表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
虐げられても、あなたを愛してしまう──壊れた花嫁の記録  作者: マルコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

第8話 鍵穴の瞳

 鍵穴の奥に、瞳があった。

 気のせいだと、最初は思った。

 朝の光が金属に反射しただけだと。

 でも、私は見た。

 ——黒い点が、一度、瞬いたのを。


 「悠真……!」

 呼びかけても、返事はなかった。

 寝室のドアは閉まっている。

 私は膝をつき、再び鍵穴を覗いた。

 そこにもう、瞳はなかった。

 ただ、静かな闇だけがあった。


 封筒を握る手が震える。

 白い紙に残る指の跡が、まるで血管みたいに赤く滲む。

 「中を見て」

 ——誰が? 何を? 何の“中”を?



 玄関から離れ、リビングの窓を開けた。

 冷たい風が入り込み、カーテンが舞う。

 向かいのアパートの壁には、監視カメラが一台。

 管理会社の備え付け。

 けれど、向きが——こちらを向いている。

 (……いつ、角度を変えたの?)

 レンズの中の黒が、鍵穴のそれと同じに見えた。


 私はカーテンを閉め、スマホを掴んだ。

 警察、という文字を打ちかけて、止まる。

 もし本当に通報したら、悠真は——どう思うだろう。

 私を心配する? 怒る? それとも、壊す?


 「……だめ」

 私はスマホを伏せた。

 この家の中で、“通報”という単語は禁句だと、身体が知っている。



 昼過ぎ。

 台所の蛇口をひねると、水が赤く濁った。

 驚いて止めると、すぐに透明に戻る。

 気のせいだ。

 そう思いたくて、私は何度も手を洗った。

 指輪の隙間に水が入り込み、冷たさが骨まで刺さる。


 何かが、この家の中に棲みついている。



 午後三時。

 インターホンが鳴った。

 心臓が跳ねた。

 モニターには、宅配業者の制服。

 段ボールを抱えている。

 「来栖さん宛の荷物です」

 サインをして受け取る。

 差出人欄には——自分の名前が書かれていた。


 (私? 私から?)

 封を切ると、中には一冊のノート。

 表紙は黒。

 中を開くと、最初のページに鉛筆の文字が並んでいる。


 > 2022年6月 結婚記念日

 > 悠真が初めて「俺がいないとお前は駄目だ」と言った日

 > その夜、私は笑って「そうだね」と答えた

 > これが最初の失敗だった


 ——これは、私の日記。

 でも、私はこんなノートを書いた覚えがない。

 筆跡は、確かに私のものなのに。


 ページをめくるたび、息が浅くなる。

 そこには、過去の出来事が正確に記録されていた。

 私しか知らない夜の会話、怒鳴り声の温度、冷蔵庫に投げられたグラスの音。

 そして、最後の行には、こう記されていた。


 > 鍵穴の向こうに、「彼」が立っている。

 > でも、その彼は——私の悠真じゃない。



 玄関のほうで、物音。

 ノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。

 「……悠真?」

 返事の代わりに、電子ロックのピッ、カチャ。

 ドアが開く。

 靴音。

 見慣れた背中。

 悠真が帰ってきた。


 「早かったね」

 「……会議、キャンセルになった」

 靴を脱ぐ手が、少しだけ震えていた。

 「どうしたの?」

 「……外、誰かいた」

 「誰?」

 「分からない。階段の影に立ってた。見てた」

 ——見てた。

 その言葉に、胸が冷たくなる。

 「もしかして、封筒の人?」

 「お前、また何か届いたのか?」

 「朝、ポストに……」

 悠真は私の手の中のノートを見つめた。

 「それ、何?」

 「分からない。私の名前で届いたの」

 「見せて」

 私は迷いながらノートを差し出す。

 彼はページをめくり、静かに眉を寄せた。

 「……これ、お前が書いたんだろ」

 「違う。書いてない」

 「嘘をつくな」

 「本当に——」

 「俺以外、誰がこんなこと知ってるんだよ。」


 沈黙。

 ノートを握る彼の指が、白くなっていく。

 「これ、捨てろ」

 「でも——」

 「捨てろ!」

 声が、刃物のように飛んだ。

 私は思わず身を引く。

 ノートの角が、私の腕に当たって落ちた。

 ぱらりと開いたページに、黒いインクの染み。

 輪の形をした染み。


 悠真はその染みを見下ろし、息を吐いた。

 「……ごめん」

 「いい」

 「俺、守りたいだけなんだ」

 その言葉の「守りたい」が、「閉じ込めたい」と同じ音に聞こえた。



 夜。

 窓の外で風が鳴く。

 悠真は眠っている。

 私はリビングの床に座り、ノートの染みをなぞった。

 輪の中に、かすかな文字が浮き上がっている。

 「見て」。

 それは封筒のメッセージと同じ。

 鍵穴と同じ声。


 私は玄関へ行き、鍵穴に目を寄せた。

 今度は瞳はない。

 ただ、向こう側の暗闇。

 でも、風のような声がした。


 > 「中にいるのは、あなたじゃない」


 心臓が跳ね、私は後ずさった。

 その瞬間、寝室のドアがギィと開いた。

 「……起きてたの?」

 悠真が立っていた。

 表情は、暗くて見えない。

 「何してるの」

 「風、入ってきて……」

 「鍵、閉めた?」

 「今、閉めるところ」

 私はドアを閉め、鍵を回した。

 カチリ。

 この音が、心のどこかで牢の音に聞こえた。



 ベッドに戻ると、悠真が私の髪を撫でた。

 「短いのも、悪くないな」

 「ありがとう」

 「でも、次は少し伸ばそうか。前のほうが、お前らしい」

 その声は優しい。

 だからこそ、怖かった。

 “お前らしい”とは、“俺が決めたお前”という意味だと分かっている。

 私は笑って頷いた。

 笑うことだけが、今の私を守る唯一の術。


 そして、眠りに落ちる直前、耳元で声がした。

 悠真の声ではない。

 ——あの封筒の声。

 「次に見るとき、開けて」

 目を開けると、闇の中に鍵穴の形をした光が浮かんでいた。



 朝。

 テーブルの上に、また白い小箱。

 五つ目。

 リボンは、いつもよりきつく結ばれている。

 メモが添えられていた。

 > 『開けるのは夜に。約束。』


 私はその箱を手に取り、光にかざした。

 中身が、ほんの少しだけ透けて見える。

 金属。

 丸い。

 そして、鍵のような形。


 リビングの窓の外、アパートの壁のカメラがわずかに動いた。

 こちらを向く角度が、昨日よりも、さらに真っすぐになっている。

 私は小箱を胸に抱きしめた。

 ——これが、「開く鍵」なのか。

 それとも、「閉じる鍵」なのか。


 まだ、分からない。

 ただ、確かに分かるのは一つ。

 誰かが、私たちの中を覗いている。

 そしてその“誰か”は、もう、鍵穴の向こう側にいるとは限らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ