第4話 謝らない夜
その夜、私は一言も「ごめんなさい」を言わなかった。
ほんのそれだけのことが、世界をこれほどまでに変えるとは、思っていなかった。
◇
仕事から帰ると、リビングの灯りが消えていた。
ドアを開ける音に、誰も反応しない。
キッチンには、冷めたシチュー。
テーブルの上にメモも、鍋の湯気もない。
時計は午後九時を指している。
「……ただいま」
小さく声を出す。
返事はない。
ソファの背もたれ越しに、人の気配。
悠真が、スマホを手に座っていた。
画面の光が、彼の頬を白く照らす。
「遅かったな」
低く、乾いた声。
「残業。報告、送ったけど……見てなかった?」
「見たよ。……本当か?」
私は息を呑んだ。
彼の視線は、スマホの画面に釘付けのまま。
画面には、『LifeLink』の青い点が映っている。
「仕事先のビルから少し動いたな」
「駅前のコンビニ。明日の朝食買いに」
「店の前で、立ち止まってた」
「電話してたの」
「誰と?」
「母と」
「嘘つくな」
その言葉が、部屋の空気を一瞬で冷たくした。
私は深呼吸をして、まっすぐに彼を見た。
「本当。母と話してた」
「証拠は?」
「履歴、見る?」
手を伸ばすと、彼は視線を外した。
「……いい。信じる」
信じる——その言葉が、これほど脅しに近く聞こえたことはなかった。
◇
夕食を温め直す間、彼は一言も話さなかった。
鍋の底がこすれる音と、電子レンジのブーンという低音だけが響く。
私は黙ってテーブルを整えた。
皿を並べ、パンを添える。
「いただきます」と言ったのは私だけだった。
スプーンの音が、規則的に響く。
静かで、重い音。
彼の動きが止まり、視線がゆっくりと私に向く。
「……冷めてる」
「ごめ——」
口を開いた瞬間、私は自分の舌を噛んだ。
痛みが、唇の奥でじんわり広がる。
謝らない。
「今、温め直すね」
私は立ち上がり、鍋を持ち上げる。
背後から、低い声。
「いい」
「でも」
「いいって言ってんだろ」
彼の声には怒気がない。
ただ、命令のような静けさ。
私は椅子に戻り、無言でスプーンを持った。
食欲なんてなかった。
けれど、箸を置くと負けた気がした。
「美味しいね」
そう言うと、彼は反応しなかった。
◇
食事を終え、食器を洗う。
背中に視線を感じた。
振り返ると、悠真はソファに座り、スマホを見ていた。
——アプリの画面。
青い点が、私の位置を示している。
「ねぇ」
「何」
「アプリ、夜だけオフにしてもいい?」
彼の動きが止まる。
「夜だけ?」
「うん。お互い、寝てる間は見ても仕方ないでしょ」
「寝るまでの間に、どこ行くの?」
「行かない。でも、見られてると思うと落ち着かないの」
沈黙。
彼はゆっくりとスマホをテーブルに置いた。
「落ち着かないのは、何か隠してるからだろ」
「隠してない」
「なら、見られても平気だろ」
「違う」
「何が違うんだ」
彼の声が、少しだけ荒れた。
けれど私は、恐れなかった。
今夜は、謝らないと決めている。
私は静かに息を吸い、吐いた。
「信頼って、監視じゃ作れないよ」
彼の眉が動いた。
「俺は、お前のためにやってる」
「それは、あなたの安心のため」
「同じだろ」
「違うよ」
その言葉のあと、部屋の中の時間が止まったように静まり返った。
◇
十秒。二十秒。
冷蔵庫のモーター音がやけにうるさい。
彼は立ち上がり、シンクの前に来た。
私の隣に立ち、流しの中の皿をじっと見つめる。
「俺が洗う」
「いい。もう終わる」
「俺がやるって言ってんだろ」
そう言って、彼は私の手から皿を取った。
水しぶきが飛び、袖口が濡れた。
私は何も言わずにタオルを差し出した。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「怒ってない」
その“怒ってない”の声が、一番怖かった。
感情を殺した声。
殴るよりも、何倍も冷たい暴力。
◇
寝室に戻っても、彼は黙ったままだった。
照明を落とし、背を向け合って寝る。
息のリズムが噛み合わない。
私は目を閉じる。
体の奥が、硬く固まっていく。
「……おやすみ」
その一言を出すまでに、三分かかった。
返事はなかった。
私は心の中で何度も繰り返す。
謝らなかった。謝らなかった。謝らなかった。
そのことだけが、私を支えていた。
◇
午前二時。
目が覚めた。
喉が渇いて、台所へ水を取りに行く。
暗闇の中、スマホが光っていた。
『LifeLink:パートナーの端末が再起動されました』
心臓が一瞬、凍る。
そっと画面を開く。
青い点が、家の中をゆっくりと動いていた。
彼が、私を見ている。
寝たふりをしていた彼が、もう一度アプリを開いたのだ。
息を潜め、スマホの電源を切る。
電源を切ることさえ、恐怖だった。
でも、私はスイッチを押した。
暗闇に戻った画面が、まるで自分の意志を取り戻したように見えた。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から光が差す。
彼は起きて、コーヒーを淹れていた。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日、スマホ落ちた?」
「うん。電池、切れたみたい」
「そうか」
彼はそれ以上何も言わなかった。
沈黙の中で、私の心臓が静かに打っていた。
——勝ったとか、負けたとかじゃない。
ただ、生き延びた。
謝らなかった夜を、越えた。
◇
出勤の準備を終え、玄関に立つ。
靴を履こうとしたとき、後ろから彼の声。
「今夜、話がある」
「うん」
「ちゃんと、話そう」
その言葉には、優しさも脅しも、どちらも混じっていた。
私は微笑んで答える。
「うん。ちゃんと、話そうね」
ドアを開けると、朝の光が差し込んだ。
頬に当たる光が、少しだけ暖かかった。
その温かさが、本当の自由かどうかは分からない。
でも、私は歩き出した。
謝らないことを覚えた女として。




