六話
「何をしている!」
怒鳴り声であったが、澄んだ水のように綺麗でよく響く声だと、真赭は思った。そして声の主が煌だと気づいた。
村人たちの悲鳴や怒号が聞こえたかと思ったら、真赭が入った櫃は地面に叩き落とされた。
「いぎっ!」
地面に叩きつけられた衝撃のせいで櫃の中で回転したり身体中を打ちつけたので、真赭は変な叫びを漏らした肩や膝などが打撲特有の痛みを発する。
縄が何重にも巻かれて拘束された手足は縄が食い込んで皮膚が赤くなっているだろう。
木材を破壊する音が聞こえてきた。それが真赭が入っている櫃を破壊する音であると気づくのに時間は掛からなかった。真赭は櫃を壊している道具が、間違って自分を貫通しないように祈りながら目を閉じた。
眩しい光が、木片と共に真赭に降り注いだ。朝日が昇っている。その光を背に逆光に照らされながら、煌が真赭に手を伸ばした。
「今、縄を解いてやる。手足が使えないのでは舞えないだろう」
優しい手つきで、まるで壊れ物を扱うかのように煌は真赭の縄を解いてくれた。悔しいが、本当に悔しいが、彼の顔を見たら安心してしまった。
煌が真赭の縄を解いている間、村人たちは恐れで固まったかのように、遠巻きに真赭たちを見ていた。煌と真赭を守るように部下の男たちがいつでも刀を抜けるように手をかけていた。
いきなりの貴族の登場に、混乱しているのだろう。そして近づこうものなら、部下たちが容赦なく刀を抜くだろう。草刈り鎌や鍬では、到底太刀打ちできないと悟ったのかもしれない。
縛られた縄から解放された真赭は、血が指先にまで巡るような感覚がした。手首と足首には痛々しい赤い跡が残っている。
「さて、話を聞こうか。私の舞姫を拐かし、あまつさえ池に沈めようとしているように見えたが?」
煌の瞳が鋭く光った。真赭は「私の」という部分が多いに引っかかったが、黙っていた。「貴族様のお手付きだったのか…」と村人たちが青褪めている。今だけは、煌の身分という威光を借りておこう。
煌の前に、村人を代表するようにしてヒチが進み出た。膝を突き地に頭を伏せる。
「山村の巫女、ヒチと申します。全ては山神様の怒りを鎮めるため、村人を扇動し、私が企てたことにございます」
ヒチは地に頭を擦り付けながら、謝罪した。しかし、真赭はその言葉が嘘であることが一瞬で分かった。ヒチは真赭が牢に繋がれている時、説得するためとはいえ優しく声をかけてくれた。
真赭が死ぬことを望んではいなかった。むしろ助けようと必死だった。ヒチの「継いだばかりで力のない巫女」という言葉を信じるならば、ヒチに村人たちを扇動する力はなかったはずだ。
ヒチは村人の過激な行いを自分一人で背負い込むつもりだ。
「どうか、お咎めは私一人に。私がその娘の代わりに生贄となりましょう」
ヒチは泣いているのか、声が震えていた。その時、草鞋が乾いた土を踏み締める音がした。
「生贄なんて古臭いことなんてやるんじゃないよ」
ウキの声だった。真赭は思わず声の方角を向いた。そこには漁村の村長に背負われたウキと秋次がいた。ウキの頭には止血するためか、清潔な布が巻かれていたが血が染み込んでいた。
「ウキさん!」
真赭は思わずウキに駆け寄っていた。よかった、生きていた。山村の人たちによって殺されてしまっているのではないかと不安で仕方がなかった。無事…とは言い難いが、とりあえずは生きていてくれたのだ。
ウキの言葉に、ヒチは何かが決壊したのか泣き出した。地面に水滴が、一つまた一つと落ちて染みをつくったがすぐに乾いていった。
***
真赭は煌やウキたちの手によって漁村に連れ帰ってもらった。村長は、また正式に山村と話し合いこの件を解決したいと話した。それまでは、勝手に巫女を生贄に捧げる判断を取らないようにと強く言いつけた。
一部からは「村の問題だから漁村の奴らは首を突っ込むな!」と反発の声が上がったが、「漁村の者が連れ去られている。無関係ではないし、これは島全体の問題だ」と村長が言い返し、一応は納得させてくれた。
「真赭、お前も馬鹿だね。命が掛かっているなら、信仰なんて一旦忘れて、舞えば助かっただろうに」
家に帰ったウキは、真赭から事情を聞いて呆れたようにそう呟いた。巫女の家には真赭とウキ、それから秋次と煌たちがいた。
「で…でも、ウキさんを傷つけた奴らのために何かしてやれることなんて無いよ!」
真赭はウキの痛々しい包帯姿を見た。拳を握りしめる。自分の気持ちには嘘はつけなかった。
「私のために…というならば、私は全然嬉しくなんてないよ。どんなに辛かろうと、泥水啜ろうと生きていてくれたら、それ以上は何も望まないんだから」
ウキは静かにそう語った。真赭が決めた覚悟を批判するような言い方ではあったが、真赭は反感を抱くどころか何も言えなくなった。生きることを諦める理由にウキを使ってしまったのかもしれない。
「まあまあ、ウキさん。そんな厳しく言わなくても」
秋次が宥めるように言った。彼の声を聞くと、自然と落ち着いた。ウキも若いのに達観しているとして秋次のことは一目置いていた。ウキは自分の考えと自分の占いを絶対とするが、唯一秋次の言葉だけは聞き入れることもあった。
「これから、漁村と山村は対立することになるだろう。嫌な占いが当たってしまったね…」
ウキは沈んだ表情をしていた。「占いって?」と真赭が尋ねると、ウキは煌に目線を向けた。ウキが祭壇で煌について占った時のことを言っているのだろうか。確か、あの時、ウキは煌のことを益をもたらす存在だと判断した。
「そこのお客人が真赭を連れていきたいというから、真赭のことも占ったんだ。真赭は島を出る…という結果だった。山村に連れ去られるという事件も起きたんだ。真赭はほとぼりが冷めるまで島から出た方が安全かもしれない」
ウキは辛そうに占いの結果を語った。真赭は「そんな…!」と思わず口から漏れていた。
「では、その間私がその娘を保護しよう」
煌は微笑みを浮かべながら、その時を待っていた獲物のように提案した。食いついてくると思った、と真赭はため息を吐きそうなのを我慢した。煌は間違いなく、真赭を麗扇京に連れていき、舞姫にするだろう。
「悪い話ではあるまい」
煌はにやりと笑った。人の弱みに漬け込む汚さを堂々と責める気にはなれなかった。目元には笑い皺があり、澄んだ瞳をしていた。しかし、一度その目に吸い込まれると骨の髄までしゃぶり尽くされるような気がした。
式部卿という役職がどういうものか、真赭はよく知らないが、煌の天職は詐欺師なのでは無いかと思うくらいだ。
「ウキさん…ほとぼりが冷めるまでって具体的にはどのくらいの期間ですか?」
真赭はウキに尋ねた。十年、二十年と島から離れて生きたら、真赭が今まで築いてきた島の子に馴染む努力が無駄になってしまう気がした。
「少なくとも一年くらいは、離れていた方がいいだろう」
ウキは苦渋の決断というように告げた。告げられる方の真赭も辛かったが、それ以上に自分の手元から真赭を離すウキの方が辛そうだった。
「このお客人に頼るしかなさそうだね」
ウキは煌の方に向き直ると、深々と頭を下げた。
「どうか、真赭を保護してやってください」
真赭もウキも島の外に伝手なんて無い。煌がこの島に現れたのは渡りに船だったのかもしれない。ウキの占いでも煌は島に益をもたらす存在だと出た。今までそれは、名産品を買ってくれる良客という意味だと思っていたが、真赭にとっても益のある存在になってしまった。
「承った」
煌は満足気に微笑んだ。全てが自分の都合の良いように流れたことが、煌は豪運の持ち主なのではないかと思わせた。
「式部卿殿、この娘に無理強いするようなことがあってはいけませぬよ」
ウキと煌の間で話がまとまりかけていた時、秋次が静かにそう言った。秋次は真赭が、舞姫として麗扇京に連れて行かれることに困惑を示したことを知っている。だから、真赭を保護するという名目で真赭に舞姫の役割を無理強いすることがないように説諭してくれているのだ。
それに気づいた時、真赭は心が温かくなった。流されて舞姫をさせられることを仕方がないと諦めていたが、秋次は真赭が自分で何かを選べるように道を残してくれている。
「たかが僧侶如きが、私に意見するのか?」
煌は笑っていたが目は冷えていた。微笑みを絶やさぬことで無礼を冗談として笑って許してやろうという寛大さを演出しようとしているのはわかった。
真赭は手汗が出てきた。真赭を庇ったがために秋次が罰せられることになってしまったら、真赭は自分が許せなかった。
「ええ。私はたかが僧侶です」
秋次は穏やかに笑いながらも懐から文を取り出した。天籟島ではあまりお目にかかることのできない上質な紙だった。
煌はその文の中身を見て、あからさまに顔が引き攣った。煌のそんな顔は見るのが初めてだった。美しい顔が引き攣ったら、崩れるかと思いきや美しさが保たれたままだったのはちょっと憎らしかった。
「皇太后…今は出家されて月影院様からの文です。花押がその証拠でしょう」
秋次は変わらず穏やかな調子だった。文には流麗な文字が書かれてあった。秋次に文字を習っていたので、真赭は途切れ途切れだが文の内容を知ることができた。文体から、相当親しい仲であることが窺える。
月影院とやらの文だと示す証拠である花押はとても美しかった。朱色の中に金箔がきらきらと輝き、文の角度を変えることで違う表情を見せた。
「…確かに、月影院様しか使えない金箔を混ぜた真朱の花押だ」
煌はこの文が本物だと確信を持ったのだろう。吊り上げた口の端が僅かに震えていた。しかも、その文からは焚き染められたであろう香の匂いがまだ微かに香るので、直近までやり取りをしていたであろうことが推測された。
高貴な女性が、僧侶と師弟関係になることは珍しくないらしく、秋次は麗扇京で月影院に仏の教えを説いていたと教えてくれた。真赭はこれが秋次の言っていた「長い仕事」の正体だろうとぴんときた。
長い仕事は、秋次と彼の師匠を永遠に引き離してしまった悲しいことであったはずだ。それが巡り巡って真赭を助けるための秋次の切り札になっている。
「私は真赭の味方であり、その私の裏には月影院様がいらっしゃることをお忘れなく」
秋次は終始穏やかだった。こんな最強とも言える切り札を出したのなら、もっと自信満々になってもいい気がするが。秋次は淡々と語るだけだった。
神仏と同等の威光を持った人物。確かに、どんな大貴族でも逆らいたくないと思わせる力があった。
「…わかった。いついかなる時でも、その娘の意思を尊重しよう」
煌は降参だとでもいうようにぶっきらぼうに言い放った。