第3話 優しさの価格
朝、キッチンに立つと、テーブルの上に白い箱が置いてあった。
リボンが結ばれている。小さく、控えめで、可愛らしい。
「おはよう」
振り向いた私に、悠真がマグカップを差し出した。
カップの湯気が甘い香りを運ぶ。ミルク多めのコーヒー。
私の好みを、彼は覚えている。
「開けてみて」
箱の蓋を持ち上げると、薄桃色のシュシュが二つ入っていた。
ふわふわとした質感。光にかざすと、柔らかく透ける。
「可愛い」
思わず笑ってしまう。胸のどこかが緩む。
「最近、髪、よく結ぶだろ? 仕事中に落ちてこないようにさ」
彼は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
その仕草が、昔から好きだった。
私はシュシュを手首に通し、くるりと回して見せる。
「どう?」
「似合う」
その一言に、心がぽつりと灯る。
——優しさは、たしかに温かい。
でも、私はもう知っている。
この温度には、対価がついてくる。
◇
その日から、優しさは列になって現れた。
夜、帰宅すると、玄関に新しいスリッパがあった。
「床、まだ冷えるだろ。足、冷やすなよ」
洗面台には新しい化粧水が置かれ、
「前に肌荒れしてただろ。合うか分かんないけど」
枕元には小さなアロマのボトル。
「寝付き、良くなるかもな」
どれも私のため。どれも私が欲しいと言えなかったもの。
私は嬉しくて、ありがとうを繰り返した。
そして、優しさの最後尾に、
『LifeLink』の常時起動が、静かに並んでいた。
アプリは、何も言わない。
ただ画面に、小さな青い点を載せている。
私が動けば、点も動き、止まれば、点も止まる。
それを彼が見ている。
「何かあったらすぐ行けるように」
優しい理由は、いつだって正しい顔をしている。
◇
母と会う日、私はあえて駅ビルのカフェを選んだ。
人の目がある場所。
母はココアを頼み、「最近やせた?」と首を傾げる。
「少しね」
「顔色、良くないよ。無理、してない?」
私は笑った。
「大丈夫。結婚式の準備が楽しくて」
楽しい——嘘ではない。
式場の白い廊下、光るシャンデリア、リボンの椅子。
純白の世界に身を置くと、心が洗われるように思う。
テーブルの上でスマホが震えた。
『着いた?』
『楽しんで』
『今、駅ビルのカフェ?』
最後の文で心が跳ねる。
(……見てる)
アプリの通知設定を切っても、共有そのものは切れない。
私は丁寧に文字を打った。
『うん。今日は夕方まで一緒にいるよ』
しばらくして、短い返事。
『了解。気をつけて』
母がココアの表面の泡を指で弾きながら、私を見た。
「誰?」
「……彼」
「優しい?」
私は頷いた。
「うん。すごく、優しい」
その言葉の端に、自分でも気づくほどの棘が混じった。
母は一瞬だけ目を細めたが、何も聞かなかった。
ココアの泡が弾ける音だけが、やけに大きく聞こえた。
◇
週末、式場で最終打ち合わせ。
披露宴の進行、BGM、テーブル配置、スピーチ順。
指がふるふると震え、私はメモにペンを走らせた。
「新婦入場曲は?」
「——『光の方へ』で」
「リングボーイは?」
「従姉妹の子に。七歳」
「ケーキ入刀のタイミングは」
「乾杯の後で」
隣で悠真が、静かに頷いている。
彼は口数が少なく、時折「いいと思います」と言うだけ。
私が決めることを、彼は拒まない。
それが嬉しかった。
(変わったのかな)
(私が線を引いたから、変わったのかな)
打ち合わせの最後に、プランナーが笑顔で言った。
「では、当日の控室のルールだけ共有しますね。スマホは——」
「新婦のスマホ、俺が預かります」
私より先に、悠真が応えた。
プランナーが「え?」と瞬く。
私も瞬いた。
「当日、連絡が多いと困るだろ。着替えとかもあるし。俺がやり取りするから」
私は微笑んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫。プランナーさんと式場用の連絡アプリでやるし、通知は切っておくよ」
「でも——」
「平気だよ。本当に」
(当日に、私の手からスマホを離さない——それは、何かが起こったときの唯一の“外”を、閉じることだから)
悠真の目が、ほんの少しだけ揺れた。
やがて彼は笑い、「わかった」と言った。
プランナーの笑顔が戻る。
打ち合わせ室に、低いBGMが戻った。
私は胸の奥で、小さな鐘が鳴るのを聞いた。
一つ、守れた。
◇
守れなかったものも、ある。
「連絡先、整理しとけよ。旧姓で登録されてる人、分かんなくなるから」
「うん、やっておく」
「元カレとか、要る?」
軽い調子の声。
私は、間を置いた。
「連絡とってない人は、消すよ」
「そっか」
それで終わった、と思った。
——終わらなかった。
夜、シャワーから出ると、ベッドの上に私のスマホが置かれていた。
画面はロックされ、通知も出ていない。
でも、位置が違う。
私は、置く位置にうるさい。
元の場所に戻すと、小さな不安が背中を這い上がった。
彼は、私のいない間、どこまで私に触れているのだろう。
直接的な証拠はない。
それでも、不安は証拠より先に膨らむ。
◇
「さあ、夕ごはん、できたよ」
私は白い皿を運び、テーブルに置いた。
オーブンから出したばかりのグラタンが、ふつふつと音を立てる。
「熱いから気をつけて」
「おう」
スプーンを入れた彼が、熱に顔をしかめ、それから笑った。
「うまい」
その一言に、息がほどける。
食事が終わって、食器を片付けていると、リビングから彼の声。
「明日、同僚と飲む。「田嶋」ってやつ」
「うん。楽しんで」
「どうしてそんなにあっさり言えるんだよ」
背中が固まった。
水の流れる音が急に大きくなる。
「……どういう意味?」
「俺、お前が男と飲むの嫌だけどさ。お前は平気なんだなって」
「私だって、嫌だよ。けど、仕事なら仕方ないし」
「仕事なら、全部許されるわけ?」
「許すとか、許さないとかじゃなくて……」
言葉がほどけ、床に落ちる。
私は布巾を置き、ゆっくり振り返った。
「明日の飲み会、行かないで」
自分でも驚くほど静かな声だった。
彼の眉が跳ねる。
「え?」
「——私が嫌だから。あなたが、同僚の女性と飲むの、嫌」
「なんだよ、それ。仕事だぞ」
「私がいつも我慢してること、あなたも一つだけ、してほしい」
沈黙。
部屋の時計が一度だけ鳴った。
「……分かったよ。断る」
彼は受話器を取り、短く電話をした。
「悪い、明日無理だ。また今度」
切ってから、私を見る。
私は、「ありがとう」と頭を下げた。
彼はソファに深く座り、天井を見た。
「さ。これで一個ずつだな」
その声は冗談めいていたけれど、取引という言葉が脳裏に灯る。
優しさは贈り物の形をしていた。
でも、その裏側には帳簿がある。
彼はきっと、付けている。
私の「許し」と彼の「譲歩」を、目に見えない表で、きっちりと。
◇
寝る前、私は指輪を掌にのせた。
光の輪は小さく、私の手の上で完璧な円を描く。
円の外に、出られない。
指に戻すと、きゅっと皮膚が締め付けられるようだった。
「なぁ」
悠真が横向きになり、私を見た。
「明日の朝、式場の前で写真撮るって言ってたろ。スケジュール、教えて」
私はカレンダーのスクショを送った。
「ありがとう」
彼はすぐに既読をつけ、私の髪を撫でた。
「おやすみ」
「おやすみ」
電気を消す。
闇の中で、彼の手が、私の指に絡む。
指輪が触れ合い、カチと鳴る。
その小さな音が、静寂よりも大きく響いた。
◇
当日の朝、私は少し早く家を出た。
駅前の花屋に寄り、ブーケの色味を確かめたい。
『LifeLink』は青い点を動かし、私のルートをなぞっていく。
見られている感覚は、もう消えない。
でも、私もまた、見られていることを忘れないようにした。
歩幅は一定に、寄り道はしない。
私の自由は、私の中だけにある。
花屋で白い小花を選び、束ねてもらう。
店を出ようとしたとき、背後から肩を叩かれた。
「久しぶり」
振り向くと、春人が立っていた。
驚きと、すぐにやってくる恐れ。
「元気?」
「うん。……偶然だね」
「この近くで打ち合わせ。——結婚、おめでとう」
「ありがとう」
彼は笑って、ブーケを見た。
「似合うと思う」
私は会釈して、そのまま歩き出した。
言葉を長くしない。
——青い点が、増えている気配がする。
春人の足音が途切れ、私は早足で駅へ向かった。
◇
ホームに降りると、すぐに通知が届いた。
『今、どこ?』
私は写真を撮った。
ホームの柱、遠くの電光掲示、手元のブーケ。
すぐに返信。
『駅。今から向かう』
既読がつき、間もなく返事。
『さっき、春人といた?』
心臓が一回、強く打つ。
どこまで見えているのか分からない。
私は、謝らないと決めている。
だから、事実だけを並べる。
『すれ違っただけ。挨拶をした。すぐ別れた』
返事は、来なかった。
電車が来て、私は乗った。
座席にブーケを抱えて座り、深呼吸をする。
『謝らない』は、喉の奥で棘になっていた。
でも、飲み込まない。
◇
式場の前。
白い壁と、朝の光。
私はブーケを持ち直し、時計を見る。
集合の十五分前。
悠真はまだ来ない。
スマホが震えた。
画面には、彼の名前。
私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
「——どこにいる」
低い声だった。
私は、周囲の光景を言葉にする。
「式場の前。入口の右のベンチ」
「春人と、何、話した」
「おめでとうって。私が、ありがとうって。それだけ」
沈黙。
少しだけ風の音。
「今から行く。動くな」
通話が切れた。
私はベンチに座り、指輪を撫でた。
冷たい。
優しさの温度は、たやすく冷たさに裏返る。
それでも私は逃げない、と自分に言い聞かせる。
——逃げられない、の間違いかもしれないけれど。
◇
五分ほどで、彼は現れた。
足早に近づき、私の前で立ち止まる。
目は笑っていない。
「写真、見せろ」
私はスマホを開き、花屋の前の写真を見せた。
「他は」
スクロールして、駅のホーム、電車、式場前。
彼は一枚ずつ目を通し、深く息を吐いた。
「……分かった。行こう」
背を向けた彼の肩に、言葉が引っかかった。
私は立ち上がり、呼び止める。
「ねぇ、悠真」
「何」
「私、謝らないから」
彼が振り返る。
瞳が、微かに見開かれる。
私の声は震えていない。
「前にも言ったよね。私はもう、謝らない」
「……なんで、今それを言う」
「今が、言うときだと思ったから」
彼は数秒だけ沈黙し、やがて小さく笑った。
「そうか」
その笑いは、いつもの優しさに似ていた。
けれど違う。
見えない請求書を、机に置くときの笑いだ。
「じゃあさ」
彼はゆっくりと歩み寄り、私の髪に触れた。
「俺にも、謝らないでいいようにさせてくれよ」
「どういう意味」
「お前が不安にさせること、全部やめてくれってこと」
彼は指折り数えた。
「男の同期と話さない。夜は一人で出歩かない。スマホは家ではテーブルに置く。位置情報は切らない。予定は前日までに共有。突然の寄り道はしない」
私は呼吸を整えた。
「それ、全部?」
「今、思いつく限りは」
「全部は、できない」
彼の目が細くなる。
「じゃあ、半分」
「……半分は、考える」
彼は、「半分」と口の中で転がし、頷いた。
「いいよ。俺さ、ちゃんと、お前を大切にしたいんだ」
言葉だけを聞けば、優しい。
でも、その優しさは価格表の上に置かれている。
私は微笑み、ブーケを握り直した。
「私も、あなたを大切にしたい」
たぶんそれは、真実だった。
——今の私の真実。
◇
午前の光の中で、控室へ案内される。
薄いヴェールを肩にかける試着。写真。
鏡の前に立つと、白が私を包む。
白は、なんて冷たい色なのだろう。
雪よりも、病室の壁よりも。
ふいに、鏡の向こうでドアが開いた。
プランナーが顔を出す。
「すみません、新郎様からこれ、預かりました」
手に乗ったのは、小さな紙袋。
中には、パールのピアス。
「今朝、買ってこられたそうです」
私は胸が詰まり、ありがとう、と受け取った。
パールは温かい乳白色。
耳に当てると、肌にとろりと馴染んだ。
「似合います」
プランナーが笑い、私は会釈した。
優しさは、やっぱり温かい。
優しさの価格は、きっとあとで渡される。
分割のように、静かに、少しずつ。
◇
控室を出た廊下で、電話が震えた。
画面には、母の名前。
「もしもし」
『式、楽しみだね』
「うん」
『あのね』
母の声が、いつもより低い。
『さっき、あなたの家の下で、彼に会ったの。偶然』
心臓が跳ねた。
『感じのいい人ね。ちゃんと挨拶してくれて』
「……そう」
『でも、帰り際にこう言ったの。“娘さんのスマホ、心配だから、当日は預かっておきます”って』
廊下の空調が、どこか遠くで唸った。
「それ……」
『あなたは、どう思う?』
私は、少しだけ笑った。
「大丈夫。私が持つから」
『そう。なら、いいの』
母は少し黙り、息を吐いた。
『娘を信じるのって、勇気がいるのね』
「うん」
『私も、勇気を出すよ』
通話が切れ、私は電話を胸に押し当てた。
信じるには、いつも、支払いが要る。
母にも、きっと。
◇
夕方、解散。
玄関で靴を履き替える私に、プランナーが小さく手を振る。
外に出ると、風が強くなっていた。
雲が低く、雨の気配。
私はブーケを包む紙を持ち直し、駅へ向かう。
交差点で信号待ち。
背後から、名を呼ぶ声。
「来栖さん」
振り向くと、式場のスタッフの若い女性が駆け寄ってきた。
「あの、さっき控室にお忘れ物を……」
差し出されたのは、白い小箱。
リボンが締め直されている。
「ありがとうございます」
受け取った瞬間、スマホが震えた。
画面には、悠真の名前。
『今、誰といる?』
私は青空を仰ぎ、深呼吸をした。
謝らない。
説明する。
境界線を、折り畳んでしまわない。
自分に三度、言い聞かせる。
『式場のスタッフさん。忘れ物を渡してくれただけ。今、ひとりで駅に向かってる』
送信。
既読。
しばらくして、返事。
『帰ったら、話そう』
短い文。
価格の請求は、夜に回されたのだと理解する。
◇
帰宅。
ドアを開けると、部屋は整っていた。
テーブルには、小さなメモが一枚。
「温めるだけ」と書いてある。
キッチンの鍋を開けると、シチューの匂い。
私は笑った。泣きそうにもなった。
どちらの感情も、同じだけ確かだった。
彼はソファに座り、テレビを消した。
「おかえり」
「ただいま」
靴を脱ぎ、ブーケを花瓶に挿す。
白い小箱は、その隣に置いた。
リボンは解かない。
私が解くのを、待つことにする。
何かを受け取るタイミングは、私が決める。
向かい合って座る。
夜の静けさが、テーブルの木目に染み込む。
彼は深呼吸を一つ。
「話そう」
「うん」
彼は、ゆっくりと始めた。
「俺は、お前を守りたい。大切にしたい」
(知ってる)
「だから、不安なんだ。お前がどこにいるか、誰といるか、何をしてるか。俺が知らないことがあるのが」
(知ってる)
「でも、お前は“謝らない”って言った。俺に、安心する理由をくれ」
私は頷いた。
「約束を三つ、してもいい」
「三つ」
「うん。一つ目、予定は前日に必ず共有する。二つ目、位置情報は切らない。ただし、常に画面を見ないことを約束してほしい。三つ目、男友達との二人きりの食事はしない——仕事の打ち合わせは除く」
彼は考えるように目を伏せ、やがて頷いた。
「……分かった」
「代わりに、私からもお願い」
「何」
「スマホは、触らないで」
彼の指が、テーブルの上で止まった。
「触ってない」
「そうだね」
私は微笑んだ。
「これからも、触らないで」
彼は、長く息を吐いた。
「分かった」
その声は、かすかに疲れているように聞こえた。
優しさの価格は、ここでも支払われた。
彼は、私の要求に一つ、応じた。
私は、彼の要求に三つ、応じた。
◇
夜更け。
私は冷蔵庫から水を出し、コップに注ぐ。
喉を潤して振り返ると、窓に映る自分の顔があった。
指輪が、月の色を吸って鈍く光る。
あの夜、私は死んだ。
床に、赤が広がり、白い光に飲まれた。
そして今、私はやり直している。
やり直すとは、支払い直すことなのだ。
同じ請求書に、新しい項目を書き足しながら。
寝室に戻ると、彼が目を開けた。
「水?」
「うん」
「手、冷たい」
彼は私の指を取り、自分の頬に当てた。
体温が伝わる。
私はその温かさに、ほんの一瞬、全てを忘れたくなった。
忘却は、最も甘い優しさだ。
「おやすみ」
「おやすみ」
灯りを消す直前、白い小箱に目をやった。
リボンはまだ結ばれたまま。
解くとき——それが、本当の意味での“価格の支払い日”になる気がした。
◇
深夜。
寝息の合間に、小さな振動音。
枕元のスマホが静かに光る。
『LifeLink:近くの機器からのアクセスがありました』
すぐに光は消えた。
私は目を閉じ、呼吸を整えた。
——これは、きっとシステムの通知。
——きっと、私の思い過ごし。
きっと、に、何度救われ、何度刺されただろう。
布団の中で、彼の手が探るように伸び、私の指に触れた。
指輪がまた、カチと鳴る。
その音は、約束の音か、鎖の音か。
私は分からないふりをした。
眠るふりをした。
ふりを重ねて、朝が来るのを待った。




