四話
「あの、何で着いて来るんです?」
真赭は早足で歩く。あたりにはサトウキビ畑が広がっていた。真赭の後ろを煌が朗らかな笑顔で着いて来る。その後ろには気配をなるべく消しながら、馬を引いてあるく煌の部下たちの姿が遠くに見えた。
「それは、そなたを舞姫に勧誘しているからだ」
夕日が金色の光でサトウキビたちを照らしていた。煌はにこにこと微笑みながらも、真赭が首を縦に振るまで引かないという粘着質な一面を覗かせていた。
「答えを聞く前に、そなたは逃げ出したからな。答えを聞かせてもらうぞ。ちなみに、『はい』以外の答えを聞く気はない」
笑顔を崩さずに煌はそう言い切った。思っていたより早めに秋次の伝手を使って乗り切るしかないような気がした。
真赭は立ち止まって考える。純粋に舞を認めてもらえたことは嬉しかった。しかし、五節の舞姫の代理は少し荷が重すぎる気がする。
「私はこの天籟島が好きです。だから、麗扇京に行く気は…」
真赭がそう言いかけた時、煌は言葉を被せるように口を開いた。
「はい以外は聞く気はないと言ったはずだが」
真赭は貴族って偉そうで勝手すぎる…とため息を吐きそうになったのを煌の目の前だから我慢した。奴婢の話といい、彼の価値観は麗扇京のものであり、天籟島とは違う。そんな真反対の位置に立っているような、煌だけが純粋に真赭の舞を褒めてくれたと言うのが、皮肉なものだった。
向かいから、畑仕事を終えた村の老婆がやって来た。腰が悪くなっているのに息子夫婦や孫たちが止めても、畑仕事を辞めない人だ。
「真赭ちゃんに貴族の御方、こんばんは。もう日が暮れますねぇ。真赭ちゃん、良かったらこれ食べとくれ。お裾分けのお返しだよ」
老婆はそう言って甘蕉の葉に包まれた雑穀の握り飯を真赭に持たせてくれた。そして、ありがたやありがたやと唱えて真赭を拝む。
「もう! タキさんたら。私はそんな神でも仏でもないんですから、拝まないで!」
「でも海からやって来て生き返った奇跡の子だよ。類稀なる強運の持ち主だ。少しでも福を分けとくれ、ありがたやぁ」
真赭は必死にタキに止めるようにお願いする。その様子を面白そうに煌は見ていた。村人たちは海からやって来た真赭を恐れて、最初は遠巻きにしていたが、真赭が髪を染めると老人の中には真赭を拝む者も現れた。
真赭に供物として、食べ物を献上する人たちもいる。それらは丁重に辞退して、貰ったものにはお返しをすることで一方的な関係にならないように努めている。
「山の集落の人たちは過激な人も居るんだから、真赭ちゃん気をつけてね。あっちは山神様を信仰してるから、真赭ちゃんみたいな海の子はあまり歓迎されないのよ」
タキはそう言って深々と真赭と煌に頭を下げると去って行った。天籟島には、海側にある漁村と山側にある村の二つの集落がある。
真赭は漁村の近くに住んでいるので、あまり山の村の方とは縁がなかった。しかし、同じ天籟島に住む者同士、仲良くして行きたいし、漁村の人の親戚が山の村にいたり、嫁に行ったと言う話はよく聞く。
しかし、山の村の方ではまだ真赭を受け入れない人たちが根強く残っているらしい。いつか蟠りが解けたらいい。真赭はそう思った。
「村人たちの反応を見るに、そなたは本当に海神の娘と信じられているらしいな」
興味深げに、煌はしげしげと真赭を見つめた。
「恐ろしくなりましたか?」
真赭は意趣返しのように尋ねる。
「いや、面白い。私は美しきものを見定める眼には自信があるのだ。そなたの舞は素晴らしい。この島だけではなくもっと広い世界を見るべきだ。井の中の蛙大海を知らずと言うだろう」
煌に勝手に世間知らずと断定されてしまったのは、少し腹立たしかった。たしかに、真赭は島のこと以外知らないが。
「されど空の深さを知る──とは思いませんか?」
真赭がそう返すと、煌は少し驚いたような顔をした。
「そなた、意外と学があるのだな」
馬鹿だと思われていたのか、と真赭は少し怒りが湧いたが、貴族から見た平民なんてそんなものだろうと冷静になった。村の人たちは感覚が麻痺しているが、平民なら文字の読み書きができないのが普通だ。真赭だって秋次が教えてくれるまで文字など読めなかった。
村の人たちは運が良い。秋次のような人徳者が村に滞在してくれているのだから。これは普通ではない。──文字を読めることの方が異常なのだ、この感覚を真赭は何処で身につけたのだろう。鈍い頭痛が広がっていた。
「葦の舟で流された形のない神の話がある。もしかすれば、そなたは本当に海神の娘なのかもしれぬ。そう言った肩書きがあった方が武器になるぞ」
煌は真赭の気も知らないで、海神の娘という肩書きに興味津々らしい。真赭はこの海神の娘という名前が嫌いだ。死んでいたのに生き返った。そんなことが自分の身に起こっていたなんて信じられない。自分でも不気味だと感じる。
海神の娘なんて崇められなければ、普通の娘として生きられたかもしれない。しかし、真赭の赤銅色の髪は恐れられている。海神の娘という肩書きは真赭を守ってくれた側面もあった。鬼の子として、殺されていたかもしれない。
「神になど、なりたくもありません。私はただ普通に生きたいだけなんです」
真赭はぽつりとつぶやいた。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。夕焼けの哀愁漂う雰囲気が、少し心を弱らせたのかもしれなかった。
「ふむ。それに関しては、そなたと同意見だ」
煌の声色が少し冷たくなったように感じた。纏う雰囲気が、固くなったように思える。麝香の香りはそのままなのに、一瞬で別人になったかのように錯覚してしまった。
しかし、夕日が眩く光ったかと思えば、煌は胡散くさい笑顔を浮かべて何の変わりもないようだった。
「勝手にそなたを海神の娘だと言って悪かったな。自身の望まぬ称号を背負わされるのは辛いことだ」
まさか、遠い存在だと思っていた煌が真赭に寄り添おうと努力して詫びの言葉を紡ぐとは、予想だにしなかった。勝手に煌のことを天上天下唯我独尊野郎だと決めつけていたことを真赭は心の中で申し訳なく思った。彼に人の感情に寄り添うと言う人間らしい行いができるとは思わなかった。
美しいものだけを愛し、最初は真赭の意思に関係なく舞姫として連れて行こうという魂胆だったに違いないはずなのに。
煌は真赭を家まで送ってくれた。家まで着いて来た時は、また乗り込んで舞姫への勧誘をするかと思われたが、思いの外煌は素直に引き下がった。ただし、真赭が首を縦に振るまで島に逗留し、説得を続けると宣言されたことについては、気が重くなった。
***
真赭とウキが寝静まった夜だった。隣の部屋にはウキが寝ている。虫の声が聞こえて、月の光が窓から差し込んでいた。真赭は寝られずに横になって、月明かりに照らされる自分の髪を見た。
太陽光ほどではないが、月明かりに透かすとよく見れば髪が黒ではなく赤味を帯びていることがわかる。また染めなければならないかとぼんやり思っていた時だった。
床が軋む音がした。真赭は飛び起きて辺りを見渡した。黒い人影が複数、真赭に近づいてくる。
「だっ…誰?」
真赭は咄嗟に叫んだ。この家は壁が薄い。ウキが異変に気づいてくれないか賭けたのだ。
「静かにしろ!」
野太い男の声だった。複数人の男たちが真赭に飛び掛かり、布で口を塞ごうとして来た。
「ウキさん! ウキさん助けて!」
真赭は叫んだがすぐに口の中に叫べないように布が詰められて猿轡のようにされてしまった。手足を縛られた真赭は米俵のように抱えられてしまう。
「叫んでも暴れても無駄だ。巫女のババアは頭を殴ったから、最悪死んでるかもな」
侵入者のうちの一人が吐き捨てるように言った。真赭を脅して抵抗する気力を削ごうとしたのかもしれない。効果は覿面だった。真赭は目を見開き、体が硬直してしまった。
そういえば、先程からウキの寝息が聞こえなかった。壁が薄いのでいつもならウキの穏やかな寝息が聞こえていたはずだ。それに、ウキがこんな侵入者に気づかないはずないのに。きっと眠っている時に静かに近づかれて頭を殴られたのだ。
「こいつも気絶させろ。暴れられては困るからな」
男の一人がそう言った次の瞬間、真赭の首に手刀が下ろされた。そして真赭は衝撃と共に気を失った。
揺れている。体が波に揺れているかのようだった。女の子守唄が聞こえて、真赭は懐かしい気持ちになった。波の音は微かに男たちの鼻歌を運んで来る。揺れる船底に、真赭はいた。
麻布の吊り床に横たわっていた真赭は子守唄の主を探した。赤銅色の髪の女が、真赭の頬を優しく撫でている。しかし、顔だけがよく見えない。女の真赭と同じ赤銅色の髪だけはよく見えるのに、顔は朧げだった。
必死に手を伸ばそうとする。しかし、真赭の体は言うことを聞かなかった。冷たい土壁の感触を背中に感じ、真赭は目を開けた。
先程の船底の部屋の記憶は、きっと天籟島に来る前の記憶だろう。きっと赤銅色の髪の女は、母親だ。そんな確信があった。だって、あんなにも優しい歌声をしていたのだから。
真赭はよく目を凝らして辺りを見渡した。剥き出しの土壁は、何かの洞穴のようだった。目の前には木の格子があり、ここが牢屋のようなものであるとわかる。
猿轡はいつのまにか外されていた。しかし、手足を拘束する縄はそのままで、縄が伸びた先には部屋の隅で杭で打ち付けられていた。ある程度は動けるが、牢の中からは出られないだろう。
松明の明かりが、こちらに近づいて来た。複数人の足音がする。
「だから、殺してねーって。気絶させただけ。ばばあの方は知らないが」
「だが、あの娘が気を失ってから二刻も目が覚めないぞ。生きて連れてこいと言ったはずだ」
何やら男たちが揉めているようだった。真赭は息を顰めて話を聞いていた。暗くて外も見えないので時間がわからなかったが、拐かされてから二刻は経ったのだろう。
真赭はウキが心配だった。真赭を拐かした男たちの話によると、ウキは頭を殴られている。近所の村人たちが気づいてウキを助けていてくれと願わずにはいられなかった。
格子の前に松明の明かりが灯され、真赭を照らした。真赭は眩しくて目を細めた。
「よかった。まだ生きてる」
真赭を見た男の一人が安堵の息を吐いた。
「どうして、私を攫うような真似をしたんですか?」
真赭は男たちを刺激しないように努めて冷静に尋ねた。異常な状況に陥ったとき、冷静さを欠いた者から死んでいく。これはウキの教えだった。
「お前、海神の娘なんだろ」
鋭い瞳をした男が、真赭を睨みつけた。怒っているというよりは、恐ろしいものに飲み込まれないように自分を鼓舞しているように見えた。この人たちにとって真赭は恐るに足りないただの小娘ではなく、海神の娘という神の領域に片足を突っ込んだ存在だと信じているのだろう。
「お前がひとたび舞えば、波は鎮まり、雨を呼び、時に雲を掻き分け日が照り、益を運んで来ると」
「そんな風に噂になっているんですね」
真赭は自分が山の集落の方でどんな風に噂されているのか知らなかった。おおよそ、漁村のお年寄りたちが真赭を崇める時に語る言葉と相違はなかった。
「漁村の奴らばかり得するのは気に入らない」
松明を掲げた男のもう片方の手に草刈り鎌が握られているのが目に入った。薄暗くてわからなかったが、男たちは皆、鍬だったり鎌だったりを手にしている。真赭は呼吸が浅くなっていくのを感じた。
まさか、殺される?
嫌な汗が額から顎にかけて伝って行った。
「山神様のために舞え」
男たちのうちの一人が代表するように、真赭に告げた。松明の明かりが、鍬や鎌に反射してぎらりと光った。鍬で頭をかち割られたら苦しみながら、死ぬだろう。鎌で首を切られたら長く血が流れ出るのを感じながら死ぬだろう。
鍬や鎌を持って来ていたのは、真赭を脅すためだったのだとわかった。真赭はウキの教え通りに冷静になろうとしたが、歯ががちがちと鳴るのを抑えられなかった。