七話
真赭は静かに天籟島を出る支度を始めた。煌がいうには、麗扇京には全て揃っているから、必要最低限だけを持って行けばいいとのことだった。
そもそも真赭の持ち物は多くない。身一つで島に流されてきたのだ。漂流時に身につけていた衣はぼろぼろで、すぐにウキが新しい衣を用意してくれた。
真赭には巫女見習いとしての白い衣が一着。これは一つの染みも作ってはならぬとウキに厳命されているので、衣が痛まない程度に漂白していた。
あとは普段着が二着ほど。天籟島は冬も温暖で、外で寝られるというほど暖かい。だから冬用の外套などは一着も持っていなかった。
普段着を風呂敷に詰めて、あとは保存の効く軽食を持てば真赭の旅支度は終了だった。旅費は全て煌持ちなのだし、道中の宿代や食事代の心配は要らない。
「そなた、それで終いか? 年頃の娘にしては随分と荷が少ないな」
煌は真赭の風呂敷を眺めて、呟いた。
「そういうあなたは荷物が多いですね」
真赭は呆れたように呟いた。煌の背後には荷が積まれた荷車が二台あった。片方は全てこの天籟島で買った煌が美しいと認めて買った品物らしい。いくらなんでも多すぎる。
「これくらい普通ではないか?」
煌は真赭の視線を追って、自身の後ろにある荷車を見た。荷車を引く駄馬の限界まで荷をのせたそれは今にも崩壊してしまいそうな危うさがあった。
荷車の近くで待機していた部下二人に、真赭は目線をやる。彼らは静かに首を振っていた。自分たちの主人の荷物の量が「普通」ではないことはわかっているのだろう。静かな諦めがそこにはあった。
「あの、島を出る前に寄りたいところがあるのですが」
真赭は恐る恐る口を開いた。
「何だ? 何処に行きたい。そうだ、何か簪や衣を買うといい。そなたも少しくらい飾り立てれば…」
「いえ、山村に行きたいんです」
真赭の言葉に、煌は言葉が出ないようだった。顔は笑みを崩さなかったが引き攣って笑っているようにも見える。
「以前、私がそなたに言った意外と学がある──という言葉を撤回しよう。そなたは阿呆だ」
爽やかな笑顔のまま阿呆と告げられた、真赭だったが怒りは湧かなかった。自分の行動が馬鹿にされることは想定済みだ。
「殺されかけたのだぞ」
「あなたは私の意思を尊重すると言いました。私はこのまま島を去るときっと後悔します」
真赭は煌の目をじっと見つめた。飲み込まれないように踏ん張りながら、真剣さを感じてもらうために。黒曜石の瞳は底なし沼のように深い色をしていた。ふと、真赭はこの人は華やかさを装いながらも、どうしようもない寂しさを抱えているのではないかと思った。気のせいだとは思うが。
「…わかった。私と護衛も共に行こう。私の連れということにすれば、表立っては何もできないはずだ」
真赭の裏に秋次、そのさらに裏に月影院の影を感じたのか、煌は了承してくれた。月影院に会ったことはないが、あの人の権力のおかげで煌の権力に対抗出来たことを感謝した。
きっと月影院は美女に違いない。文の香の匂いから、美人の匂いがしたから。
山村に向かう道中の道祖神の岩に一礼してから、真赭たちは山道を歩いた。真赭と煌を真ん中に挟み、先頭と殿を護衛の男たちで固めた。
護衛の男たちは鷂と狗鷲というらしく、煌が彼らの太刀筋の美しさに惚れて雇ったらしい。煌はどちらかと言えば宝石などの女性らしいものを好むと思っていたから、意外だった。彼の美しきものを愛でるという感覚はいったいどういう基準なのだろう。
山村の入り口にまで来ると、畑を耕していた村人たちが一斉にこちらを見た。「海神の娘だ…」「何をしにきた?」「お貴族様も一緒だ」とひそひそと話しこちらを伺うように…いや、睨んでいるように見える。
真赭の来訪に気づいたのか、山村の巫女ヒチがこちらにやって来た。
「何をしにきたのです…?」
ヒチの瞳には心配と驚きが混じっていた。まだ昨日の出来事なのだ。なぜ、真赭が山村に来たのかわからないのだろう。早く立ち去って欲しそうだ。真赭の命を守るために。
「舞に来ました」
真赭がそう言うと、ヒチも周りで声をひそめ耳をそばだてていた村人たちも驚いたように目を見開いた。真赭が牢にいた時に泣き出した若い娘が一歩進み出て、「山神様のために舞ってくれるの…?」と尋ねた。
「いいえ。山神様のためにも海神様のためにも舞ません。ただ、私は土砂で命を落とされた方への鎮魂のために舞います」
それだけを言うと、真赭はヒチに「舞台を借ります」と言って山村の舞台へと向かった。山村には漁村のように洞窟の神域があるわけではないらしい。池に迫り出すような形で舞台が立てられいた。釣殿としても使えそうだ。
真赭は山神に場を借りることに対して頭を下げて、舞台の床を踏んだ。舞台は水の匂いで充満していた。湿気ているわけではない。池の上という立地のため、涼しさが感じられた。
真赭は、ゆっくりと舞い始めた。足の先から指の先まで神経を尖らせて。回転して目が回るような心地になると、普通は息が苦しくなったりするらしいのだが、真赭はむしろ息がしやすかった。
舞を終えて、真赭が舞台から降りると村人たちは放心したように真赭を見つめていた。言葉が見つからないのだろう。自分の舞が言葉を奪うほど美しかった、と慢心してもいいだろうか。いや、きっと真赭が舞ってくれたことに驚いているだけだろう。
「用は終わりました。さっさと行きましょう」
真赭はまだ村人たちが状況を飲み込めていないうちに、村を離れることにした。
「そなたの舞は神に捧げるというよりは、神が憑依したかのようだな」
煌は目を細めて笑った。真赭の姿を焼き付けるように。
「知りませんか? 巫女って依代なんですよ」
何げなく、真赭はそう言ったが煌は納得したように頷いた。
「そなたの荷が少ない理由がわかった気がしてな」
煌は眩しいものを見るような穏やかな目をしていた。いつも何かを探しては捕まえようとする──愛でるに値する美しきものを探しているのだろうが──そんな鋭い目をしていたはずなのに。一応、舞姫として目をつけていた真赭が手に入ったからだろうか。
「そなたは飾り立てる必要はない。その身体一つが武器であり、身体一つで完成されている」
その言葉が、煌からの賛辞であることに気づくまで時間がかかった。彼は一度、自分が美しいと認めたものに対して、褒める言葉を惜しまない。何だか、くすぐったかった。
***
天籟島から出るためには、船を使うしかない。真赭にとって最大の難関は船にあった。真赭は水が苦手だ。それは、燃え盛る船から落ちたから。船と水は繋がって、真赭の苦手なものになってしまった。
船から桟橋が降りているが、波に揺れる船は不安定で桟橋もぎしりと音を立てている。それに、何よりの不安が煌の大量の荷物だ。船には積載量が決まっているのである。
あまり大量に載せると船が沈むので取捨選択していかねばならない。真赭は強くそう思っていたが、ふと疑問が湧いた。船に関する知識はやはり、記憶を失う前に蓄えたものだろうか。最近、記憶の復活が活発になった気がする。
真赭は海に目を向けないように、目を瞑りながら船に乗り込んだ。揺れている船は落ち着く。目を瞑っていても、目を開けているときと遜色ないくらいに動けた。船酔いだってしない。
「若様! 最後の積荷を積み終わりました」
水夫の一人が、煌に報告する。煌は「では出航しろ」と命令した。岸から船が離れていく。真赭は小さくなっていく、天籟島の姿を目に焼き付けた。
「こんなに宝物が多いと、海賊の恰好の餌食ですよ」
真赭は船室に入る。船室では煌が宝石や珊瑚の選別を行うために、小さな玻璃を研磨した拡大鏡とやらを取り出していた。何でも外つ国からの輸入品で大変高価なものらしい。
煌は珊瑚を眺めながら、真赭の呆れた声に応えた。
「この近海では、倭寇が出たらしいが最近はそうではないのだ。随分と安全に航海できるようになった」
煌の説明によると、今の帝が「海賊追捕并びに賜船之令」という法律を発布したそうだ。「海上の賊徒を討ち、朝廷に忠を尽くす者に対し、船と兵を与へ、これを賜船と称す。賜船は、敵対する外夷や倭寇に対し、朝命に基づき追討を行ふを許さる」という内容らしい。
その法律の制定の影には帝の生母、月影院の影響があったと噂されている。こんなところにまで、月影院の力が及んでいたことに真赭は圧倒された。秋次はとても高名な僧侶なんじゃないかと、改めて彼の凄さを感じた。
賜船と呼ばれる、いわば朝廷公認の海賊が海を荒らす倭寇や外夷を掃討しているらしい。
「最近捕まった倭寇の頭領の妻が珍しい赤銅色の髪をしていたそうだ。私も一目見てみたいものだ…」
煌は珊瑚の赤を赤銅色の髪の女に見立てて愛でるように指の腹で撫でた。真赭はその話を聞いた時、胸が締め付けられるように痛んだ。
「その…倭寇たちはどうなったんですか?」
真赭は声が震えていると悟られないように、自然な感じを装って尋ねた。
「そうだな、改心すれば朝廷公認海賊に転身する例もあるそうだが…罰を受けても改心しない場合、処刑か官婢にされるだろうな」
煌の答えに、真赭は息を呑んだ。きっと倭寇の頭領の妻は真赭の母親だという気がしていた。赤銅色の髪なんて珍しいのですぐにわかる。真赭は自分が乗っていた船が商船などではなく、倭寇の船だったことに少なくない衝撃を受けていた。
自分は罪人の娘だ。天籟島にとって真赭は災厄なのではないか? そんな考えが拭えなかった。
真赭は甲板に出た。四方を海に囲まれて陸地すら見えないと、自分は一人なのではないかと不安になる。船に乗り込んで、何刻立っただろうか。日が沈み始め、薄らと月と星が顔を出し始めていた。
「あ…、北斗七星」
見上げた先には星が輝いていた。ふと、毛むくじゃらの体毛を思い出した。髭があるのに、頬擦りしようとしてくるから痛くて痛くて。真赭は、誰かの膝の上で星の名前を教えてもらった。方角を示してくれるありがたい星なんだよ。穏やかな男の声が蘇った。
「父さん…?」
一瞬、自分が何を呟いたのかわからなかった。
「今、私…父さんって言ったの?」
真赭は口元を押さえた。混乱している頭を落ち着かせるように。自分から発された言葉が信じられなかった。星のことを教えてくれたのは父親なのだろうか。
以前蘇った、船底での子守唄の記憶もあれは母親であると確信していた。赤銅色の髪は自分の根源なのだから。煌から倭寇の話を聞いて記憶が蘇ったのかもしれない。
真赭は水平線に沈みゆく太陽を見送っていた。
「別に、実は遠い国のお姫様だったり…なんて考えてなかったけどさ…」
真赭は誰に言うでもなく呟いた。もしかしたら太陽に話を聞いてほしかっただけなのかもしれない。
「親が海賊っていうのは…嫌だなぁ」
視界が潤んだ。泣くものかと我慢するが、鼻の奥がつんとするのは止められなかった。「真名を思い出したところで帰る場所なんてないよ、ウキさん」と真赭は心の中で呟いた。
後ろを振り返る。天籟島の影は見えなくなっていた。それが寂しさを募らせた。海神の娘でも何でもない。ただの海賊の娘だった。記憶を思い出したら安心するかと思ったが、不安に突き落とされただけだった。
船は本土、秋津洲に向かっている。豊葦原瑞穂の皇国。それが天籟島が属する国の名前らしい。
天籟島は南端に位置し、ここが皇国に属するようになる前には自治区のような状態だったらしい。大陸とさらに南の島々からの影響が強い。
「秋津洲…秋…先生と私とお揃いですね」
聞こえているはずもないのに、真赭は秋次に向けた言葉を吐いていた。でも、ウキがつけてくれた真赭という名前だけが拠り所であり、鎹な気がした。