「俺以外、誰がこんなこと知ってるんだよ。」
沈黙。
ノートを握る彼の指が、白くなっていく。
「これ、捨てろ」
「でも——」
「捨てろ!」
声が、刃物のように飛んだ。
私は思わず身を引く。
ノートの角が、私の腕に当たって落ちた。
ぱらりと開いたページに、黒いインクの染み。
輪の形をした染み。
悠真はその染みを見下ろし、息を吐いた。
「……ごめん」
「いい」
「俺、守りたいだけなんだ」
その言葉の「守りたい」が、「閉じ込めたい」と同じ音に聞こえた。
◇
夜。
窓の外で風が鳴く。
悠真は眠っている。
私はリビングの床に座り、ノートの染みをなぞった。
輪の中に、かすかな文字が浮き上がっている。
「見て」。
それは封筒のメッセージと同じ。
鍵穴と同じ声。
私は玄関へ行き、鍵穴に目を寄せた。
今度は瞳はない。
ただ、向こう側の暗闇。
でも、風のような声がした。
> 「中にいるのは、あなたじゃない」
心臓が跳ね、私は後ずさった。
その瞬間、寝室のドアがギィと開いた。
「……起きてたの?」
悠真が立っていた。
表情は、暗くて見えない。
「何してるの」
「風、入ってきて……」
「鍵、閉めた?」
「今、閉めるところ」
私はドアを閉め、鍵を回した。
カチリ。
この音が、心のどこかで牢の音に聞こえた。
◇
ベッドに戻ると、悠真が私の髪を撫でた。
「短いのも、悪くないな」
「ありがとう」
「でも、次は少し伸ばそうか。前のほうが、お前らしい」
その声は優しい。
だからこそ、怖かった。
“お前らしい”とは、“俺が決めたお前”という意味だと分かっている。
私は笑って頷いた。
笑うことだけが、今の私を守る唯一の術。
そして、眠りに落ちる直前、耳元で声がした。
悠真の声ではない。
——あの封筒の声。
「次に見るとき、開けて」
目を開けると、闇の中に鍵穴の形をした光が浮かんでいた。
◇
朝。
テーブルの上に、また白い小箱。
五つ目。
リボンは、いつもよりきつく結ばれている。
メモが添えられていた。
> 『開けるのは夜に。約束。』
私はその箱を手に取り、光にかざした。
中身が、ほんの少しだけ透けて見える。
金属。
丸い。
そして、鍵のような形。
リビングの窓の外、アパートの壁のカメラがわずかに動いた。
こちらを向く角度が、昨日よりも、さらに真っすぐになっている。
私は小箱を胸に抱きしめた。
——これが、「開く鍵」なのか。
それとも、「閉じる鍵」なのか。
まだ、分からない。
ただ、確かに分かるのは一つ。
誰かが、私たちの中を覗いている。
そしてその“誰か”は、もう、鍵穴の向こう側にいるとは限らない。




