十九話
「かぐや様が全部仕組んだことですか? そんなに私たちを呪いたかったんですか?」
真赭は汗の出る手で拳を握った。
「おねえさまがね、私に囁くの」
かぐやは微笑みを崩さずそう言った。かぐやのいうおねえさまはもう死んでいるはずだ。あの骨がかぐやの姉だったのだから。真赭は薄気味悪いものを感じた。
「可哀想なおねえさま。皇后の桜の下に埋めて骨が朽ちて土に混じれば、おねえさまの無念もきっと晴らせたのに」
かぐやは涙を一粒流して、それを袖で拭った。「思ったより早く掘り返されちゃった…」と残念そうに肩を落とす。
「舞姫の邸の井戸に骨を沈めたのも、お姉様のせいだと?」
真赭は恐る恐る尋ねた。かぐやの機嫌を損ねたら何をされるかわからないという空気を感じていた。
「そう! おねえさまの名案なの。ほら、私が一番下手だったじゃない。真赭の君も上手くなっちゃうし…。だからちょっとみなさまにお休みしてもらおうと思って」
真赭はかぐやに優しくされていたのは自分の舞が下手だったから哀れみで優しくされていたのだと気づき、かぐやの優しさが嘘だったのだと悲しみが襲ってきた。
「でも、大嘗祭が終わったら全部桜の下に埋めてしまうはずだったの。みなさまはずっと熱に苦しむことにはならなかったわ」
かぐやは「誤解しないで!」と笑顔で続ける。それがとても恐ろしかった。
「悪いことだとは…思わなかったのですか?」
震える体と声を誤魔化しながら、真赭は尋ねる。
「どうして?」
かぐやは純真な瞳で真赭に尋ね返した。真赭はまさか尋ね返されるとは思わなかったので、答えを用意しておらず狼狽えた。
「みなさまにおやすみしてもらおうっていうのは、おねえさまの案なの。私だって心苦しかったわ。でも仕方がなかったの。だって、おねえさまが仰るんだもの!」
真赭はかぐやの言葉が理解できなかった。まるでおねえさまが生きているかのように語るかぐやの様子は狂気に呑まれた人には見えない。まったくの正気であるように見える。
「かぐや様のおねえさまは亡くなられたのですよね?」
以前、かぐやは真赭に姉について話したときに亡くなっている事実を隠さなかったし、生きていると信じている素振りもなかった。でも今は、かぐやの中に「おねえさま」という存在がいることは確かなようだ。
「白い彼岸花が咲いてから、すべては変わったの!」
かぐやは喜びの声を上げるように叫んだ。白い彼岸花の花言葉は「また会う日を楽しみに」らしい。そこには何も植えていなかったのに、ある日突然白い彼岸花が咲いたそうだ。かぐやはそれを天啓だと受け取った。
それから、夢の中に「おねえさま」が現われるようになったらしい。おねえさまはかぐやの面影を持った天女のような美しさを持っているそうだ。
「私が皇后になって、おねえさまの悲願を成し遂げるの。そのために、仕方がなかったのよ。悪気はなかったわ」
かぐやは涙を潤ませながら、真赭に話しかける。真赭は恐怖と同時に怒りさえ湧いていた。かぐやは優しいのではない。無責任なだけだ。先程から、おねえさま、おねえさま、とまるで自分のやっていることの責任を感じていない。それどころか、悪いこととすら思っていないのではないか。
おねえさまの悲願を叶えるためならば、他の舞姫たちを病気にしても良いと考えるその様は、天女ではなく悪鬼だ。
真赭は猛烈に怒っていた。怒りが恐怖を超えた瞬間だった。かぐやはきっと真赭が煌の邸に滞在していることは知っていても、離れの邸を与えられたことは知らなかったのだろう。
だから、本邸の井戸に骨を入れた。煌が飲んでいたのかもしれないのだ。煌は麗扇京の文化に何も疑問に思っていなかったから、生水を煮沸せずに飲んだだろう。真赭は、麗扇京は水をそのまま飲むなんて知らなかったので、飲み水は煮沸していた。
煌が他の舞姫たちと同じく、謎の高熱に倒れていたかと思うと恐ろしかった。もしかしたら、死んでしまっていたかもしれない。煌も、他の舞姫たちも誰も死んでほしくなかった。嫌味な夕蝉だって欠けてほしくはない。
「あなたは、自分のしたことを本当にわかっていますか? 悪気はなかった…って、それであんな酷いことを!? 死人が出たかもしれないんですよ。今はまだなだけで、これから出るかも」
真赭は叫んでいた。もう体も声も震えてはいなかった。
「おねえさまはそんなことなさらないわ。ちょっとおやすみしていただくだけよ」
かぐやは真赭に誤解されたことが悲しいとでも言うように、口元を袖で覆った。
「やったのは、おねえさまではありません。あなたですよ」
真赭はそう言い捨てると、房室を出た。出た先には煌が待っていた。煌はそっと真赭の手を握り、邸の外へと導いた。邸の外には検非違使が待機していた。
彼らも、卯家が怪しいとたどり着いたのだろう。真赭は煌に付き添われながら、検非違使にかぐやと対面した時のことをすべて話した。そして手荒な真似はしたくないと検非違使は言いながら、静かに邸へ突入して行ったのだった。
***
かぐやは舞姫を辞退することになった。心神喪失と判断され、何かしらの刑罰に処されることはないらしい。ただし、出家して厳しい尼寺に幽閉されるのだそうだ。
骨は陰陽師たちが祓い、廟に戻された。かぐやには怨霊が憑いていたらしいと噂になった。おねえさまが、かぐやが作り出した妄想だったのか、それとも怨霊だったのかは真赭にはわからない。だが、かぐやの中に別個の存在がいたことは確かだろう。
不死桜が枯れた問題は、土壌を神祇官たちが清め、皇后が不在のため現在の女性の最高位である月影院が、破魔の弓を引き矢を放つ儀式を行ったことで今はまた咲き始めている。
謎の高熱に倒れた舞姫たちも、骨が回収され水が清められると徐々に回復していき、大嘗祭の前々日の丑の日である今日、帳台試までには練習に復帰できた。
「復帰日が帳台試当日なのは一生の不覚ですが、伏せっていたからといって、腕が落ちているわけではありません」
不香は軽く体を動かし、固まっていた筋肉をほぐすように腕や足などを揉んでいた。
「事の顛末は聞きました。まさか、かぐやの君が辞退されることになるなんて…」
巴は同じ仲間が、自分たちを蹴落とそうとしていた事実をいまだに受け止めきれていないようだ。私たちは仲間と言い出したのはかぐやなのだから、余計にそう思うのだろう。
「しかし、帳台試に舞姫が四人しか揃わないのは大問題ですわ」
夕蝉が突きつけた現実に誰もが沈んでいた。かぐやはなぜあんなことをしたのだろう。大人しく舞姫を務めてくれたら…皆が、そう思っていることが顔を見ればわかった。しかし、真赭は心神喪失と言われたかぐやの狂気を一瞬でも垣間見た唯一の者として、かぐやが大人しく皆と舞姫を務めることは無理だったのではないかと思わずにはいられなかった。
新嘗祭の場合、舞姫は四人なのだが帝が即位した年の大嘗祭では舞姫は五人になる。これが通常の新嘗祭ならよかったのだが、今回は格式高い特別な大嘗祭である。
本番、三日前に新しい舞姫を迎えることになる。しかも直ぐに、帝がご覧になる帳台試が始まるのだ。新しい舞姫を助けながら舞うしかない。しかも、全体の呼吸を合わせながら。
「ここで悩んでいても仕方がありません。私たちはどんな舞姫が来ても、合わせて舞わねばならない」
不香が覚悟を決めたような声を出した。それは不香自身を鼓舞させるのと同時に周りの士気を上げた。
常寧殿の間に、菜の花が新しい舞姫を引き連れて入ってきた。真赭はその新しい舞姫の顔を見てあっと声を上げた。
「白菊様!」
菜の花に連れられてきた舞姫は白菊だった。白菊は真赭に気づくと、手を振って微笑んだ。
「白菊の君は怪我で辞退したのでは? だから代理で真赭君を送ってきたのではないの」
夕蝉が訝しむように、白菊と真赭を見比べた。最初は真赭の代わりが白菊だったらよかったのにと思ったいたはずだが、今は練習を共にしていない白菊より真赭の方がいいと思っているのだろう。
「急遽、舞姫が欠けたことにより私が選ばれなかった舞姫候補の中から優秀な方を選びました。白菊の君はもう怪我は快癒され、問題なく舞えるということです」
「しかし、一つの家から舞姫が二人も輩出されるなど…異例です」
夕蝉は雲母家だけが舞姫という栄誉を二人も得れることが気に食わないのだろう。真赭としては帰属意識は天籟島にあるので、雲母家の系列に連なる者という意識はなかったが、他の舞姫たちから見ればそうではないのかもしれない。
そういえば、煌の権力で白菊の家に仕える家の娘ということになっていたはずだ…とついさっき思い出した。
「白菊の君を舞姫として採用するなら、代理の真赭の君はもう必要ないはずです。公平に舞姫を選ぶべきです」
夕蝉が抗議の声を上げたが、菜の花は咳払い一つで夕蝉を黙らせた。
「五節舞の成功のため、舞姫を選びました。これまでの練習に参加してきた真赭の君を外すことはありません。私は先程、優秀な方を選んだと申し上げたはずです。かぐやの君が残念ながらあんなことになった以上、白菊の君を舞姫にすることが最善です」
菜の花の言葉は力強く、納得させられる。菜の花が言うなら、それが最善なのだろうと皆に思わせる力があった。
「精一杯舞わせていただきます。皆様が私に合わせる必要はありません。私が皆様に食らいつきます。どうぞ、よろしくお願いします」
白菊は堂々とした出立ちで頭を下げた。真赭は心の中で白菊に拍手を送っていた。舞姫になれなかったことが悔しいと語っていた白菊がこんな形ではあるが、舞姫に選ばれるなんて。そして真赭は白菊が舞う練習を続けていたことを知っていた。真赭の舞を見て、頭で何度も合わせて舞ってきたのだろう。
真赭は白菊と舞えるのが嬉しかった。
「帳台試の前に一度だけ、合わせる時間があります。早速通しでやりましょう」
菜の花が手を叩くと、楽人たちが楽器を構えた。白菊がかぐやの位置につき、舞が始まる。白菊は今まで練習にいなかったと思わせないくらい皆に馴染んでいた。まるで最初から白菊が舞姫だったかのようだった。
皆が、白菊の順応性の高さに感心しているのが手に取るようにわかった。白菊と舞うと、舞いやすいのだ。不香も険しい顔から、少しの微笑みを讃えるほど表情が和らいでいる。
巴は白菊の舞に感心したような視線を向けていたし、夕蝉は文句がつけられなくて少し悔しそうだ。夕蝉に文句を言わせないと言うのは、とても上手な舞だったということだ。
女房の一人が菜の花の元にやってきて耳打ちをした。
「もう直ぐ今上陛下がお越しになります。皆様、位置についてください」
菜の花の指示に先程まで舞っていた真赭たちは慌てて位置についた。
帳台試は常寧殿の西塗籠の内帳台の上に長筵を敷き、その上に舞姫の座を敷き、その前にそれぞれ白木の灯台1本を立て、東の帳台の西南角に幔を引いて小哥(歌を歌う人)の座、北庇塗籠のうちを大師の局とし、大哥(歌を歌う人)は同殿東の仮座に候し、殿内の四隅に舞姫の休息所である五節所を設ける。
時になれば舞姫は玄輝門に参入し、車を下りてから公卿が束帯してこれに従い、各自定められた五節所に入る。舞姫たちはそれぞれの家紋が印の車に乗り込んだ。
舞姫の参入の由を聞いて帝に直衣指貫に沓をはき、清涼殿東庇北の階下から、承香殿の西南隅に仮に架けた長橋、承香殿南簀子、同馬道后町廊、常寧殿馬道その他の順路を経て大師の局に入り、殿上の侍臣が脂燭に候し、近習の公卿が両3人供奉する。
舞姫一人ごとに火取を持つ童女、茵を持つ童女一人、几帳三本を持つ下仕および理髪の女房を先立てて舞殿にはいり来て、舞姫らは茵に座し北向し、西を上にして並び座す。ついで大哥が后町廊の辺に座し、大哥、小哥が発声し、舞が始まる。
真赭は頭の中で今日の流れを組み立ていた。大丈夫、と自分に言い聞かせる。
「今上陛下のおなぁりー」
女官の声が聞こえて、真赭は気を引き締めた。真赭は自分付きの童女と女房たちを引き連れて常寧殿に向かった。帝が座す方向には、倚子に一人のまだ少年とも言うべき齢の人が座っていた。
真赭は息を飲む。癖のない直毛はぬばたまの如き美しさで、何故か煌の髪を思いださせた。そしてその瞳は、月影院と同じく水晶のように澄んでいて、琥珀の中に翠や碧が散っている。
その瞳は星の散った夜空のようでもあり、鮮やかな朝の光の様でもあった。この人は真理を見通すかもしれない。そう思える様な凄みがあった。
大哥、小哥が歌を始め、楽器の音色が響きだす。真赭たちは扇を構え、舞の一歩目を踏んだ。




