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虐げられても、あなたを愛してしまう──壊れた花嫁の記録  作者: マルコ


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第4話 謝らない夜

 その夜、私は一言も「ごめんなさい」を言わなかった。

 ほんのそれだけのことが、世界をこれほどまでに変えるとは、思っていなかった。



 仕事から帰ると、リビングの灯りが消えていた。

 ドアを開ける音に、誰も反応しない。

 キッチンには、冷めたシチュー。

 テーブルの上にメモも、鍋の湯気もない。

 時計は午後九時を指している。


 「……ただいま」


 小さく声を出す。

 返事はない。

 ソファの背もたれ越しに、人の気配。

 悠真が、スマホを手に座っていた。

 画面の光が、彼の頬を白く照らす。


 「遅かったな」


 低く、乾いた声。

 「残業。報告、送ったけど……見てなかった?」

 「見たよ。……本当か?」


 私は息を呑んだ。

 彼の視線は、スマホの画面に釘付けのまま。

 画面には、『LifeLink』の青い点が映っている。

 「仕事先のビルから少し動いたな」

 「駅前のコンビニ。明日の朝食買いに」

 「店の前で、立ち止まってた」

 「電話してたの」

 「誰と?」

 「母と」

 「嘘つくな」


 その言葉が、部屋の空気を一瞬で冷たくした。

 私は深呼吸をして、まっすぐに彼を見た。

 「本当。母と話してた」

 「証拠は?」

 「履歴、見る?」

 手を伸ばすと、彼は視線を外した。

 「……いい。信じる」

 信じる——その言葉が、これほど脅しに近く聞こえたことはなかった。



 夕食を温め直す間、彼は一言も話さなかった。

 鍋の底がこすれる音と、電子レンジのブーンという低音だけが響く。

 私は黙ってテーブルを整えた。

 皿を並べ、パンを添える。

 「いただきます」と言ったのは私だけだった。


 スプーンの音が、規則的に響く。

 静かで、重い音。

 彼の動きが止まり、視線がゆっくりと私に向く。

 「……冷めてる」

 「ごめ——」

 口を開いた瞬間、私は自分の舌を噛んだ。

 痛みが、唇の奥でじんわり広がる。

 謝らない。

 「今、温め直すね」

 私は立ち上がり、鍋を持ち上げる。

 背後から、低い声。

 「いい」

 「でも」

 「いいって言ってんだろ」


 彼の声には怒気がない。

 ただ、命令のような静けさ。

 私は椅子に戻り、無言でスプーンを持った。

 食欲なんてなかった。

 けれど、箸を置くと負けた気がした。

 「美味しいね」

 そう言うと、彼は反応しなかった。



 食事を終え、食器を洗う。

 背中に視線を感じた。

 振り返ると、悠真はソファに座り、スマホを見ていた。

 ——アプリの画面。

 青い点が、私の位置を示している。


 「ねぇ」

 「何」

 「アプリ、夜だけオフにしてもいい?」

 彼の動きが止まる。

 「夜だけ?」

 「うん。お互い、寝てる間は見ても仕方ないでしょ」

 「寝るまでの間に、どこ行くの?」

 「行かない。でも、見られてると思うと落ち着かないの」

 沈黙。

 彼はゆっくりとスマホをテーブルに置いた。

 「落ち着かないのは、何か隠してるからだろ」

 「隠してない」

 「なら、見られても平気だろ」

 「違う」

 「何が違うんだ」


 彼の声が、少しだけ荒れた。

 けれど私は、恐れなかった。

 今夜は、謝らないと決めている。

 私は静かに息を吸い、吐いた。

 「信頼って、監視じゃ作れないよ」

 彼の眉が動いた。

 「俺は、お前のためにやってる」

 「それは、あなたの安心のため」

 「同じだろ」

 「違うよ」

 その言葉のあと、部屋の中の時間が止まったように静まり返った。



 十秒。二十秒。

 冷蔵庫のモーター音がやけにうるさい。

 彼は立ち上がり、シンクの前に来た。

 私の隣に立ち、流しの中の皿をじっと見つめる。

 「俺が洗う」

 「いい。もう終わる」

 「俺がやるって言ってんだろ」

 そう言って、彼は私の手から皿を取った。

 水しぶきが飛び、袖口が濡れた。

 私は何も言わずにタオルを差し出した。

 「……怒ってる?」

 「怒ってない」

 「本当に?」

 「怒ってない」


 その“怒ってない”の声が、一番怖かった。

 感情を殺した声。

 殴るよりも、何倍も冷たい暴力。



 寝室に戻っても、彼は黙ったままだった。

 照明を落とし、背を向け合って寝る。

 息のリズムが噛み合わない。

 私は目を閉じる。

 体の奥が、硬く固まっていく。

 「……おやすみ」

 その一言を出すまでに、三分かかった。

 返事はなかった。


 私は心の中で何度も繰り返す。

 謝らなかった。謝らなかった。謝らなかった。

 そのことだけが、私を支えていた。



 午前二時。

 目が覚めた。

 喉が渇いて、台所へ水を取りに行く。

 暗闇の中、スマホが光っていた。

 『LifeLink:パートナーの端末が再起動されました』

 心臓が一瞬、凍る。

 そっと画面を開く。

 青い点が、家の中をゆっくりと動いていた。

 彼が、私を見ている。

 寝たふりをしていた彼が、もう一度アプリを開いたのだ。

 息を潜め、スマホの電源を切る。

 電源を切ることさえ、恐怖だった。

 でも、私はスイッチを押した。

 暗闇に戻った画面が、まるで自分の意志を取り戻したように見えた。



 翌朝。

 カーテンの隙間から光が差す。

 彼は起きて、コーヒーを淹れていた。

 「おはよう」

 「おはよう」

 「昨日、スマホ落ちた?」

 「うん。電池、切れたみたい」

 「そうか」


 彼はそれ以上何も言わなかった。

 沈黙の中で、私の心臓が静かに打っていた。

 ——勝ったとか、負けたとかじゃない。

 ただ、生き延びた。

 謝らなかった夜を、越えた。



 出勤の準備を終え、玄関に立つ。

 靴を履こうとしたとき、後ろから彼の声。

 「今夜、話がある」

 「うん」

 「ちゃんと、話そう」

 その言葉には、優しさも脅しも、どちらも混じっていた。

 私は微笑んで答える。

 「うん。ちゃんと、話そうね」


 ドアを開けると、朝の光が差し込んだ。

 頬に当たる光が、少しだけ暖かかった。

 その温かさが、本当の自由かどうかは分からない。

 でも、私は歩き出した。

 謝らないことを覚えた女として。

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