第6話 輪は髪に落ちる
午前八時。
鏡の前に立ち、髪を梳く。
ブラシが髪をすべり落ちる音が、部屋の静けさを細く裂く。
長く伸ばしていた髪は、腰のあたりまである。
悠真が「好き」と言った長さ。
——でも、今日は切る。
彼のために、ではなく、自分のために。
たとえ、それがほんの数センチでも。
鏡越しに、白いチョーカーが首をなぞっている。
昨日の夜、彼が留めたままの輪。
「明日もつけてろ。慣らしたほうがいい」
彼のその言葉が、まだ喉元に残っている。
私は指先で金具を探し、慎重に外した。
カチンという音が、やけに大きく響く。
輪が解けるたび、胸の奥で何かが呼吸を取り戻す。
◇
出勤の途中、美容室に寄った。
予約はしていない。
「少しだけ、切りたいんです」
受付の女性が微笑んで、鏡台に案内してくれた。
椅子に座ると、背後の鏡に自分の顔が映る。
頬の下に小さな影。
笑っても、どこかが動かない。
担当の美容師が現れた。
若い男性。柔らかい茶髪。
「今日はどうしますか?」
「肩くらいまで。軽く見えるように」
「了解です。印象、けっこう変わりますよ」
彼は髪を束ねて、ゴムをはさみで切った。
シュンという音。
長い髪が、鏡の前を静かに落ちていく。
——まるで輪が、ほどけるみたいに。
重さが消え、首筋に空気が触れた。
思わず息を吸い込む。
自由の味がした。
◇
仕上げのドライヤーの風の中で、美容師が言った。
「結婚されてるんですね」
「え?」
指輪を見て、彼が微笑む。
「ああ、そうなんです」
「旦那さん、びっくりするかもな。髪、長かったでしょ?」
「……ええ」
笑うと、頬の筋肉がこわばった。
「きっと似合うって言ってくれますよ」
その言葉に、小さく「ありがとう」と答える。
でも心のどこかで、違う返事が聞こえていた。
——たぶん、彼は言わない。「似合う」とは。
鏡の中の私は、別人みたいだった。
髪を失った分だけ、目が強く見える。
「どうですか?」
「……軽いです」
「いい表情になりましたよ」
彼の言葉に、少しだけ救われた。
美容室の鏡は、残酷で、そして正直だ。
私の中に残っていた“誰かの好み”を、少しだけ削ぎ落としてくれた気がした。
◇
帰り道、風が髪を撫でる。
耳の後ろを通り抜ける風が、まるで「おかえり」と囁いているようだった。
私は無意識に笑っていた。
空の色が、こんなにも淡く優しいと思えたのは、いつ以来だろう。
スマホが震えた。
『今、どこ?』
指が止まる。
あの青い点が、もう私を捕まえている。
けれど、今日は違う。
今日は、私が先に言葉を選ぶ。
『美容室。髪を切ったの。』
数秒後、返事。
『……どれくらい?』
『肩まで。』
長い沈黙のあと。
『帰ったら、見せて。』
——命令じゃなかった。
でも、命令のように聞こえる優しさだった。
私は小さくうなずき、スマホをしまった。
空は晴れているのに、風の匂いが雨の前触れを運んでいた。
◇
夜。
玄関を開けると、リビングの灯り。
悠真がソファに座り、新聞を読んでいた。
私の足音に気づくと、顔を上げる。
「……切ったんだな」
「うん」
「似合うよ」
思っていたよりも、穏やかな声。
それだけで、胸の奥が少し緩んだ。
「ありがとう」
「どうして突然?」
「軽くなりたかったの」
「そうか」
彼は立ち上がり、私の髪に触れた。
指先が首筋をなぞる。
「手触り、いい」
「美容師さんが、トリートメントしてくれたの」
「男?」
心臓が、一瞬止まった。
「……うん」
「名前は?」
「分からない」
「名札、ついてただろ」
「見てない」
沈黙。
彼の手が、髪から離れる。
「……そうか」
それだけ言って、彼はキッチンへ向かった。
水の音。蛇口の金属音。
殴られなかった。怒鳴られなかった。
でも、空気が痛かった。
“怒り”が形を変えて、静かに部屋に沈殿していく。
◇
食卓には、彼の作ったオムライス。
ケチャップで「smile」と書いてある。
見た瞬間、泣きそうになった。
「……ありがとう」
「食べろよ」
フォークを持ち、卵を割る。
黄身の色が広がり、白い皿を染めた。
口に運ぶと、甘い。
いつもより、ずっと。
「美味しい」
「そうか」
彼は笑わなかった。
私は、笑えなかった。
沈黙だけが食卓を支配していた。
◇
夜更け。
洗面所で髪を乾かしていると、鏡の隅に何かが映った。
窓の外、暗闇の向こうに、光る点。
スマホのライト……いや、カメラの赤いランプ。
誰かが外に立っている。
心臓が跳ね、手が止まる。
「悠真……?」
声を出そうとした瞬間、廊下から彼の声がした。
「どうした?」
「いま、外に……」
窓を振り向くと、もう何もなかった。
「何か見えたのか?」
「気のせい、かも」
「疲れてるんだよ」
彼が肩に手を置いた。
その手があたたかいのに、背筋が凍る。
——誰だったの?
——それとも、あれも彼?
◇
翌朝。
ポストに、また白い封筒。
中には写真が一枚。
昨日の私、美容室の前で笑っている。
後ろに写る鏡。
鏡の中に、立っているのは——悠真だった。
私は膝の力が抜け、封筒を落とした。
どうして、そこにいたの?
リビングから、彼の声。
「おはよう」
私は、答えなかった。




