五話
村長の家は、一晩中明かりが灯っていた。三味線の音色、女たちの歌声、囃し立てるような指笛、そして焼酎の匂い。麗扇京からやって来た貴族をもてなすための宴が開かれていた。
「さあさあ、式部卿様。酒をお注ぎいたしますよ」
村長は瓢箪の容器から、杯に酒を注ぐ。式部卿、煌は舐めるように少しだけ酒に口をつけた。
煌は女好きだという噂を聞いていた村長は、村の中でも器量良しの未婚の娘たちを集めて宴会に花を添えさせていた。
「煌様、もっと召し上がって!」
村娘の一人が料理を盛った皿を引き寄せる。煌の両隣には美人の娘たちを侍らせていた。娘たちには一番いい着物を着てこいと言ってあった。
「島の女たちは、野趣溢れる味のある女たちばかりだな。麗扇京の白粉を塗りたくった女たちとはまた違った良さがあるねぇ」
酒を舐めるようにちびちびと嗜みながら、煌は微笑んだ。村長は気に入ってもらえたかと安堵する。もしかしたら、宴会に呼んだ村娘の中から嫁に連れて行ってもらえるものが出るかもしれない。
「そちらの方、全然お酒を召し上がらないのね! 今日はとっておきを開けたのですよ」
娘の一人が、酒には全く手をつけない煌の部下に酒を注ごうと近づく。
「ああ、その二人は飲まないよ。わたしの護衛中であるし、下戸なのだ」
申し訳なさそうに部下の二人は頭を下げる。その時、戸口のあたりで物音がした。何かそれなりに大きなものが戸にあたったような音だ。
「私が見て来ましょう。皆様は食事を楽しまれて」
村長が宴の空気を壊さないようにと微笑みながら、戸口へ向かった。獣か何かが当たって言ったのだろうか。養豚している豚が逃げ出したのかもしれない。そう思って何かが当たっていて重くなっている戸を力任せに開けた。
すると、こちらに何かが崩れ落ちるようにして倒れてくる。村長は思わずそれを受け止めた。ぬるり、と何かの液体がべったりと手についた。
「巫女様! どうしてここに!」
灯りに照らされると倒れ込んできたのは、巫女のウキだった。こめかみのあたりから血を流し、顔の半分は血まみれになっている。よく外を見ると、血が転々と道を作っていた。
「う…うぅ…」
ウキは呂律が回っていないようだった。意識が朦朧としながらも灯りがついていて宴でどんちゃん騒ぎをしていた村長の家に人がいるという確信を持ってやって来たのだろう。
巫女の家は村からは少し離れた神域に近い場所にあるため、こんな血を流した状態で暗い中歩いて来るのは大変だったはずだ。
「何があったんですか。この血はどうしたのですか!?」
村長は慌てて聞く。ウキは何かを伝えようと必死に村長の着物の端を掴んでいた。声を聞いたのか、宴を楽しむ声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
「村長殿、いったいどうし──巫女殿?」
煌が宴席から抜け出して、こちらに来てしまった。声が一段低くなる。村長は、背筋が冷えた。巫女が何かしらの怪我をしている。これは村の問題だ。外部の人間、しかも貴族を巻き込むわけにはいかない。
「真赭…真赭が連れ去られた…」
ウキは苦しそうに、喋った。意識も朦朧としている中、うわごとのように「真赭が連れ去られた」と繰り返す。
「誰に連れ去られたんだ、巫女殿」
煌が静かに尋ねた。しかし、その声を聞いた途端に村長は縮み上がる思いがした。表面は優雅に、余裕のある雰囲気を纏っているがその裏に底知れぬ苛立ちを感じたのだ。
「たぶん…山村の奴らだ。訛りがあった」
ウキは今にも意識を失いそうな様子だが、それをあと一歩のところで踏ん張って喋っているようだった。
「鷂、狗鷲」
煌が低い声で、部下たちの名前を呼んだ。宴席だからと、武器を外していた鷂と狗鷲はいつの間にか刀を手にしていた。村長はその様子に息を飲む。この部下たち二人が近づいて来る足音がしなかった。煌が名前を呼ぶまで近くにいる気配すらしなかったのだ。
「私の舞姫を返してもらいにいこうか」
煌は笑っていたが、そこには仄暗い怒りを感じさせた。
***
山神様のために舞を舞え。漁村の奴らばかり得するのは気に食わない。この発言から、きっと真赭は自分が山村に連れてこられてしまったのだと推測した。
山の斜面を掘って、木材で梁などを作り、人が入れる空間にしたのが真赭が捕らえられている牢屋なのだろう。
「できません。私は海神様にお仕えする巫女見習いですから、山神様のためには舞えません」
真赭は震えながらもはっきり、そう言った。真赭の舞は海神に奉納するものであって、山神に奉納するものではない。それに、ここで山神のために舞えば命は助かるかも知れないが、ウキが教えてくれた巫女としての誇りを汚す行いになるかも知れなかった。
「調子に乗るなよ…」
松明の火に照らされた鎌がぎらりと光った。真赭はひゅっ、と喉を鳴らして息を吸い込んだ。
「お辞めなさい。怖がっているではないですか」
その時、女の声が響いた。その声を聞いた途端に、男たちは道を開けるように端に寄った。そこに四十路くらいの女を先頭にして、村の女衆たちが真赭のいる牢屋の前まで歩いて来た。
先頭に立っている女は装束からして、山村の巫女だろう。長方形の布を体に巻きつけたような装束を着ており、漁村の巫女に比べて装飾が少なかった。漁村の巫女、ウキは太い腰帯に鈴鏡を下げ、貝殻や玉飾りなどの装飾が多い。
「ここは私たちに任せては貰えませんか?」
巫女は苛立ち興奮気味だった男たちに、静かに語りかけた。後ろに控える山村の女衆たちも頷いている。男たちは渋々と言った様子で、この場を巫女に任せるために松明の火を篝火に移して去っていった。
「はじめまして。山村の巫女、ヒチと申します。ごめんなさいね、手荒な真似をして。拘束を解いてやりたいけど、山神様のために舞うと言わない限り解いてやることはできないのです」
ヒチの後ろにいた女衆たちは「可哀想に」「こんな娘っ子乱暴に扱うなんて…」と真赭に同情的だった。ヒチの声は優しかったが、真赭が山神のために舞うのを説得しようという態度は変わらなかった。ただ、男たちが武器を使って脅そうとしたのに対し、女たちは言葉で説得しようという違いがあった。
「ヒチさん。あなたが山神の巫女ですよね。あなたが舞えばいいではないですか。私は海神の巫女です。舞の形だって違います」
真赭はそう訴えたが、ヒチは静かに首を振った。
「私はあなたのような奇跡を持ち合わせていません。私が舞っても、山神様は何もしません。それに、山村ではあなたに対して過激な考えをする者がいます」
ヒチは視線を少し落とした。これ以上言っていいのか迷っていたようだが、覚悟を決めたように話し始めた。
「あなたの舞は雨を呼ぶこともあるそうですね。この前の雨で、土砂崩れが起きて村に被害が出ました。それを海神の娘が雨を呼んだからと恨む者たちも少なくありません」
「そ…そんな!」
真赭は思わず叫んでいた。天籟島のためにしていたことなのに、知らぬところで災害を呼び恨まれていたなんて思わなかった。
「過激な人たちの中には海神の娘を人柱として贄に捧げ、山神の怒りを鎮めようという話すら出ています」
ヒチは申し訳なさそうに語った。全ては山神の巫女としての自分が不甲斐ないからと自分を責めているように見える。そして真赭は自分が人柱として生贄に捧げられる可能性もあるのだと身震いした。
「山村には池があります。山神様はある時期になると、山から池に降りて来ると伝えられています。山にいるのは荒御魂、池にいるのは和御魂と言われています」
ヒチが淡々と説明しているのを真赭は震えながら聞くしかできなかった。自分が池に沈められる場面を何度も繰り返し想像した。水が怖い真赭にとって一番最悪な死に方は溺死以外にないだろう。
「でも、私はあなたを生贄にはしたくありません。山神様の怒りを鎮めても、海神様の怒りを買っては意味がありませんから」
ヒチは格子を両手で掴んで真赭に顔を寄せた。
「どうか、山神様のために舞ってください。私が不甲斐ない巫女のせいであなたに迷惑がかかっていることは重々承知しています。しかし、私は巫女を継いだばかりで、過激な人たちを止めることはできないのです。あなたに山神様のために舞ってもらうと提案して、ようやく納得して貰えたのです」
ヒチは泣きながら、真赭に懇願した。あなたが死なないためにも山神様のために舞うと言って。村の女衆たちも、「矜持のために命を捨てるなんて馬鹿らしいよ」「ちょっと舞ってくれるだけでいい」「あんたに生きて欲しいんだ」と涙を交えながら説得しに来た。
「ウキさん…ウキさんはどうなりましたか?」
真赭は静かに尋ねた。ヒチは息を呑んで言葉を詰まらせた。
「私は私の大事な人を傷つけた人たちのために、舞いたくありません!」
震えながらも真赭は叫んだ。ウキは過激な男たちに殴られた。死んでいるかもしれない、と何の罪悪感もなく言っていたのだ。
「あなたの覚悟は揺らぎませんか」
ヒチは残念そうに呟いた。真赭はその言葉に頷いた。
「私は一度、死んだ身。それをウキさんが生き返らせてくれた。私に居場所を与えてくれた。ウキさんを傷つけた人たちのためには舞えません」
それが真赭の答えだった。耳の奥で血が流れる音が潮騒のように聞こえた気がした。身体が警戒して、死を恐怖している。そんなことは震える身体が教えてくれる。
でも今からでも「舞わない」という答えを撤回しようとする気はない。
「考え直しておくれよ。人柱にされちまうよ!?」
村の女衆の一人が前に進み出て、真赭を説得しようとした。それを手で制したのはヒチだった。
「彼女の意思は変わらないでしょう。仕方がありません」
ヒチは泣き出しそうな女を宥めるように背中を撫でた。
「やっぱり、漁村の奴らだけいい思いをしたいからだろう。海の恵を独占したいんだ」
村の女衆の中でも若い娘が堰を切ったように、わっと泣き出した。真赭はこれまで気づいていなかったが、山村の村人たちは漁村の村人たちに比べて痩せている気がする。ヒチも少しやつれているようだ。
漁村の人たちは漁師が多く逞しい人たちが多いからそんなものかと気にしていなかったが、もしかすると山村は漁村にくらべて貧しいのかもしれない。
土砂崩れで被害があった、山神の怒りと称されるならば人命が奪われたのだろう。畑も駄目になってしまったはずだ。天籟島は本土のような水田の稲作には適しておらず、焼畑農業が主流だ。
漁村の方では畑に加えて海から食べ物を得ることができるが、山村では畑しかない。畑は命と同義だろう。そんな中、真赭がやってきて、ただでさえ格差のあった二つの村の溝が広がった。
真赭が舞えば舞うほど、漁村の人たちに崇められれば崇められるほど、山村の人たちは怒りを募らせていたのかもしれない。
***
まだ日も昇りきらぬ薄暗い朝に、真赭は牢から出された。縄に繋がれたまま家畜のように引っ立てられる。足がもつれて転けようとも、男たちは縄を引っ張る手を止めなかった。
「あまり乱暴にしすぎちゃ、可哀想だよ。一応、海神の娘だろう? 祟られたりしたら…」
過激な男たちのうちの一人に、村の女が声をかけたが、男たちは見向きもせずに真赭を引っ張った。
「俺たちのためには舞えないとこの娘は宣ったそうだな。俺たちに今迫っているのは山神様の怒りだ。漁村の奴らが勝手に島に異物を入れたからお怒りなのだ」
山村の村人にとって近しい神は山神であり、海神は遠い神だった。親しみのない海神の怒りより優先すべきは山神の怒りなのだろう。
村の中心には丸い池があり、そこに白み始めた空が写っていた。水鏡のように水は澄んでいる。しかし、風が吹いて水面が揺れると、真赭は言い知れない恐怖が身体を襲った。今から自分がここに沈んで死ぬのが怖いのもあるだろう。
しかし、懐かしい女の耳をつんざくような悲鳴が頭の中で鳴り止まなかった。真赭が恐怖からそのような幻聴を聞いているのか、記憶の蓋が開きかかっているのか、わからなかった。
やめて! いやぁぁぁ! ──が!
女の声は必死にこちらに手を伸ばしているように感じた。燃え盛る船、焦げていく帆、折れる柱、飛び散る血。全てが生々しく頭に浮かんだ。きっと、天籟島に来る前の記憶だ。
真赭は櫃の中に押し込められた。両手両足は縛られた状態だ。村人たちは蓋を開けられないように釘を打ち付け、縄で縛った。ヒチが祝詞を読み上げる声が聞こえる。申し訳なさそうな響きがあった。
真赭の入った櫃が持ち上げられ、揺れる。たぶん、数人がかりで持ち上げたのだろう。一歩、一歩、池へと近づく。真赭は目を閉じた。きっとこれから来るであろう苦しみから目を背けるように。
まだ池に入っていないのに、水面に叩きつけられるような衝撃を思い出した。鼻や耳に塩水が入り込んでくる痛さを思い出した。
「そうだ、私…。燃え盛る船から落ちたんだ…」
ずっと忘れていた。水面に血が混じっていて辺りが薄い紅色の海水になるほどの血が流れた思い出だから。大勢の人が死んだんだ。
その時、真赭の記憶の回想を打ち破るように馬の蹄の音と嘶きが聞こえた。