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虐げられても、あなたを愛してしまう──壊れた花嫁の記録  作者: マルコ


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第5話 リボンの解ける朝

 朝、テーブルの上に、白い小箱が戻っていた。

 昨日の夜と同じ位置。窓から射す光の帯の、ちょうど縁に触れる場所。

 リボンは、まだ結ばれている。


 私はコーヒーを一口飲み、箱を見つめた。

 触れれば、何かが変わる。

 触れなければ、何も変わらない。

 どちらも正しくて、どちらも残酷だ。


 「開けないの?」


 背後から悠真の声。

 冷蔵庫の前に立つ彼は、ジャムの瓶を片手に、いつもの調子で訊いた。

 「時間、あるし」

 「今は、いい」

 「どうして」

 「——私が、決めたいから」


 それだけ言うと、彼は小さく笑い、パンにバターを塗りはじめた。

 「分かった。お前が、決めろよ」


 優しい声。

 けれど、**“決めろよ”は、“今じゃないのか?”**の婉曲でもある。

 私は箱から目を離し、食器を並べた。

 朝を、普通に進める。

 それが、私の今日の戦い方。



 出勤前、鏡の前で髪を結ぶ。

 薄桃色のシュシュ——彼がくれたもの——を指に通し、二重に巻く。

 鏡の中の私は、よく眠れなかった目をしている。

 昨日、私は「謝らない夜」を越えた。

 勝利ではない。ただ、未払いの請求を翌日に送っただけ。


 玄関で靴紐を結んでいると、背後から彼の指が後れ毛をすくった。

 「その色、似合う」

 「ありがとう」

 「でも、今日は外す?」

 「どうして」

「職場で、目立つだろ」

 「……目立たないよ」

 少し考えて、私はシュシュを取り、替わりに黒いゴムで髪を結い直した。

 譲歩のつもりだった。

 **“半分”**という言葉が、胸のどこかでかすれて鳴る。

 彼は満足そうに頷いた。

 「行ってらっしゃい」

 「行ってきます」


 ドアを閉める前、ふと振り返る。

 テーブルの上の白い小箱。

 リボンは、まだ結ばれている。



 午前、仕事。

 メールに追われ、電話に追われ、時間が短くちぎれていく。

 昼休み、給湯室で紙コップのコーヒーを飲んでいると、同僚の美沙が入ってきた。

 「来栖さん、結婚式もうすぐ?」

 「うん。来月」

 「ドレス、どんなの?」

 「白。シンプルなの」

 「似合いそう。羨ましいなぁ」

 軽い会話。何でもない会話。

 私は笑って頷きながら、ポケットのスマホが震えるのを感じた。


『昼、どこ?』


 短い文。

 私は窓越しの中庭を一枚撮り、**“社内の休憩スペース。今から戻る”**と送った。

 既読はすぐにつき、返事はなかった。

 沈黙もまた、返答の一種だ。

 私は紙コップを捨て、デスクへ戻った。



 夕方、雨。

 折り畳み傘の骨が風で揺れる。

 コンビニに寄って、牛乳と卵を買った。

 レジを抜けると、また震える。


『今、コンビニ?』


 「うん」と打ちかけて、消した。

 報告は義務じゃない。私が選ぶこと。

 私は写真だけ送る。傘の先、濡れたアスファルト。

 返事は来ない。

 アプリの青い点は、私が家へ向かうルートを無言でなぞっているはずだ。

 私は、まっすぐ帰った。

 何も隠していない、という事実だけが、心の中の細い梁を支えていた。



 玄関の鍵を開けると、部屋は温かかった。

 カレーの匂い。

 「おかえり」

 悠真はキッチンに立ち、鍋をゆっくりかき混ぜている。

 いつかの夜と同じように。

 「今日、雨すごかったな」

 「うん。ありがとう、作ってくれて」

 「辛さ、甘めにした」

 「嬉しい」

 優しさは、いつも真っ先に私を抱きしめる。

 そして、遅れて請求がやってくる。

 私はスプーンを並べ、息を整えた。


 食後、テーブルの上に彼が白い小箱を置く。

 「開けよう」

 私は箱に手を伸ばし、リボンを摘んだ。

 布の感触が指先に吸い付く。

 深呼吸をひとつ。

 引く。

 するりと、蝶がほどける。

 音はしないのに、部屋の空気がひときわ大きく鳴った気がした。


 蓋を上げる。

 薄紙がふわりと持ち上がり、白いシルクのチョーカーが現れた。

 中央に小さなパール。

 「……綺麗」

 声が本当に小さくなった。

 「試してみろよ」

 彼が椅子を回し、私の背中に回る。

 指先がうなじに触れ、カチと留め具が鳴った。

 首の周りに、柔らかい絹の輪。

 鏡の角度を直し、私は自分の喉元を見た。

 白い線が、呼吸の出入り口を静かに囲っている。

 「似合う」

 彼の声は本当に嬉しそうで、私は微笑んだ。

 「ありがとう」

 贈り物は輪。輪は約束。約束は、ときに、鎖。

 指輪に続く、二つ目の輪。

 私はその美しさとおそろしさを、同時に飲み込んだ。



 その夜、ふたりでソファに座り、映画を流した。

 中盤を過ぎたあたりで、彼が一時停止を押す。

 「なぁ」

 「うん」

 「今日、昼に“どこにいるか”を訊いた件、嫌だった?」

「正直に言うと、少し」

 「そうか」

 彼は少し考えるように視線を泳がせ、それから続けた。

 「俺も努力してる。お前の“謝らない”を、受け止めようとしてる」

 「知ってる」

 「だから、お前もさ。俺が訊かなくて済むように、先に知らせてくれ」

 言葉の形は、お願い。

 内側の骨組みは、命令。

 私は喉を撫でるチョーカーに指をあて、絹の温度を確かめた。

 「考える」

 「“考える”じゃなくて、“してほしい”」

 「……できる範囲で」

 「じゃあ、基準を決めよう。俺が不安にならない“範囲”」

 彼はテーブルのメモ帳を引き寄せ、ペンをキャップから抜いた。

 白い紙に、黒い文字が並んでいく。

 連絡の頻度、帰宅時刻の幅、突然の予定変更の禁止、アプリ常時オン、夜間の通話は三分以内。

 私は黙って見つめた。

 「これは——契約?」

 「安心の、ルール」

 私はペンを取り、紙の端に自分の字で、一行だけ書き足す。

 “私のスマホは、私だけのもの”

 彼がその行を見つめ、顎に手を当てた。

 「……分かった。今は、それでいい」

 今は。

 “今は”は、未来の撤回の予告編だ。

 私はそれでも頷き、メモを畳んだ。



 深夜、シャワー。

 鏡に映る喉元の白い輪を外し、タオルに包む。

 チョーカーの留め具は小さくて、指先で何度か探さないと開かない。

 輪から出るのは、入るより時間がかかる。

 私はその事実だけを、そっと胸にしまった。


 寝室へ戻ると、彼はすでに横になっていた。

 「おやすみ」

 「おやすみ」

 電気を消す。

 暗闇の中、指輪とチョーカーの二つの輪の触感だけが、肌に残っている。

 私は目を閉じ、呼吸の数を数えた。

 輪の中で眠る。

 輪の中で目覚める。

 輪を、美しいと呼ぶのか、狭いと呼ぶのか。

 答えは、朝になっても出なかった。



 翌朝。

 目覚めると、枕元に白い封筒が置かれていた。

 差出人の名前は、書かれていない。

 開けると、写真が一枚、滑り落ちる。

 昨日、駅前のコンビニの前で傘を閉じる私。

 背景には、春人が小さく写り込んでいた。

 私は息を飲んだ。

 「……何、これ」

 目線を上げると、ドアにもたれて立つ悠真がいた。

 「ポストに入ってた。誰だろうな」

 声の温度は、涼しい。

 「偶然、すれ違っただけ」

 「俺に言えば、よかったのに」

 「言うほどのことじゃない」

 「俺にとっては、言うほどのことだよ」


 封筒の底に、小さく折られた紙切れ。

 開くと、文字はない。

 けれど、その沈黙が、告発状より重い。

 私の喉元で、外していたはずの輪がきゅっと締まる感じがした。

 “見られている”——彼だけじゃない、誰かに。

 もしくは——彼が“誰か”を連れてきたのか。


 悠真は一歩、近づいた。

 「今日、休める?」

「無理。大事な打ち合わせ」

 「だったら夜、やめよう。友達との約束、入れてたよな?」

 「入れてない」

 「……そうか。なら、帰ったら話そう。箱をもう一つ、渡したい」

 箱。

 輪が、一つ、増えるのだろうか。

 首、指、次は——どこに。



 出勤の準備をしながら、私は一つだけ決めた。

 私から先に、誰かへ“説明”をしない。

 私は、私の生活を、逐一書き起こすために生きているわけじゃない。

 「行ってきます」

 「行ってらっしゃい」


 玄関を出ると、廊下の角に、見覚えのない傘が立てかけられていた。

 黒の柄、銀の留め具。

 触れなかった。

 何かが、ここへ入り込んでいる。

 私は足を速め、階段を降りた。



 電車。

 吊り革。

 窓の外を、濡れた街が逆に流れていく。

 スマホの画面に、青い点がじっと座っている。

 “共有は切らない”

 昨夜、私が自分で書いた行。

 あの紙は、彼の引き出しに仕舞われた。

 証拠のように。

 誓約のように。


 通知が震えた。


『夜、八時。忘れないで』


 短い文。

 私は**“忘れない”**とだけ打ち、送信した。

 返事は、なかった。



 仕事が終わると、雨は上がっていた。

 空気はまだ重く、アスファルトは黒い鏡のようだ。

 まっすぐ帰る。

 ——そう決めていたのに、足が一瞬だけ止まった。

 白い小箱を売ってくれた商店街のジュエリー店。

 ガラス越しに、シルバーの光が並んでいる。

 私はガラスに手をつき、喉元の感触を確かめた。

 首の輪は、店の輪と、同じ光でできている。

 私が選んだのか。選ばされたのか。

 選ぶことと、選ばされることは、時々、同じ顔をして近づいてくる。


 店には入らず、私は踵を返した。

 夜の八時に間に合うように。



 家のドアを開けると、灯りが柔らかかった。

 テーブルの上に、二つ目の白い小箱。

 リボンは、最初のと同じ結び方。

 私は上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。

 悠真が向かいに座る。

 「開けて」

 「今?」

 「今」


 私はリボンを引いた。

 するりと、蝶がほどける。

 蓋を上げる。

 中にあったのは、白い革の細いブレスレット。

 中央に、小さな金具。

 「可愛い」

 「よかった」

 彼は私の手首を取り、革の輪を通して、金具を留めた。

 カチ。

 三つ目の輪。

 指、喉、手首。

 私は笑って、息を吸った。

 革は柔らかいのに、留め具だけがやけに確かな音を立てる。


 「似合ってる」

 「ありがとう」

 「——それ、鍵になってる」

 彼が静かに言った。

 「え?」

 「家の、玄関。スマートロックの追加キー」

 彼はスマホを操作し、玄関の施錠アプリを開いて見せた。

 「お前だけの、鍵」

 微笑み。

 “だけの”は、“だけの”ではない。

 共有された“家”の鍵。

 私は頷いた。

 「嬉しい」

 そう言いながら、心のどこかで冷たい汗が滲んだ。

 鍵は、自由をくれる。

 鍵は、閉じる力も持っている。



 夜更け。

 ベッドサイドに、三つの輪を並べて置いた。

 指輪、チョーカー、ブレスレット。

 輪はどれも白く、どれも小さく、どれも完全だ。

 私は一つずつ指で転がし、光の反射を確かめる。

 私が選んだ輪と、選ばされた輪。

 区別はもう曖昧で、私は曖昧なまま眠るしかない。


 灯りを消そうとしたとき、玄関から小さな電子音がした。

 ピッ、カチャ。

 鍵の開閉音。

 私は体を固くし、廊下へ出る。

 玄関は、閉まっている。

 アプリを開くと、**“外部デバイスからの一時アクセス”**の履歴。

 「悠真?」

 寝室から彼の声。

 「今の、何?」

 「——テストした。新しいキーが、ちゃんと動くか」

 「今?」

 「今」


 私は頷き、スマホの画面を閉じた。

 鍵は、夜でも試せる。

 輪は、夜でも締められる。

 私は寝室へ戻り、布団を肩まで引き上げた。

 眠りは浅く、音の一つひとつが、輪の触れ合うカチに聞こえた。



 ——夢を見た。

 広い白い部屋。

 床に、白い輪がいくつも散らばっている。

 それは指の輪で、喉の輪で、手首の輪で、鍵の輪で。

 私は素足で輪を踏み、指で拾い、胸に押し当てる。

 輪は軽く、同時に重い。

 誰かの声がする。

 「救うなら、全部つけて」

 「逃げるなら、全部置いて」

 私はどちらも選べず、ただ輪を数え続けた。



 朝。

 窓の外に薄い光。

 枕元に白いメモが一枚置いてある。

 知らない字で、一行だけ。


 > “次は、髪。”


 胸の奥が、静かに沈んだ。

 次の輪の場所が、決まったのだ。

 私の髪。

 彼が好む長さに、色に、形に。

 “似合う”の名のもとに。

 私はメモを二つに折り、さらに二つに折って、小さな四角にした。

 その四角は、輪にはならない。

 紙は輪にならない。

 輪にならないものを、私はポケットに入れた。


 キッチンへ向かうと、彼が笑った。

 「おはよう」

 「おはよう」

 「今日、早く帰れる?」

 「分からない」

 「帰れそうなら、髪、見に行こう」

 私は頷き、コップに水を注いだ。

 コップの円、食卓の皿の円、壁時計の円、ルンバの円、鍋の円。

 世界は、輪でできている。

 私は水を飲み干し、息を整えた。


 ——輪から、出る方法を、まだ私は知らない。

 でも、輪の中心で立つ方法なら、少しずつ分かってきた気がする。

 中心に立てば、引かれても、回っても、自分の足がどこにあるか分かるから。


 「行ってきます」

 「行ってらっしゃい」


 ドアを閉める直前、私は振り返り、テーブルの上の輪たちを見た。

 指の輪、喉の輪、手首の輪。

 それから、ポケットの中で、輪にならない紙がかすかに擦れる音を聞いた。


 私は、まだ、ここにいる。

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