第5話 リボンの解ける朝
朝、テーブルの上に、白い小箱が戻っていた。
昨日の夜と同じ位置。窓から射す光の帯の、ちょうど縁に触れる場所。
リボンは、まだ結ばれている。
私はコーヒーを一口飲み、箱を見つめた。
触れれば、何かが変わる。
触れなければ、何も変わらない。
どちらも正しくて、どちらも残酷だ。
「開けないの?」
背後から悠真の声。
冷蔵庫の前に立つ彼は、ジャムの瓶を片手に、いつもの調子で訊いた。
「時間、あるし」
「今は、いい」
「どうして」
「——私が、決めたいから」
それだけ言うと、彼は小さく笑い、パンにバターを塗りはじめた。
「分かった。お前が、決めろよ」
優しい声。
けれど、**“決めろよ”は、“今じゃないのか?”**の婉曲でもある。
私は箱から目を離し、食器を並べた。
朝を、普通に進める。
それが、私の今日の戦い方。
◇
出勤前、鏡の前で髪を結ぶ。
薄桃色のシュシュ——彼がくれたもの——を指に通し、二重に巻く。
鏡の中の私は、よく眠れなかった目をしている。
昨日、私は「謝らない夜」を越えた。
勝利ではない。ただ、未払いの請求を翌日に送っただけ。
玄関で靴紐を結んでいると、背後から彼の指が後れ毛をすくった。
「その色、似合う」
「ありがとう」
「でも、今日は外す?」
「どうして」
「職場で、目立つだろ」
「……目立たないよ」
少し考えて、私はシュシュを取り、替わりに黒いゴムで髪を結い直した。
譲歩のつもりだった。
**“半分”**という言葉が、胸のどこかでかすれて鳴る。
彼は満足そうに頷いた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ドアを閉める前、ふと振り返る。
テーブルの上の白い小箱。
リボンは、まだ結ばれている。
◇
午前、仕事。
メールに追われ、電話に追われ、時間が短くちぎれていく。
昼休み、給湯室で紙コップのコーヒーを飲んでいると、同僚の美沙が入ってきた。
「来栖さん、結婚式もうすぐ?」
「うん。来月」
「ドレス、どんなの?」
「白。シンプルなの」
「似合いそう。羨ましいなぁ」
軽い会話。何でもない会話。
私は笑って頷きながら、ポケットのスマホが震えるのを感じた。
『昼、どこ?』
短い文。
私は窓越しの中庭を一枚撮り、**“社内の休憩スペース。今から戻る”**と送った。
既読はすぐにつき、返事はなかった。
沈黙もまた、返答の一種だ。
私は紙コップを捨て、デスクへ戻った。
◇
夕方、雨。
折り畳み傘の骨が風で揺れる。
コンビニに寄って、牛乳と卵を買った。
レジを抜けると、また震える。
『今、コンビニ?』
「うん」と打ちかけて、消した。
報告は義務じゃない。私が選ぶこと。
私は写真だけ送る。傘の先、濡れたアスファルト。
返事は来ない。
アプリの青い点は、私が家へ向かうルートを無言でなぞっているはずだ。
私は、まっすぐ帰った。
何も隠していない、という事実だけが、心の中の細い梁を支えていた。
◇
玄関の鍵を開けると、部屋は温かかった。
カレーの匂い。
「おかえり」
悠真はキッチンに立ち、鍋をゆっくりかき混ぜている。
いつかの夜と同じように。
「今日、雨すごかったな」
「うん。ありがとう、作ってくれて」
「辛さ、甘めにした」
「嬉しい」
優しさは、いつも真っ先に私を抱きしめる。
そして、遅れて請求がやってくる。
私はスプーンを並べ、息を整えた。
食後、テーブルの上に彼が白い小箱を置く。
「開けよう」
私は箱に手を伸ばし、リボンを摘んだ。
布の感触が指先に吸い付く。
深呼吸をひとつ。
引く。
するりと、蝶がほどける。
音はしないのに、部屋の空気がひときわ大きく鳴った気がした。
蓋を上げる。
薄紙がふわりと持ち上がり、白いシルクのチョーカーが現れた。
中央に小さなパール。
「……綺麗」
声が本当に小さくなった。
「試してみろよ」
彼が椅子を回し、私の背中に回る。
指先がうなじに触れ、カチと留め具が鳴った。
首の周りに、柔らかい絹の輪。
鏡の角度を直し、私は自分の喉元を見た。
白い線が、呼吸の出入り口を静かに囲っている。
「似合う」
彼の声は本当に嬉しそうで、私は微笑んだ。
「ありがとう」
贈り物は輪。輪は約束。約束は、ときに、鎖。
指輪に続く、二つ目の輪。
私はその美しさとおそろしさを、同時に飲み込んだ。
◇
その夜、ふたりでソファに座り、映画を流した。
中盤を過ぎたあたりで、彼が一時停止を押す。
「なぁ」
「うん」
「今日、昼に“どこにいるか”を訊いた件、嫌だった?」
「正直に言うと、少し」
「そうか」
彼は少し考えるように視線を泳がせ、それから続けた。
「俺も努力してる。お前の“謝らない”を、受け止めようとしてる」
「知ってる」
「だから、お前もさ。俺が訊かなくて済むように、先に知らせてくれ」
言葉の形は、お願い。
内側の骨組みは、命令。
私は喉を撫でるチョーカーに指をあて、絹の温度を確かめた。
「考える」
「“考える”じゃなくて、“してほしい”」
「……できる範囲で」
「じゃあ、基準を決めよう。俺が不安にならない“範囲”」
彼はテーブルのメモ帳を引き寄せ、ペンをキャップから抜いた。
白い紙に、黒い文字が並んでいく。
連絡の頻度、帰宅時刻の幅、突然の予定変更の禁止、アプリ常時オン、夜間の通話は三分以内。
私は黙って見つめた。
「これは——契約?」
「安心の、ルール」
私はペンを取り、紙の端に自分の字で、一行だけ書き足す。
“私のスマホは、私だけのもの”
彼がその行を見つめ、顎に手を当てた。
「……分かった。今は、それでいい」
今は。
“今は”は、未来の撤回の予告編だ。
私はそれでも頷き、メモを畳んだ。
◇
深夜、シャワー。
鏡に映る喉元の白い輪を外し、タオルに包む。
チョーカーの留め具は小さくて、指先で何度か探さないと開かない。
輪から出るのは、入るより時間がかかる。
私はその事実だけを、そっと胸にしまった。
寝室へ戻ると、彼はすでに横になっていた。
「おやすみ」
「おやすみ」
電気を消す。
暗闇の中、指輪とチョーカーの二つの輪の触感だけが、肌に残っている。
私は目を閉じ、呼吸の数を数えた。
輪の中で眠る。
輪の中で目覚める。
輪を、美しいと呼ぶのか、狭いと呼ぶのか。
答えは、朝になっても出なかった。
◇
翌朝。
目覚めると、枕元に白い封筒が置かれていた。
差出人の名前は、書かれていない。
開けると、写真が一枚、滑り落ちる。
昨日、駅前のコンビニの前で傘を閉じる私。
背景には、春人が小さく写り込んでいた。
私は息を飲んだ。
「……何、これ」
目線を上げると、ドアにもたれて立つ悠真がいた。
「ポストに入ってた。誰だろうな」
声の温度は、涼しい。
「偶然、すれ違っただけ」
「俺に言えば、よかったのに」
「言うほどのことじゃない」
「俺にとっては、言うほどのことだよ」
封筒の底に、小さく折られた紙切れ。
開くと、文字はない。
けれど、その沈黙が、告発状より重い。
私の喉元で、外していたはずの輪がきゅっと締まる感じがした。
“見られている”——彼だけじゃない、誰かに。
もしくは——彼が“誰か”を連れてきたのか。
悠真は一歩、近づいた。
「今日、休める?」
「無理。大事な打ち合わせ」
「だったら夜、やめよう。友達との約束、入れてたよな?」
「入れてない」
「……そうか。なら、帰ったら話そう。箱をもう一つ、渡したい」
箱。
輪が、一つ、増えるのだろうか。
首、指、次は——どこに。
◇
出勤の準備をしながら、私は一つだけ決めた。
私から先に、誰かへ“説明”をしない。
私は、私の生活を、逐一書き起こすために生きているわけじゃない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関を出ると、廊下の角に、見覚えのない傘が立てかけられていた。
黒の柄、銀の留め具。
触れなかった。
何かが、ここへ入り込んでいる。
私は足を速め、階段を降りた。
◇
電車。
吊り革。
窓の外を、濡れた街が逆に流れていく。
スマホの画面に、青い点がじっと座っている。
“共有は切らない”
昨夜、私が自分で書いた行。
あの紙は、彼の引き出しに仕舞われた。
証拠のように。
誓約のように。
通知が震えた。
『夜、八時。忘れないで』
短い文。
私は**“忘れない”**とだけ打ち、送信した。
返事は、なかった。
◇
仕事が終わると、雨は上がっていた。
空気はまだ重く、アスファルトは黒い鏡のようだ。
まっすぐ帰る。
——そう決めていたのに、足が一瞬だけ止まった。
白い小箱を売ってくれた商店街のジュエリー店。
ガラス越しに、シルバーの光が並んでいる。
私はガラスに手をつき、喉元の感触を確かめた。
首の輪は、店の輪と、同じ光でできている。
私が選んだのか。選ばされたのか。
選ぶことと、選ばされることは、時々、同じ顔をして近づいてくる。
店には入らず、私は踵を返した。
夜の八時に間に合うように。
◇
家のドアを開けると、灯りが柔らかかった。
テーブルの上に、二つ目の白い小箱。
リボンは、最初のと同じ結び方。
私は上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
悠真が向かいに座る。
「開けて」
「今?」
「今」
私はリボンを引いた。
するりと、蝶がほどける。
蓋を上げる。
中にあったのは、白い革の細いブレスレット。
中央に、小さな金具。
「可愛い」
「よかった」
彼は私の手首を取り、革の輪を通して、金具を留めた。
カチ。
三つ目の輪。
指、喉、手首。
私は笑って、息を吸った。
革は柔らかいのに、留め具だけがやけに確かな音を立てる。
「似合ってる」
「ありがとう」
「——それ、鍵になってる」
彼が静かに言った。
「え?」
「家の、玄関。スマートロックの追加キー」
彼はスマホを操作し、玄関の施錠アプリを開いて見せた。
「お前だけの、鍵」
微笑み。
“だけの”は、“だけの”ではない。
共有された“家”の鍵。
私は頷いた。
「嬉しい」
そう言いながら、心のどこかで冷たい汗が滲んだ。
鍵は、自由をくれる。
鍵は、閉じる力も持っている。
◇
夜更け。
ベッドサイドに、三つの輪を並べて置いた。
指輪、チョーカー、ブレスレット。
輪はどれも白く、どれも小さく、どれも完全だ。
私は一つずつ指で転がし、光の反射を確かめる。
私が選んだ輪と、選ばされた輪。
区別はもう曖昧で、私は曖昧なまま眠るしかない。
灯りを消そうとしたとき、玄関から小さな電子音がした。
ピッ、カチャ。
鍵の開閉音。
私は体を固くし、廊下へ出る。
玄関は、閉まっている。
アプリを開くと、**“外部デバイスからの一時アクセス”**の履歴。
「悠真?」
寝室から彼の声。
「今の、何?」
「——テストした。新しいキーが、ちゃんと動くか」
「今?」
「今」
私は頷き、スマホの画面を閉じた。
鍵は、夜でも試せる。
輪は、夜でも締められる。
私は寝室へ戻り、布団を肩まで引き上げた。
眠りは浅く、音の一つひとつが、輪の触れ合うカチに聞こえた。
◇
——夢を見た。
広い白い部屋。
床に、白い輪がいくつも散らばっている。
それは指の輪で、喉の輪で、手首の輪で、鍵の輪で。
私は素足で輪を踏み、指で拾い、胸に押し当てる。
輪は軽く、同時に重い。
誰かの声がする。
「救うなら、全部つけて」
「逃げるなら、全部置いて」
私はどちらも選べず、ただ輪を数え続けた。
◇
朝。
窓の外に薄い光。
枕元に白いメモが一枚置いてある。
知らない字で、一行だけ。
> “次は、髪。”
胸の奥が、静かに沈んだ。
次の輪の場所が、決まったのだ。
私の髪。
彼が好む長さに、色に、形に。
“似合う”の名のもとに。
私はメモを二つに折り、さらに二つに折って、小さな四角にした。
その四角は、輪にはならない。
紙は輪にならない。
輪にならないものを、私はポケットに入れた。
キッチンへ向かうと、彼が笑った。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、早く帰れる?」
「分からない」
「帰れそうなら、髪、見に行こう」
私は頷き、コップに水を注いだ。
コップの円、食卓の皿の円、壁時計の円、ルンバの円、鍋の円。
世界は、輪でできている。
私は水を飲み干し、息を整えた。
——輪から、出る方法を、まだ私は知らない。
でも、輪の中心で立つ方法なら、少しずつ分かってきた気がする。
中心に立てば、引かれても、回っても、自分の足がどこにあるか分かるから。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを閉める直前、私は振り返り、テーブルの上の輪たちを見た。
指の輪、喉の輪、手首の輪。
それから、ポケットの中で、輪にならない紙がかすかに擦れる音を聞いた。
私は、まだ、ここにいる。




