表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/21

二十一話

 池はそんなに深くない。立っていれば膝くらいまでしか水位がない。しかし、かぐやは池に落ちた真赭ますほの上に跨るようにのしかかった。暴れる真赭を押さえつけ首を絞めようとしてくる。このまま池に沈める気だ。


 揺れる水面から歪んだかぐやの顔が見えた。


 苦しい。思いっきり水を吸い込んでしまったのか喉も鼻も痛い。暴れようにも、どんどん意識は遠くなっていく。血で真っ赤に染まった海、燃え盛り海へ消えていく船、母の悲鳴。全てが水の中で鮮明に蘇った。


 視界が墨を垂らしたように黒く染まっていく。意識が遠のいているのもあるだろうが、髪の染料が水の中で揉み合っていることで落ちたのだろう。かぐやは池の水が黒く染まっていくのも気にせず、真赭に体重をかけて沈め続けた。


 「何をしている!」


  煌の声が聞こえた。水の中だからくぐもっていたが、それは間違いなく煌の声だった。やっと来てくれたんだと真赭は安堵したと同時に、かぐやに抵抗する手に力が籠った。


 かぐやの腕に爪を立てる。爪が刺さった皮膚から血が水の中へ流れ出る。


 「きゃあ!」


 かぐやが怯んだ隙に真赭は水の中から起き上がった。久しぶりに空気を吸えた。


 「真赭!」


 煌は真赭の名前を叫んで、かぐやを退かした。土の上に転がされるようにして倒れたかぐやは「きゃっ」と小さな悲鳴をあげた。


 「真赭、無事か」


 煌は衣が濡れるのも厭わず、ざぶざぶと水をかき分けながら真赭の元へと辿り着き、力が抜けそうになる真赭を支えるように抱きしめた。かぐやへの抵抗で力を失っていた真赭は、煌が来てくれた安堵で今すぐにでも倒れそうだった。


 真赭と煌が池から上がると白い尼の衣を土で汚して黄土色に染まったかぐやが背中をさすりながら起き上がるところだった。


 「貴様、何をした。なぜここにいる?」


 煌の声は冷たかった。池の水温より低く、凍ってしまいそうな声だった。それでいて鋭利な小刀のようだ。


 「花を届けてくれる下男がね、私が閉じ込められているのが可哀想だからって出してくれたの。今日は大嘗祭だから、私は舞わなきゃ」


 花を届けるという言葉から、その下男がかぐやの輝かんばかりの美貌に虜になってしまっていることは想像がついた。そして、驚くべきことにかぐやの中ではまだ自分は舞姫でいるつもりらしい。


 真赭は咳き込みなら水を吐くと、かぐやに向き直った。


 「あなたは舞姫ではなくなっている。姫としての称号は剥奪された」


 真赭は現実をかぐやに突きつける。かぐやが寺から出て、宮廷までやって来たのは自分がまだ舞姫だと思い込んでいて五節舞を舞うためだったのだ。そもそも悪いことをしているという自覚がなかったかぐやは、自分が舞姫から外されているなんて思いもしなかったのだろう。


 彼女の中では舞姫から外されてるようなことをしていないのだから。かぐやの甘すぎる認識に、呆れるというよりは恐ろしさしか感じなかった。かぐやは自分に都合よく物事を解釈して、自分に幸せな世界の中で生きていくのだろう。


 「真赭の君も、私をいじめるの?」


 かぐやの瞳が潤んで、涙を流した。真赭は先程、かぐやに殺されそうだったことを思い出して鳥肌が立った。かぐやは人殺しをしようとした後も、自分が被害者であることを崩さないのだ。それがどうしようもなく怖い。


 「真赭を池に沈め、殺そうとしたように見えたが?」


 煌はあからさまに嫌悪感を滲ませていた。彼が女性にこのような対応をするのはきっと珍しいだろう。


 「あれは、違いますわ。真赭の君を桃園へ連れて行ってあげようと思ったの。おねえさまが住んでいるところよ。桃が成っていてとても甘いらしいの。きっといいところよ」


 かぐやは純真な瞳を崩さなかった。涙のせいか、瞳が輝いている。


 「そんな戯言を聞きたいのではない」


 煌はかぐやを睨みつけた。しかし、何度聞いてもかぐやは支離滅裂なことしか言わなかった。真赭のことが憎くて殺そうとしたなどとは一言も言わなかった。本当に、かぐやは真赭のことが憎いから殺そうとしたのではないのかもしれない。


 かぐやの中では殺すという認識ではないのだろう。いいところに送ってあげる。あくまでかぐやの中では自分の行いは善行なのだ。きっとまたおねえさまから天啓が来たのだろう。


 煌はかぐやを刺激しない方が得策だと悟ったのか、先程の冷たく責めるような口調から、柔らかく優しい口調に変えてかぐやを落ち着かせようとした。そしてうまく誘導し、警備の武人に引き渡すと尼寺へ送り返し尼寺への警備を増やすように言いつけた。


 「家には、たまにいるのだ。顔は美しいが、人の心というものをはらの中に置いて来てしまう人間がな」


 煌は震える真赭の側にずっといてくれた。それがとても心強かった。全て終わる頃には日が昇っていた。日が真赭に照って赤銅色の髪を輝かせる。染料は殆ど落ちていた。


 ところどころまだら模様のように不恰好に黒が残っているかもしれない。


 「助けてくれてありがとうございました。助けてくれるって信じてました」


 真赭は煌に感謝を伝えた。朝日に照らされ、真赭は煌に笑顔を向ける。きっと明るくなって煌は真赭の髪の変化に気づくだろう。しかし、真赭にもう不安はなかった。煌は真赭を恐れない。そんな確信があった。


 「そなたを助けたのは二度目だな。まったく、なぜそなたはこうも危機に陥るのだ」


 煌は呆れたように、しかし仕方がないとどこか諦めているように呟いた。そして朝日に照らされた真赭の髪に気づいたのだろう。目を見開いて真赭を見つめた。


 「真赭…そなた、笑っている方が可愛いな」


 煌は髪ではなく、真赭の顔について触れた。真赭は拍子抜けした。真っ先に目につくのは赤銅色の髪だろうに。

 

 「いや、違うでしょ! 髪です、髪! 赤いでしょう。私、本当は髪が赤いんです。今まで騙しててすみませんでした」


 「笑顔を褒められたのを照れているのだな。愛い奴め」


 「違いますってば!」


 真赭は煌の態度に調子が狂わされて、叫びも空回りした。謎の疲労感に襲われた真赭はがっくりと肩を落とす。一世一代の告白…くらいには気負っていたのに、煌が話題にするのは髪ではなく顔のことだ。


 「確かに珍しい赤銅色だ。美しいと思うが、それだけだ」


 煌の思った以上に軽い返答に真赭は力が抜けた。

 

 「赤銅色の髪といえば、倭寇の…」


 真赭は自分が罪人の娘だと白状しようとしたが、それは途中で煌に遮られた。


 「ああ、倭寇の頭領の妻! 今は公認海賊として朝廷に仕えているそうだな」


 「え?」


 真赭は煌の言葉に戸惑った。公認海賊として朝廷に仕えている? では、真赭の家族たちは生きているということだ。真赭は何だか安心した。彼らが死んでいたら、寝覚めが悪かった。生きているのなら、いつか会いに行ってもいいかもしれない。今はそう思えた。


 真赭がどれだけ髪についてどう思うか問い詰めても、煌は「美しいと思うぞ」といつも通り返すだけだ。今まで煌に恐れられるかもしれないと思っていたのは、杞憂だったわけだ。


 「あの突然ですが私から提案なんですけど、都落ちする気はありませんか?」


 真赭は勇気を出して聞いてみた。煌は「何を言い出すんだ?」と驚いた顔をしている。


 「血判書を作ったとはいえ、麗扇京みやこにいる限り煌様はうつけのふりをし続けなければならないじゃないですか。きっとまだ煌様を擁立する勢力はあるはずです。だから、月影院げつえいいん様も警戒を解かれなかった」


 真赭は幼さ残る帝を見てから、この不安は大きくなっていた。元服したばかりの帝と、もうしっかり大人な煌とでは勢力が割れてしまうのも無理はないと思ってしまったのだ。


 「それに、私は大嘗祭が終わったら、役目も終わるので天籟島てんらいとうに帰るし…。煌様が一緒に天籟島に来てくれたら…」


 真赭は恥ずかしくなって言葉が続けられなかった。一緒に来てくれたら、きっとすごく嬉しい。


 「そうだな。悪くはないな」


 煌はそう言って頷いた。真赭はその言葉が聞けて飛び上がりそうなくらい嬉しかった。煌は「天籟島にも村同士の諍いはあるが、麗扇京の権力争いにくらべたらましだ」と呟いた。景色は美しいし、食べ物はうまいと続けた。


 真赭は「私の料理、残したくせに美味しかったんですか?」とちょっと意地悪で聞いてみたら、煌は申し訳なさそうな顔をして「毒を警戒していた」と打ち明けた。そして、本当は美味かったからまた食べたいくらいだと言った。真赭は顔がにやけるのを止められなかった。




***




 日に照らされた真赭が眩しく笑う。その笑顔を見て、煌はこの世で最も美しいものの存在を知った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ