三話
真赭は家から飛び出していた。いまだに野次馬をしていた村人たちが、何ごとかと真赭を見るが、走っていく真赭を止めるものはいなかった。
真赭の足が向かったのは草庵だった。
「先生!」
真赭が戸口に立って呼びかけると、中から質素ながらも清潔に保たれた法衣を着た男だった。まだ三十路くらいに見えるが、麗扇京から来たという立派な僧侶だ。天籟島で誰かが亡くなるとこの人がお経を上げてくれる。
村の子供達に読み書きを教えたりしていて、真赭も彼の教え子だ。
「先生、秋次先生。大変なんです」
「どうした、真赭。真っ青だよ。とにかくお上がり」
秋次は心配そうに真赭を草庵の中に上げてくれた。真赭はウキに舞を教わって最初の頃は上手くできずにウキに叱られて、よく秋次の元で泣いた。
秋次の額には火傷のような痣があり、最初は村人たちからも恐れられていたものの、今ではすっかり村に馴染んでいる。同じ島の外からやって来た人間として、真赭は秋次に親近感を抱いていた。
それでも、真赭は舞から逃げることはなかった。舞は真赭がこの島にいる為の手段であり、存在証明だった。真赭が舞って波を沈めることで、村人たちは安心して漁に行くことができた。真赭が舞うことで、雨を呼ぶこともあった。
真赭は何かしら島の役に立たないと、ここにいてはいけない気がした。不気味な赤い髪という事実を胡桃の染料で覆い隠すように、功績を立て続けて島の子になりたかった。
「島に、式部卿だか何だかの貴族がやって来たのは知ってますか?」
真赭は走ってきた息を整えながら、話し始めた。
「村の人たちが知らせに来てくれたよ。しかし、ここの草庵は村から少し離れているから、喧騒は聞こえなかった」
秋次はお茶を淹れてくれた。ここ天籟島でよく飲まれる蓬茶ではなく、緑茶だ。秋次はよく村人たちから漁で採れた魚や畑で採れた野菜を感謝の印として貰っているが、それとは別に島の外からも荷物が届く。きっと、島の外から来た茶葉なのだろう。
「その貴族の人が、私を舞姫として麗扇京に連れていきたいって。それで…私、思わず逃げて来てしまいました」
秋次はまずはお茶でも飲みなさいと、真赭を落ち着かせた。
「そんなこと、いきなり言われて困っただろう。それに相手は貴族だ。強引に権力を使ってくるかもしれない」
秋次は真赭の不安を的確に慰めた。この人のこういうところが信頼できると感じる所以だと真赭は思った。貴族からぜひ舞姫に、なんて誘われたら普通の人なら名誉なことだからと真赭に麗扇京に行かせるだろう。
「私もまだわからないんです。私の舞を認めてもらえたのかもしれないって嬉しさはあります。でも、それ以上に不安が大きくて」
真赭にとって舞とは生きがいのような体の一部のようなものだ。真赭から舞を奪われたら、例え手足が無事だろうと屍のように生きる気力を無くしただろう。
「もし、相手の貴族が真赭の意思を無視して強引にことを進める気なら、私に言いなさい。麗扇京には伝手がある。どんな大貴族でさえ、逆らえないような伝手が、ね」
秋次は茶めっけたっぷりに笑った。真赭を安心させようとしてくれているのだとわかり、優しさが身に染みた。秋次も天籟島に来る前までは麗扇京にいたらしい。そして南端の天籟島に辿り着くまでに各地を旅したらしい。
「秋次先生が、すごい僧侶さんなのは知ってます。でも、あの貴族の人はとても権力を持っているようでした」
美しいものを片っ端から集めるような異様な収集癖を覗かせたあの黒曜石のような瞳が頭から離れなかった。
「貴族というものは神仏の威光には逆らいたくないものだ」
秋次は例え強大な権力を相手が持っていたとしても堂々としているだろう。ウキだって、一歩も引かずに対話していた。真赭が弱かっただけなのだろうか。真赭は自分が不安から逃げ出してしまったことを少し恥じた。でも、秋次と話したことで荒れていた心の波は凪いだ。
あの煌とかいう貴族は、祟りを恐れ祭具には手をつけないという線引きをしていた。秋次が言うように神仏の威光に逆らいたくないと言う感覚は当てはまるのかもしれない。
「天籟島を出たら、私はここには帰れないんじゃないかって気がします」
真赭はぽつりと呟いた。
「どうして、そう思う?」
秋次は静かに尋ねた。穏やかな瞳が真赭を見つめていた。
「ウキさんは、私が真名を思い出したら何処へなりとも行けって言ったんです。私が、麗扇京に行ったら…もう島には入れてもらえないんじゃないかって」
真赭は緑茶の入った湯呑を握りながら、不安を溢した。
「何か誤解があるんじゃないかな。ウキさんは、一度島の外に出たからといって真赭を見捨てるような人じゃないだろう?」
秋次は真赭に帰ってウキと話し合うように伝えた。確かに、と真赭も納得した。
「よく話し合いなさい。私はもっと話し合えばよかったと後悔することばかりだから」
そう語る秋次の顔は、夕日のような寂しさを感じさせた。まだ年若い僧侶なのに厭世的な雰囲気を纏っている。
「先生も後悔することがあるんですか?」
真赭は尋ねた。秋次以上によく出来た人間がいるとは思えなかったから。彼は清貧で、無欲で、村の子供達に読み書きを教える人徳者だった。だからこそ、皆に慕われている。
舞を踊ることで、村人たちに認められようと足掻く真赭とは違う。真赭は無欲じゃない。ここに居てもいいという許しを常に求めている。
「もちろん、後悔だらけだ。まず私のお師匠ともっと話すべきだと思ったよ。私は勝手に師匠の元から離れてしまってね。その後、長い仕事があったから、その間に師匠は亡くなってしまった。再び言葉を交わすことはなかった」
目を細めて、秋次は遠い過去を夢想しているようにも泣き出したいのを堪えているようにも見えた。
「あとは私の兄だ。もっと話したかったと後悔するばかりだ。そして、私を好いてくれていた女。彼女は話し合いが足りないばかりに間違いを犯して亡くなってしまったから…。こういった気持ちは俗世に置いてくるべきなんだろうが、私は静かに彼女を偲びながら生きるしかない」
秋次は茶を飲み干して、底には茶葉のかけらが残っていた。
「私の僧名はね、師匠がつけてくれた『秋』と次の人生を新しく始めようと『次』という字をつけたんだ」
秋次は愛おしむように自分の名前の意味を教えてくれた。それは真赭に『真赭』とつけてくれたウキの姿を思い起こさせた。
「真赭の芒って季語がありますよね。私、先生と秋繋がりでお揃いだ!」
真赭は思わず笑顔になった。きっと秋次にとって名前の話は亡くなってしまった師匠のことを思い出す話なのだろう。きっと真赭という名前にウキは大して思いを込めてはいないだろう。髪が赤かったから、真赭。それくらいの意味合いのはずだ。
でも、ウキから真赭と呼ばれた時、心に小さな火が灯るように暖かくなったのだ。ウキは名付けることで真赭の髪のことを受け入れてくれたのだ。
「先生、私…ウキさんとちゃんと話して来ます。もしかしたら貴族を追い返すのに、先生の伝手とやらを頼っちゃうかも!」
真赭は手を振って、家へと走り出した。その様子を秋次は穏やかに見守って手を振りかえしてくれた。
***
巫女の家の周りに押しかけていた人だかりは散っていた。道すがら村人たちから聞いた話では、貴族の御仁は村長の家に逗留しているという。確かに、貴族をもてなせる余裕を持った家は村長か巫女以外にいないだろう。
真赭は家に煌がいないことに安堵しながらも、同じ島にはまだ居るのだという不安が消えなかった。
「ウキさん」
真赭が家に帰るとウキは蓬茶を啜っていた。ウキの前に置かれた膳は空っぽだったが、煌に出した方の膳は一口か二口ほど口がつけられているだけで、ほとんど食べられていなかった。
きっと真赭が途中で逃げ出したから、食事をする意味もなくなったのだろう。煌にとっては真赭を舞姫として連れて行くことが目的で、食事はそのおまけに過ぎないと言われているようだった。
「真赭、帰ったのかい」
ウキは何てことはないようにいつも通りだった。きっとウキは、真赭が舞の練習が厳しくて泣きに行っていた時に秋次の所へ行っていたのはお見通しなのだろう。
「ごめんなさい、ウキさん。途中で出て行っちゃって」
真赭は頭を下げた。ウキは頭を上げろとも、しかしそのまま下げ続けろとも言わなかった。真赭の気が済むまで何でもやれ、と言っている態度だった。ウキは言葉よりも行動で語ることの方が多い。真赭がウキの感情を読み取らなければならない。
「家の方の祭壇でな、ちょいとあの男を占って見た。悪いようには出なかったよ。島に益を齎す存在だと出た。まあ、島の名産品を買ってくれる良客には違いないらしい」
ウキは淡々と語った。そこに怒りのようなものは感じられなかった。
「ウキさん。私がもし記憶を思い出したら、ここには置いておけませんか?」
真赭はウキと出会ってから数年間蓋をしていた質問を投げかけた。
「真赭、お前は何か勘違いしているようだね」
ウキは静かに言った。続く言葉が拒絶なのではないかと、真赭は唾を飲み込んだ。緊張して指先がかすかに震え、冷や汗が出る。
「お前は何処にいてもいい。ここに居たかったら好きなだけいればいい。私は記憶が戻ればお前が故郷に戻りたいと思うだろうと考えたのさ。二親を思い出したいだろう」
真赭はウキの言葉に考えた。自分の両親のこと、故郷のこと。でも、何も思い出せない。それよりも、天籟島に馴染もうと必死で記憶を思い出す努力をしていなかった。
今、考えているのは舟育ちなのではないかということだけ。天籟島の周辺にある島々の生まれなのか、両親はどんな人なのか、わからない。
でも、ウキが祖母のように真赭を厳しくも愛情深く育ててくれたから、親を恋しく思う暇などなかった。
「思い出したい…とは思うけど、そんなに重要じゃない。だって、私はウキさんに拾われたから。私、記憶が戻らなくても、ウキさんの役に、島の役に立てれば充分だよ!」
言葉がまとまらなかった。でも、思いを真赭は叫んだ。真赭って名前が嫌いじゃない。本当の髪の色を隠してはいるけど、それで島に馴染めるなら我慢しなくちゃならない。
「あんまり、自分を犠牲にするもんじゃないよ」
ウキはそう言って客人が手をつけなかった食事を片付け始めた。真赭もそれを手伝う。残り物は勿体無いから、真赭とウキで食べられない分は近所に振る舞うことにした。
貴族は食べ残しを下のものに下げ渡す風習があるらしい。たっぷり残してくれたのは逆にありがたかったかもしれない。こんな豪勢な食事は儀式でもない限り食べられないのだから。
近所の人たちには大層ありがたがられた。赤米や煮物を分けてやると、皆が笑顔で帰っていった。
夕餉は、黒胡麻を練り込んだ豚肉を準備してあるので、真赭はまた崖上の舞台に足を運んだ。檜で作られた舞台は木の香りで充満しているが、遠くから微かに潮風が入ってくる。
夕日が水平線に吸い込まれて行く瞬間だった。これから夜にかけてまた漁に出る人たちもいる。真赭は波が荒れないように祈りながら舞った。夕日が強く照りつけて、真赭の髪を赤く照らす。
その時だった。誰かの足音が近づいて、舞台の前で止まった。斎庭には、巫女や関係者以外あまり近づかないので、ウキが呼びに来たのかと真赭は舞うのを辞めて振り返った。
ゆっくりと拍手が響く。
「やはり私の目に狂いはなかった。素晴らしい舞だ」
煌が目を輝かせてこちらを見ている。いつから見られていたのだろう。まったく気づかなかった。部下らしき人影が遠くに馬と一緒に見える。煌は一人で舞台に近づいて来たのだろう。
「ん? そなた、よく見ると髪が…」
煌が目を凝らして髪を見つめる。真赭は慌てて腕で髪を覆った。
「夕日で赤く見えるだけです! 私は黒髪です!」
「…まだ何も言っていないが」
慌てる真赭を煌は静かに見ていた。
「そうか。黒紅梅のように見えたのは見間違いか」
煌はそう言って真赭の髪を一房取ると、髪に口付けた。
「なっ、何をするんですか!?」
真赭は仰け反った。しかし、煌は澄んだ瞳で当たり前のように言った。
「美しきものを愛でただけだが」
さも当然という態度が煌に、真赭は髪に口付けされた恥ずかしさと苛立ちが湧き上がってきた。初めて会ったときに目が合って胸が高鳴ったという事実を抹消したい。こんな男にときめいたのは生涯の恥であり、汚点。
「私は美しきものを愛でただけだが、そなたが不快になったのなら詫びよう」
煌は深々と頭を下げた。貴族だから、人との距離感が平民とは違うのかも、と真赭が納得し謝っているのだから許してやろうと思いかけた時だった。
「私が頭を下げるのは滅多にないから、よく目に焼き付けておくといい」
煌がそう言って、まるで反省していないようだ。真赭は内心、頭かち割ってやろうか…と思うのだった。