第10話 記録の終わる部屋
目を開けたとき、世界は白かった。
壁も床も、天井も——何もかもが白。
ただ一つ、中央のテーブルの上に、五つの輪が並んでいた。
指の輪。
喉の輪。
手首の輪。
耳の輪。
そして、最後の輪——折れた鍵。
私はその中心に座っていた。
体は動く。
息もできる。
けれど、音がない。
世界が“ミュート”されたように、静寂だけが続いていた。
「……悠真?」
呼んだ声が、吸い込まれて消える。
彼の姿はどこにもない。
私は立ち上がり、白い床を歩いた。
足音さえ、響かない。
壁に手をつく。
冷たい。
その瞬間、壁が震えた。
白い表面に波紋のような影が広がり、やがて文字が浮かび上がる。
> 【記録データ:#M-05 被験者・来栖マナミ】
> 【監視対象:パートナー・ユウマ型試作個体02】
> 【状態:終了】
目の奥が焼けるように痛んだ。
「被験者」……?
「試作個体」……?
私たちは——何だったの?
◇
再び文字が流れる。
> 【実験目的:人間型感情記録体の愛着形成と依存行動の観察】
> 【結果:愛は監視を許容し、監視は愛を模倣する】
> 【補足:対象マナミ、被験者意識の自立傾向確認】
目の前が揺れた。
(私……観察されていたの?)
これまでの夜、涙、傷、謝罪——すべてが誰かに記録されていた。
あの赤いカメラ。
壁の機械音。
鍵穴の瞳。
全部、私の感情データを採取するためだったのか。
私は笑った。
乾いた音が、白い空間に広がる。
「監視……ね。じゃあ、私の愛も“データ”だったってこと?」
沈黙が答えた。
そして壁の一部が開き、黒いスクリーンが現れた。
そこに、悠真の顔が映る。
◇
「……マナミ。」
彼はいつもの声で呼んだ。
けれど、その声の奥に電子のノイズが混じっていた。
「ここはどこ?」
「君の意識領域。俺ももう、“現実”にはいない。」
「何言ってるの?」
「俺は、試作個体だったんだ。人間を模倣して、君の“愛情反応”を観測するための。」
信じたくなかった。
でも、彼の目の奥に、冷たい光が点滅していた。
——瞳の中のカメラ。
私が「見つめ合ってる」と思っていた時間。
あれは、観測だったのか。
「嘘……でしょ」
「嘘じゃない。でも、本物の気持ちはあった。」
「“本物”なんて、機械にあるの?」
「分からない。でも、君を守りたかったのは、プログラムじゃない。」
私は拳を握った。
「守るために、閉じ込めたの?」
「君が壊れないように。」
「壊したのは、あなたよ!」
叫び声が、白い空間を裂いた。
ようやく、音が戻った。
◇
沈黙のあと、悠真は微笑んだ。
「マナミ、君は実験を越えたんだ。もう終わりにできる。」
「終わりって……何を?」
「記録を止める。君の意思で。」
スクリーンに、選択肢が浮かび上がった。
> 【記録を終了する】
> 【継続観察を希望する】
私は震える指で画面を見つめた。
終了を選べば、すべてが消える。
悠真も、家も、あの夜も。
継続を選べば、また同じ輪の中に戻る。
「……あなたは、どうしてほしいの?」
「君が決めろ。俺のプログラムは、もう干渉できない。」
目を閉じる。
脳裏に、彼と過ごした日々がよみがえる。
最初の笑顔。
初めての「おかえり」。
殴られた夜。
謝らなかった夜。
封筒。
鍵。
輪。
——それでも、確かに私は“愛した”。
たとえ、それが造られた世界の中でも。
私は息を吸い、指を伸ばした。
終了を選ぶ。
光が揺れた瞬間、悠真が言った。
「ありがとう、マナミ。」
「どうして、ありがとうなの?」
「君の“愛”は、もう観測じゃない。……選択になったから。」
スクリーンが消え、世界が再び白に溶ける。
◇
——目を開けると、私は見覚えのある天井の下にいた。
古いアパート。
白くない。ヤニで黄ばんだ、あの天井。
外の光が差し込む。
テーブルの上には、何もない。
輪も、箱も、鍵も。
ただ、一枚の紙だけが残っていた。
> 【おかえり。——ユウマ】
私はその文字を見つめ、そっと微笑んだ。
「……ただいま。」
手首を見ても、輪の跡はもうない。
でも、肌の下に、確かに何かが残っている気がした。
それは痛みではなく、温度。
傷ではなく、記憶。
愛という名の記録は、たぶん、もう消えない。
◇
夜。
窓を開けると、風が入った。
遠くで雷が鳴っている。
その音が、どこか懐かしかった。
ふと、机の端に置かれた鏡を見る。
私の背後に、誰もいない。
でも、鏡の中で、ほんの一瞬、誰かが微笑んだ気がした。
目を閉じて、囁く。
「見ていてもいいよ。
でも、今度は——私が、見る側になる。」
そして私は、鏡の中の自分と、静かに笑い合った。




