表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/21

十一話

 次の全体練習が常寧殿じょうねいでんで行われる日、真赭ますほの足取りは重かった。白菊しらぎくに助言は受けたものの、完全に裳裾さばきを物にしたかといえば、全然だった。


 足に神経を使って、裳裾を踏まないように気をつければ気をつけるほど、調子が狂って真赭一人だけが振り付けからずれていった。


 「音を止めなさい!」


 大師である菜の花(なのはな)が、楽人たちに叫んだ。ぴたり、と雅楽の音色が止まる。


 「真赭の君、あなただけ遅れていますよ。もう一度、最初から合わせましょう。最初の位置に戻ってください」


 一斉に真赭に視線が集まる。夕蝉ゆうぜみが嘲るように微笑んだのを、視界の端に捉えた真赭は自分の不甲斐なさと恥ずかしさで顔が赤くなった。


 また音楽が流れ始める。五節舞は序・破・急の三部構成である。静かな序から始まり、動きがやや大きくなる破、音が早くなる急。所作は左右対称を意識しなければならない。


 「音を止めて! 真赭の君、足ばかりに気が向いて手が疎かですよ。桧扇はもっと優雅に持ってください」


 菜の花からの鋭い指摘が飛んでくる。真赭はまた自分のせいで全体での通し練習が中断されたことを申し訳なく思った。


 真赭がもともと踊っていた海神の舞は扇や鈴などの道具を必要としなかった。身体一つで表現するものだ。ただでさえ慣れない足捌きに加えて、桧扇の所作まで加わって真赭の頭は混乱していた。


 「無骨な猪が、優雅なくぐいにはなれませんわ」


 扇で口元を隠しながら、夕蝉はそう言った。周りの姫たちもここにいるのが代理の真赭ではなく、本来の白菊だったなら…と思っていることが痛いほど伝わってきた。




***




 「大嘗祭まで時間がありません。早く舞姫を辞退なさい」


 大師や楽人たちが退出した後の房室に響いたのは、真赭に向けられた不香ふきょうからの厳しい言葉だった。


 「白菊の君があなたを代理として認めたことがはなはだ疑問です」


 不香は冷たく真赭を見つめた。真赭は口内の唾液が乾いてからからになっていくのを感じた。


 「不香の君、まだ練習は始まったばかりなのだし、そんなこと…」


 かぐやが真赭を庇おうとしたが、不香は冷めた目でかぐやを見つめた。その一瞬で、不香の中でかぐやの評価が落ちていることがわかった。


 真赭はかぐやが自分を庇うことで、他の舞姫と溝ができてしまうことを申し訳なく思った。申し訳なくて辛いから、放っておいて欲しかった。


 「ここは舞の素人がそれなりの実力を得る場所ではなく、舞の名手が最上の舞を披露するために更に努力を重ねる場所です」


 不香の言葉は正論だった。正論が暴力のように真赭に降りかかる。真赭は波に飲まれて流されて鼻や耳に塩水が入って痛いような心地がしていた。


 同じ「舞」という言葉が使われてはいるが、天籟島てんらいとうの土壌で生まれ育った海神の舞と、宮廷で育まれてきた五節舞は、根本から違うものだった。五節舞に関して、真赭は素人同然だ。


 なぜ、海神の舞を舞ってきた巫女見習いの自負だけで真赭は舞姫をやっていけると思い込んでいたのだろう。自分の浅慮が嫌いだし、真赭を選んでくれたあきらや認めてくれた白菊しらぎくの顔が浮かんできて胸が痛んだ。


 「不香の君…あまり強く言いすぎるのも…」


 まるで自分が言われているかのように怯えていたともえがおずおずと口を開いた。しかし、その言葉は続くことはなく不香のひと睨みで消えていってしまった。


 「真赭の君に合わせた、まるで児戯のような練度の低い五節舞を披露するなら、それは舞姫全員の恥です。もしそんなことになれば、母上に合わせる顔がないので、私は大戯楼ぶたいの高台から飛び下りて死にます」


 不香の覚悟は壮絶なものだった。白菊の「煌と結婚するくらいなら懐刀で喉を突いて死ぬ」という言葉を思い出した。姫たちは誇りと共に生きてきたのだ。そこには真赭とは違う価値観があり、真赭とは違う覚悟で舞姫を務めるのだろう。


 真赭は代理だから、まだ心が軽い方なのだろう。不香も、巴も家を背負っている。かぐやだって家の他に自分の恋心と姉の想いまで背負っている。夕蝉も、真赭が知らないだけで何かを背負っているのだろう。


 「不香の君、そんな脅しなんて…」


 かぐやが顔を真っ青にして不香の言葉を撤回させようとした。真赭にとって不香の言葉が、圧力になるのを防ぎたかったのだろう。そして、冗談でも死を仄めかす言い方が好きではないのかも知れなかった。


 しかし、真赭だけは不香の言葉が冗談ではないことを強く感じていた。「私は私の大事な人を傷つけた人たちのために、舞いたくありません!」かつて自分が叫んだ言葉が蘇ってきた。そうだ、あの時だって真赭は自分の命を賭けたのだ。


 「私は本気です。真赭の君がこのまま足を引っ張り続けるのであれば、私はきっと高台から身を投げる運命でしょうね」


 不香は真赭を睨みつけるように笑った。


 「ごめんなさい…」


 真赭は俯きながら、謝罪の言葉を口にしていた。真赭が弱ったところを見逃さずに、不香が鋭い言葉を投げかける。


 「それは、自分が足手纏いであると認めたということでよろしいのでしょうか」


 傷口に塩を塗り込まれているようだった。


 「確かに、今は足手纏いです。でも、必ず舞姫として相応しくなりますから」


 涙を堪えて、真赭は気丈に顔を上げた。


 「私は、早く辞退して代わりの舞姫を立てた方が良いとは思いますけれど」


 不香の言葉は冷たかった。その様子をいい気味とでも笑うように夕蝉が微笑んでいた。巴は今すぐこの場から消え去りたいと思っているような、居心地の悪そうな顔をしている。かぐやだけが心配そうに真赭の顔を見ていた。




***




 真赭はまた白菊の邸にお邪魔した。白菊は真赭の切羽詰まった表情を見て、慶帝伝を勧めている場合ではないと悟ったようだ。すぐさま、舞の練習を見てくれることになった。


 「…では大師からは、裳裾捌きと桧扇捌きを指摘されたのね。両方を同時に上達させようとすると、頭が混乱するからまずは裳裾捌きから練習しましょう」


 白菊は真面目に、真赭の練習過程を組んでくれた。その時の上達具合ですぐに練習を組み直せるような仕組みだ。


 裳裾捌き、すり足は、床に擦れる足の音を出さずに優雅に舞うことができるようにしなければならなかった。そして、大師が用意してくれた足捌きの位置を記した紙の写しをもらい、それを床に広げて何度も何度も繰り返し、振り付けを体に叩き込んだ。


 それは白菊の邸から煌の邸に帰ってからも練習を続けた。日が落ちても目が慣れて、そこに次の足の置き場があると確信できるほどに振り付けを身体に馴染ませた。


 足の皮が擦り切れるんじゃないかというくらいに繰り返す。体が痛みで悲鳴を上げ始めても、真赭は練習を続けた。今までの舞とは使う筋肉が違ったので筋肉痛にも悩まされる。


 しかし、不香の言葉が何度も蘇ってきては、真赭を鼓舞するように背を押した。真赭の失敗が、舞姫全員の失敗になるようなことにはしたくなかった。


 月が雲に隠れた夜だった。しかし、真赭は灯りをつけることも忘れて、一心不乱に舞った。暗闇に慣れた瞳は、昼間と同等とまではいかないが物の形を映すほどには見えていた。


 その時、菊の花を意匠した台座の燈台の油に火が灯された。眩しすぎて、真赭は目を細めた。灯りに目が慣れてくると、そこには狩衣姿の煌がいることがわかった。彼が火を灯してくれたのだろう。


 「暗闇の中、舞っていれば転倒した時、危ないぞ」


 煌の衣は、真赭が最後に見た煌の姿と変わっていなかった。着替えていないのだろう。何処かで泊まったことが一目でわかったし、彼のものではない甘い香が漂っていた。それが女の邸宅に泊まったことを示していて、真赭は眉をひそめた。


 「慣れていれば暗闇でも大して怖くありません。練習に集中したいので、何処かに行ってくださいませんか?」


 思ったより声が冷たくなってしまったと真赭は思った。でも、女の邸宅から帰宅してすぐにその香りを纏いながらまるで見せつけるようにして現れた煌に対して、怒りが湧いていた。


 「そなた、私がいると集中が乱されるのか? 無理もない。私は絶世の美男子だからな」


 煌は優雅に笑った。自画自賛している様子に、無性に腹が立った。


 「早く何処かへ行ってください。私は舞姫の務めを果たさなければならないですから」


 「そなた、一瞬たりとも休んでいないと召使いから報告を受けている。そろそろ、休め」


 最後の煌の言葉は、貴族らしく命令し慣れているようだった。


 「休んでる暇なんて無いんです。放っておいてください」


 思わず叫んでいた。煌は真赭にこれほど反発されると思っていなかったのか、驚いたように目を見開いている。真赭に、というよりは今まで人から肯定されて育ってきたから、自分の言葉を素直に聞き入れない真赭という存在に驚いているように見えた。なんて傲慢なのだろう。


 「何をそんなに焦っているのだ?」


 煌の問いに、真赭は怒りが爆発しそうだった。何を焦っているかだって? 焦るに決まっている。真赭は自分で思ったよりも舞が上手くなかったことを突きつけられているのだから。他の舞姫たちに笑われ、辞退しろと迫られ。そんな状態で焦るなというのは無理に近い。


 舞は真赭にとって全てだったのに。その()()のせいで、真赭は苦しめられている。


 「あなたに何がわかるんですか! 何日も遊び歩いているくせに!」


 空気が冷えた。あっ…と真赭が後悔した時にはもう遅かった。無礼なことを言ってしまった。煌は一瞬、感情がなくなったように氷のように冷えた表情を浮かべたが瞬きしている間に、いつもの胡散臭い笑顔に戻っていた。


 「確かにな! 私のような()()()に言われたくはないだろう」


 煌はくっくっく…と声を押し殺すように笑った。子供のように無邪気な笑い方だったが、「うつけ」と自分を卑下する様は何だか自信満々な彼らしくないと思った。


 「だが、遊び歩いているが良いことも多少はある。様々な舞い手の舞を見たりもできる。私も多少は舞ができるぞ。男舞だがな」


 そうして、煌は舞ってみせた。五節舞とは違うが、美しく、その足捌きは参考になった。煌が真赭の舞を褒めたのは、彼の美的感覚による直感だけではなくて、舞の知識もあるのだと知る。


 「そなた、明日は予定を空けておけ」


 煌はまた命令するような口調でそう言った。明日は常寧殿での全体練習は無いので、白菊のところへ行ってまた舞の指導をしてもらうつもりでいた。しかし、先程煌を静かに怒らせてしまったという確信があった真赭は大人しく従っておくことにした。


 「何があるのでしょうか」


 真赭が尋ねると、煌はげんなりした顔をした。その表情のおかげで真赭にだって楽しい予定では無いことが想像できた。


 「月影院げつえいいんがお呼びだ」


 何を言われているのか、真赭はわからなかった。一拍置いて事態が飲み込めてくる。


 「えっ、えぇぇぇぇぇ!?」


 絶叫する他、なかった。煌が説明するには、秋次あきつぐが月影院に真赭の後ろ盾となってくれるように頼んだらしい。そして月影院は真赭に直接会うことを望んだ。


 「そなたの後見人として、私も共に行かねばならない。だが、私はあの御方が苦手だ」


 煌でも苦手な人がいるんだと真赭は驚いた。月影院──出家した皇太后。帝の生母であり出家してなお文化的・儀礼的に影響力を持っている人らしい。


 「煌様にも苦手な人っているんですね。そんなに怖い御方なのですか。月影院様は」


 真赭は顔から血の気が引いて真っ青になっていくのがわかった。


 「私にも苦手な人くらいいる。そなたは私を何だと思っているのだ。月影院は、掴みどころの無い人だ。私はいつもあの御方の掌の上で滑稽に踊っているだけなんじゃ無いかと思うことがある」


 「そ…そんなに怖い人なんですね」


 煌の言葉に真赭はごくりと唾を飲み込んだ。煌の弱いところが垣間見えた気がして、人間臭さを感じた。


 「あの御方にとって、私はあまり良い存在では無いからな」


 ぽつりとつぶやかれた煌の言葉が引っ掛かった。


 「それはどうしてですか?」


 真赭が尋ねると、煌は真赭を見つめ返した。そして顔を近づける。


 「そんなに私のことが気になるか?」


 煌の顔は愉快に笑っていた。真赭をからかおうという算段なのだろう。


 「そりゃあ、意味ありげに呟かれたら、気にもなりますよ」


 真赭は負けじと見つめ返した。煌が髪に口付けるようなことをしてくるかもしれないので、牽制の意味を込めて。


 「私が賜った官職、式部卿は式部省の長官だ。式部卿は親王が任じられることもある役職だ」


 真赭は最初、煌がそんなすごい役職についていることを自慢しているのかと思った。しかし、煌の瞳を見れば自慢するどころか、むしろ厭っているのでは無いかという気がした。


 「私は皇族の血を引いている。一部の貴族からは今の帝より、私の方が正当な血筋だと持ち上げる者もいてな。実際に親王宣下をされたわけでは無いが、私を擁立しようとした動きがあったことは事実だ」


 煌の横顔は寂しそうだった。


 「だから、あなたは女好きの酒池肉林、唯我独尊、くそ野郎のうつけを演じていたんですか?」


 「……そなた、ただ()()()というだけでいいのに、罵倒を増やしたな」


 煌はため息を吐くように笑った。自分が真赭にとってそこまでうつけを演じることができていたのなら上々だとでもいうように。


 「臣籍降下して、遊び呆けて、うつけのふりをすれば、私を帝に…なんて馬鹿げた考えをするものもいなくなるだろうと思ったのだ」


 煌は幼少期から、権力争いに巻き込まれる立場にいた。それを憂慮した母親が、煌を守るために母方の親戚の雲母きらら家に預け、白菊と共に育てられたらしい。


 「月影院にとって、私は自分の息子の地位を脅かす存在なのだ。どんなにうつけを演じようともあの御方には全て見透かされている気がする。だからこそ、いまだに警戒を解かないのだろう」


 誰かに敵視されることが当たり前の人生は悲しい気がした。煌は本当に帝という地位には興味がないのだろう。だからこそ、自分が振り回されている状況に反抗しているのだ。


 「明日、月影院様にはっきり言いましょう。私は皇位には興味がないです。って! 秋次先生が言ってました。ちゃんと話し合わないと駄目だって」


 真赭は拳を握って、力説した。すると、煌は驚いたような表情をした後、微笑んだ。その微笑みには胡散臭さは感じられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ