八話
三日ほど航海を続けると、天籟島から一番近い本土の港町に着いた。その頃には、煌は青い顔で船酔いに苦しめられており、陸に着いた時には鷂と狗鷲に両脇を抱えられながら船を降りていた。
鷂と狗鷲は武人で鍛えているからか、船酔いになっている様子は全くなかった。
「そなた…なぜ平気そうなのだ…」
今にも吐きそうなほどの顔色をしている煌を眺めるのは楽しかった。
「島っ子なんで」
真赭はそう言って誤魔化した。舟育ちであることは言わない方がいいだろう。煌が舟育ちという情報から、真赭を倭寇の娘だと繋げてしまうかもしれない。
陸地からは牛車に乗り、麗扇京を目指した。真赭は牛車に乗るという経験を初めてした。島では徒歩が基本で、そもそも島全体が小さいので何かに乗って移動するほどの距離はなかった。
また舞は身体を使うので、足腰を鍛えていて損はない。牛車で宿場町まで移動し、その度に牛を変えながら麗扇京まで進んだ。煌は宿場町に着いたら、その近くにある花街や双六博打に夜な夜な繰り出し、真赭は宿で一人待機することが多かった。
いつか病気をもらって早死にするんじゃいか。博打に負けて大損するんじゃないか。そんな心配が頭によぎったが、この真性の遊び人を止める術はなく、いつも護衛として連れていかれる鷂と狗鷲に向かって「あなたたちも大変ですね」と同情を示す他なかった。
牛車が麗扇京まで辿り着くと、景色はガラリと変わった。それまで長閑な田園風景が広がっていたが、立派な建物が現れ出した。道は整備され、花は百花繚乱、千紫万紅と咲き乱れ甘い香りがしていた。
「桃源郷か何かですか? ここは」
牛車の窓から外を眺めた真赭は煌にそう尋ねた。
「田舎者は麗扇京を見たとき、必ずそう言うよ。この国で最も栄えている場所だ。この世で最も桃源郷に近い場所さ」
麗扇京は背山臨水の風光明媚な都だった。行き交う人々の笑みは眩しく、店に呼び込もうと商人たちの声には活気があった。
煌は幼馴染だと言う今回舞姫に選ばれたが辞退せざるおえなくなった姫君の邸宅に向かうと言った。麗扇京の北側、貴族の邸が集うその場所、立派な藤棚を擁する邸がその姫君のおわす場所だった。
真赭は緊張しながら門を潜る。煌は慣れているのか、勝手知ったる場所というように使用人らしき人に一声かけるとずんずんと奥に進んで行った。鷂と狗鷲は別の房室で待機することになった。
「白菊、代わりの舞姫を連れてきた!」
煌は几帳を退けて、房室に入って行った。真赭はその後に控えめに続いた。貴族の作法には疎い真赭だが、煌はいくら幼馴染とはいえ他人の家に遠慮がなさすぎないか? と疑問に思った。
几帳の向こうには、日差しを受けながら書を嗜む少女の姿があった。黒い髪と瞳をした美しい人だった。咄嗟に真赭は自分の髪の先を摘んでいた。
きっと白菊と呼ばれた人は生まれながらの黒髪なんだろう。宿に泊まるたび、真赭はこっそり胡桃の染料で髪を染め直していた。嫉妬のような何かが浮かび上がっている。
「煌、雲隠れはもうお終い? この前、手を出した女の夫にばれたからって急にいなくなるのは私が心配するよ。だから、女遊びもほどほどにっていつも言ってるのに」
絵巻ものを眺める白菊の姿は、それこそ絵巻ものの一幕であるかのように整っていた。煌と並べば、美男美女。まさに空想の人物たちの戯れを見ているかのようだった。
「いつもお前は口うるさいな白菊。土産だ」
ため息を吐きながら、煌は白菊の近くに座ると懐から天籟島から持ってきた珊瑚の首飾りを文机に置いた。
「まぁ、綺麗。南の方まで逃げてたのね」
白菊は珊瑚の首飾りを掴むと、首元に当てて見せた。
「ああ、朱南の果てまでいった。そうしたら、実力のある舞姫を見つけてな。連れてきた」
勝手に話が進んでいるが、真赭は舞うなどとは一言も言っていない。自分でも意地を張っているだけという気はしていた。煌に助けてもらわなければ、真赭は櫃に入れられたまま、池に沈められていたのだ。
「そなた、舞ってくれぬか?」
煌は改めて真赭に頼み込む。真赭は、恩を返すためなら舞ってもいい…という気持ちが湧き上がっていた。それでも、そのことを煌に気づかれるのは恥ずかしかった。最初に反発してしまった分、素直になるのはむず痒かった。
「あら、私は舞には厳しいわよ? 私の代わりを務められるか、しっかり見極めてあげる」
白菊は鼻を鳴らして「ふふん」と笑った。
「白菊、喧嘩を売るような真似をするでない。そなたは今までも舞姫代理たちをちぎってはなげ、ちぎってはなげ…」
「まあ! その言い方だと語弊があるわ。私はことごとく不合格にしただけよ」
白菊は少し怒ったように頰を膨らませた。
「無理に、舞う必要もない。ただそなたをここに連れてきたのは白菊の友人になって欲しかったからだ。白菊は男兄弟ばかりに囲まれて育ったから勝気でじゃじゃ馬に育ってしまってな…」
「余計なお世話よ!」
白菊はぽこぽこと軽く煌の肩を叩く。煌は仔犬がじゃれついてきているだけだというように涼しげな顔でやり過ごした。
煌が真赭を白菊の舞姫代理にしたかったことは本当だろう。天籟島で見せた真赭への執着がそれを物語っている。しかし、白菊と友人になって欲しいと願った煌の姿もまた本当なのだろうと思った。同じく「舞」をする者同士、通じ合えるものがあるかもしれない。
そして、煌は秋次との真赭の意思を尊重するという約束を守ろうとしてくれているのだとも感じた。
「少し、舞うくらいでしたら…」
真赭は控えめに口に出すと、それだけで煌の機嫌が良くなるのがわかった。煌の機嫌が良くなるのとは対照的に、白菊の表情は険しくなっていった。自分の代わりを務められる舞姫かどうか、見極めようとしているのだろう。
きっとこの様子じゃ、どんなに上手い舞を披露したところで白菊からは不合格を言い渡されるだろう。そうすれば、真赭は五節の舞姫の重責を背負うことはない。
何、意外と心配することはなかったと真赭は安堵した。白菊が認めないなら、煌も真赭を舞姫代理にする計画は諦めるだろう。
真赭は白菊のいる房室から見渡せる庭へと移動する。白い石が敷き詰められた庭の中にぽつりと黒くしっとりとした岩の舞台が現れる。天然の舞台であり、白菊が舞姫を辞退する怪我をする前はここを利用していたそうだ。
真赭は岩の舞台に上がると、舞を始めた。軽やかに足を動かしす。手は羽のように動かし、天を見上げるように舞った。日差しが目に眩しい。
舞う踊り子は時にひらひらと舞う蝶に喩えられることがあるが、真赭の舞は蝶というよりはもっと重量感がある。山岳の岩場を駆け上がる鹿のような力強さと共に軽やかさが同居している。
人間の体では到底無理な、高い跳躍もまるで体に羽が生えたかのようにこなす。真赭の舞の持ち味は回転の速さだ。これは舞の師匠でもあるウキですら到達できなかった領域だ。
海神を祀る神楽は海神の性格や海の荒々しい波を表すように、激しい躍動がある。飛んで、地に足をつける瞬間に太鼓の音が聞こえてくるような力強さを全面に押し出した構成だ。
ウキからはそこまで回転しなくてもいいと言われていたが、真赭は勝手に舞の振り付けを自分が気持ちよくなるように激しいものへと変更していた。伝統を保守的に守るウキだったが、真赭が舞えば波が鎮まることに関しては認めていたらしく、勝手に舞に改変を加えたことを叱られることはなかった。
普通の人間なら目が回って息が上がってしまう回転を繰り返す舞も、舟育ちで常に揺れている環境で育った真赭は三半規管が鍛えられている。回転を派手にすることが可能だった。
舞っている間に、真赭は気分が良くなってくる。自分が神の依代という自覚はあまりないが、舞っている間だけは神に近づけたような気がする。
華麗に舞いながら助走をつけて、背面から宙返りをする。視界が縦に一回転する感覚、真赭はそれが好きだった。
岩の舞台に着地する。これで舞は終わりだった。息を吐いた瞬間、拍手が聞こえた。
「すごい、すごい! 何それ、背面宙返りなんて見たことないわ! まるで天に昇る飛龍のようだった」
白菊が頰を紅潮させて、興奮したように喋り出した。煌は後方で腕を組みながら「さすが私が選んだだけはある」というように満足気な顔をしていた。
「天に昇る飛龍なんて、皇后様が慶帝陛下を見つけた場面みたい! 『慶帝伝』常闇の巻の!」
白菊が鼻息荒く語り始める。「け…慶帝伝…?」と真赭が首を傾げていると、白菊の興奮ぶりに呆れたような煌が説明してくれた。
「白菊は、先帝──慶帝陛下が逆賊から麗扇京を奪還する草子が好きなのだ」
煌は、たとえ史実を基にしているとはいえ、天に昇る飛龍を見たなんてものは脚色されたに過ぎないと冷めた反応だ。当時の皇后、今の月影院のように帝と共に馬で戦場を駆ける勇敢な女性に憧れ、馬に乗りたいと駄々をこね、落馬して足を挫いたらしい。
そうして、白菊は舞姫を辞退せざるを得なくなった。
真赭はまたしても、月影院の名前を聞くことになって驚いた。秋次を介して間接的に真赭を救ってくれたのも月影院だが、煌が真赭を代理の舞姫に欲しがる事態に陥った原因も間接的に月影院だった。
白菊は興奮して話し過ぎたのを恥ずかしく思ったのか、咳払いをして場の空気を変えようとした。
「舞の実力はあるみたいね。…そうね、あなたなら私の代わりを務められるかもしれない。合格よ」
白菊は高貴な姫君の姿を繕おうとしたようだが、子供のようにはしゃいでしまったあとでは、もう遅過ぎた。
「私もそなたに舞姫代理を頼みたい。だが、そなたが拒むのであれば無理強いはしない」
煌は真赭の目を真っ直ぐ見つめた。出会った頃の彼ならば、真赭を無理矢理にでも舞姫に仕立てあげただろう。秋次の脅しがあったとはいえ、彼が真摯に頭を下げて願う姿は真赭の胸を打った。
彼は「私が頭を下げるのは珍しいから、よく目に焼き付けておくといい」なんて軽口は言わなかった。
「今でも、五節の舞姫の大役は私には重いです」
真赭がそう言うと、白菊が慌てて口を開いた。
「あなたの舞は素晴らしいわ! 私が認める舞い手がこの先現れるなんて思えない」
白菊は真赭の事情なんて知らないので煌の言った「代わりの舞姫を連れてきた」と言う言葉を鵜呑みにして、まさか断られるかもしれないなんて思いもしなかったのだろう。
「でも…」
真赭は続けた。その言葉を言うのは崖から荒れる海に飛び込むほど怖く、勇気が必要だった。
「精一杯、務めさせていただきます」
煌に、白菊に、これだけ求められているのに逃げ出すのは一人の舞い手としての矜持が許さなかった。煌から受けた恩を返すだの何だのはただの後付けの言い訳に過ぎないのかもしれない。
五節の舞姫、その役目を軽々こなせる人はそういないだろう。でも、舞い手としての最高の栄誉を前にして真赭は期待に満ちていた。求められる者の元へ流れる。真赭が天籟島に流れてきたのが、何か意味があったと思いたいように。真赭が島を出て、麗扇京に来たことに意味を作り出したかった。
こうして、真赭は白菊の代わりに舞姫となる。
真赭は煌が話してくれた、葦の舟で流された形のない神の話を思い出した。