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虐げられても、あなたを愛してしまう──壊れた花嫁の記録  作者: マルコ


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第6話 輪は髪に落ちる

 午前八時。

 鏡の前に立ち、髪を梳く。

 ブラシが髪をすべり落ちる音が、部屋の静けさを細く裂く。

 長く伸ばしていた髪は、腰のあたりまである。

 悠真が「好き」と言った長さ。

 ——でも、今日は切る。

 彼のために、ではなく、自分のために。

 たとえ、それがほんの数センチでも。


 鏡越しに、白いチョーカーが首をなぞっている。

 昨日の夜、彼が留めたままの輪。

 「明日もつけてろ。慣らしたほうがいい」

 彼のその言葉が、まだ喉元に残っている。

 私は指先で金具を探し、慎重に外した。

 カチンという音が、やけに大きく響く。

 輪が解けるたび、胸の奥で何かが呼吸を取り戻す。



 出勤の途中、美容室に寄った。

 予約はしていない。

 「少しだけ、切りたいんです」

 受付の女性が微笑んで、鏡台に案内してくれた。

 椅子に座ると、背後の鏡に自分の顔が映る。

 頬の下に小さな影。

 笑っても、どこかが動かない。


 担当の美容師が現れた。

 若い男性。柔らかい茶髪。

 「今日はどうしますか?」

 「肩くらいまで。軽く見えるように」

 「了解です。印象、けっこう変わりますよ」

 彼は髪を束ねて、ゴムをはさみで切った。

 シュンという音。

 長い髪が、鏡の前を静かに落ちていく。


 ——まるで輪が、ほどけるみたいに。

 重さが消え、首筋に空気が触れた。

 思わず息を吸い込む。

 自由の味がした。



 仕上げのドライヤーの風の中で、美容師が言った。

 「結婚されてるんですね」

 「え?」

 指輪を見て、彼が微笑む。

 「ああ、そうなんです」

 「旦那さん、びっくりするかもな。髪、長かったでしょ?」

 「……ええ」

 笑うと、頬の筋肉がこわばった。

 「きっと似合うって言ってくれますよ」

 その言葉に、小さく「ありがとう」と答える。

 でも心のどこかで、違う返事が聞こえていた。

 ——たぶん、彼は言わない。「似合う」とは。


 鏡の中の私は、別人みたいだった。

 髪を失った分だけ、目が強く見える。

 「どうですか?」

 「……軽いです」

 「いい表情になりましたよ」

 彼の言葉に、少しだけ救われた。

 美容室の鏡は、残酷で、そして正直だ。

 私の中に残っていた“誰かの好み”を、少しだけ削ぎ落としてくれた気がした。



 帰り道、風が髪を撫でる。

 耳の後ろを通り抜ける風が、まるで「おかえり」と囁いているようだった。

 私は無意識に笑っていた。

 空の色が、こんなにも淡く優しいと思えたのは、いつ以来だろう。


 スマホが震えた。


『今、どこ?』


 指が止まる。

 あの青い点が、もう私を捕まえている。

 けれど、今日は違う。

 今日は、私が先に言葉を選ぶ。


『美容室。髪を切ったの。』


 数秒後、返事。


『……どれくらい?』


『肩まで。』


 長い沈黙のあと。


『帰ったら、見せて。』


 ——命令じゃなかった。

 でも、命令のように聞こえる優しさだった。

 私は小さくうなずき、スマホをしまった。

 空は晴れているのに、風の匂いが雨の前触れを運んでいた。



 夜。

 玄関を開けると、リビングの灯り。

 悠真がソファに座り、新聞を読んでいた。

 私の足音に気づくと、顔を上げる。

 「……切ったんだな」

 「うん」

 「似合うよ」

 思っていたよりも、穏やかな声。

 それだけで、胸の奥が少し緩んだ。

 「ありがとう」

 「どうして突然?」

 「軽くなりたかったの」

 「そうか」

 彼は立ち上がり、私の髪に触れた。

 指先が首筋をなぞる。

 「手触り、いい」

 「美容師さんが、トリートメントしてくれたの」

 「男?」

 心臓が、一瞬止まった。

 「……うん」

 「名前は?」

 「分からない」

 「名札、ついてただろ」

 「見てない」

 沈黙。

 彼の手が、髪から離れる。

 「……そうか」

 それだけ言って、彼はキッチンへ向かった。

 水の音。蛇口の金属音。

 殴られなかった。怒鳴られなかった。

 でも、空気が痛かった。

 “怒り”が形を変えて、静かに部屋に沈殿していく。



 食卓には、彼の作ったオムライス。

 ケチャップで「smile」と書いてある。

 見た瞬間、泣きそうになった。

 「……ありがとう」

 「食べろよ」

 フォークを持ち、卵を割る。

 黄身の色が広がり、白い皿を染めた。

 口に運ぶと、甘い。

 いつもより、ずっと。

 「美味しい」

 「そうか」

 彼は笑わなかった。

 私は、笑えなかった。

 沈黙だけが食卓を支配していた。



 夜更け。

 洗面所で髪を乾かしていると、鏡の隅に何かが映った。

 窓の外、暗闇の向こうに、光る点。

 スマホのライト……いや、カメラの赤いランプ。

 誰かが外に立っている。

 心臓が跳ね、手が止まる。

 「悠真……?」

 声を出そうとした瞬間、廊下から彼の声がした。

 「どうした?」

 「いま、外に……」

 窓を振り向くと、もう何もなかった。

 「何か見えたのか?」

 「気のせい、かも」

 「疲れてるんだよ」

 彼が肩に手を置いた。

 その手があたたかいのに、背筋が凍る。

 ——誰だったの?

 ——それとも、あれも彼?



 翌朝。

 ポストに、また白い封筒。

 中には写真が一枚。

 昨日の私、美容室の前で笑っている。

 後ろに写る鏡。

 鏡の中に、立っているのは——悠真だった。

 私は膝の力が抜け、封筒を落とした。

 どうして、そこにいたの?


 リビングから、彼の声。

 「おはよう」

 私は、答えなかった。

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