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一話

 ざざーん、ざざーん、と波が押し寄せては還る。不吉な空色をしていた。波が浜に押し寄せ、白い泡を残し去っていく。黒い岩肌に苔が生えていた。

 潮の臭いに混じり、かすかに鉄錆のような血の臭いがしていた。黒々とした岩が続くだけだった海岸に、血が染みた布切れが見えた。


 その様子を見た漁師の男は、ゆっくりとその布切れに近づく。昨日は激しい嵐だった。漂流物が流れ着くのも珍しくなく、運が良ければ商船の貴重な商品が流れ着くこともあった。


 男は布切れに手を伸ばす。


 「ひっ」


 思わず、悲鳴が漏れた。布切れだと思っていたのは女物の衣で、青白い生気のない肌の女が岩に引っかかるように倒れていた。蝋のように白い肌に、閉じた瞳。触ってみるとひんやり冷たい。


 「死体だ…恐ろしや!」


 男は手を合わせて、念仏を唱えながらゆっくりゆっくりと後ずさる。漂流した物を横取りしてやろうという邪な思いが仏に見透かされていないか不安になりながら。


 何より、恐ろしかったのは女の海藻のようにぺったりと肌に張り付いている髪の色だ。赤銅色の髪は、この天籟てんらい島どころかこの島が属する皇国すめらぎのくにでさえ、見ない色だ。


 その時、恐ろしい髪の色と同じく赤いまつ毛で彩られた瞼が開いた。ぎょろり、とその瞳に見つめられたとき男は腰を抜かして倒れ込んだ。


 「来るな、来るなぁ!」


 死体の目が開いた。そしてゆっくり起きあがろうとしている。


 「おい、どうした。何かあったか!」


 松明を掲げた村人の影を見て、男は安堵の息を吐いた。先程、漏らした小便は海水が攫って行ってくれた。


 「死体が、目を開けたんだ」


 男は叫ぶ。村人たちが、駆け寄り先程目が開いた女の死体を照らした。女はもう上半身を起こしていた。火の灯りによって禍々しく女の髪の赤は映った。

 

 女は辺りを見渡し茫洋とした瞳で村人たちを見つめた。よく見れば、まだ女の匂いに乏しい成長途中の少女である。


 「お前は何者だ? なぜ、生き返った」


 松明を掲げた村人の一人が恐る恐る話しかける。しかし、少女の瞳は虚空を見つめその他の何も映していないように見えた。そこへ、ゆっくりと砂を踏み締めるようにして歩く足音が聞こえてきた。


 その足音の正体は白髪を後ろで色とりどりの玉の飾りで纏めた老婆だった。杖を付き、両脇にはお供をするように女たちが控えている。


 「巫女様!」


 村人の一人が安堵したように老婆を呼んだ。


 「嫌な気配がしてみれば、漂流者がいたとは」


 皺だらけの老婆の顔は顰めたことにより、余計に皺が寄った。松明に照らされ、漂流者の女の髪が赤いことを嫌でも認識させられる。


 「こんな赤い髪、恐ろしいです。九尾の狐が化けているのではないですか? 赤毛の狐は嘘つきで人を騙しますよ」


 村人の一人が巫女の老婆に訴えかける。巫女の老婆は口をもごもごと動かし、口内の唾液の音をさせた。それが何かしらの祝詞を呟いているのだと気づくのに村人たちは時間がかかった。


 「そこの娘、言葉はわかるか」


 巫女の老婆は赤銅色の髪の女に話しかける。女は屍のように動かずじっと突っ立っていたが、ゆっくりと頷いた。それまで蝋で作った人形が立っているように思えた。


 「神域の洞窟にその娘を連れてくるが良い。そこで、この娘が凶か否かを占う」


 かつん、と老婆は杖を岩に打ち鳴らした。村人たちの空気が引き締まる。老婆がついて来いと言うと、女は黙って歩き始めた。言葉がわかると言うのは本当のようだ。


 村人たちはしばらく、女が歩く様を信じられないと言う様子で眺めていた。しかし、一人また一人と巫女の老婆の後に続き、ぞろぞろと歩き始めた。


 神域の洞窟には、巫女とそのお供の女たち、そして流れ着いた赤銅色の髪の女以外は立ち入ることを許されなかった。村人たちは洞窟の入り口の前で固まって、赤銅色の髪の女が洞窟の奥へと消えていくのを見守った。


 洞窟の奥には祭壇がある。篝火が焚かれていて、岩壁を妖しく照らしていた。巫女の老婆は艶やかな石、珊瑚や貝殻といったものを賽のように盤上に投げ入れた。そして、女の顔を見た。


 「この島に災厄を運んでくる存在ではなさそうだ。むしろ、生き返ったのだから海神のご加護があるのやもしれぬ。おぬし、名は何という。何処から来た?」


 老婆は女の目を見つめた。そこで初めて女は口を開いた。


 「わから…ない。何処から来たのか、名前すら」


 女の言葉に、老婆は難しい顔をした。


 「記憶が無いのか。難儀なことだな。なら、私が名をつけよう。真名を思い出したら、捨てるなり何なりして何処へなりとも行くがいい」


 老婆は少し思案した後、天啓が舞い降りたように名前を呟いた。


 「真赭ますほ、はどうだろう」


 老婆は真赭の髪を見ながら、丁度いいと呟いた。


 「ますほ…ますほ…」


 真赭は自分の名前を繰り返し呟いて、飲み込んでいるように思えた。真赭──それが新たな名前であり、真っ白で何もない記憶の中に新しく芽生えたものだった。




***




 天籟島てんらいとうには海に迫り出すように崖があり、その崖の上こそが海神を祀る斎庭だった。四方をしめ縄で囲われた檜の舞台があった。そこで島の巫女は海神に捧げる神楽を舞うのだ。


 波が荒れぬように、海の幸が取れるように。人の命を奪わぬように。そんな願いを込めながら、巫女は舞う。白地の胴衣と裙、表衣は絹の白衣を纏い、潮風を受けながら勾玉の首飾りをしゃらしゃらと鳴らしていた。


 風に靡く髪は黒いが、光を受けると僅かに赤みを帯び根元は赤銅色に見えなくもない。


 「真赭」


 しゃがれた老婆の声が、真赭を呼んだ。真赭は舞うのをやめ、振り返る。真赭の視線の先には、天籟島の巫女の老婆、ウキがいた。


 「そろそろ、終わりにしなさい。夜明けからずっと舞っているだろう。疲れが溜まれば舞の精度も落ちる」


 かつん、と杖を打ち鳴らす。真赭は舞台から降りるとウキの側に駆け寄った。ウキは身寄りのない真赭に名前と居場所を与えてくれた。

 真赭は巫女見習いに志願し、ウキの身の回りの世話から舞の手解きまで受けている。天籟島に馴染もうと、赤銅色の髪は胡桃を砕いたもので黒く染めた。

 赤い髪は、皆に恐れられ子供が泣き出すほどだった。ただでさえ、流れついた死体だったのが生き返ったと噂され、海神の娘と畏怖と憧憬を集める存在なのだ。


 髪を染めることは誰から強制されたわけではない。真赭なりに天籟島に馴染もうと自ら行ったことだ。しかし、本当の黒髪とは違い、胡桃の染料が褪せてくると光の加減で赤く見えてしまうため、こまめに染め直さなくてはならなかった。


 真赭が髪を隠すことに、ウキは何も言わなかった。


 「ウキさん! でも、漁には朝早くから出るから波が荒れないように、私が舞わなきゃって思って…」


 真赭は息の上がった真っ赤な顔で肩を上下させていた。その様子に、ウキは顔を顰める。


 「真赭、お前の舞には光るものがあるが、少し舞っただけで息が上がっているようではまだまだだよ。朝餉にしよう」


 ウキは杖をつきながら巫女の住む、家に足を向けた。巫女の家は石垣の壁で囲い、赤い瓦の屋根の木造建築である。入り口には魔除けの神獣を模った獅子の二対の置物が出迎えてくれる。


 朝餉は雑穀の粥と慈姑や山芋を煮汁をよく吸わせて煮たものが並べられた。慈姑は、ほろ苦さの中にほんのりとした甘みがあり、ホクホクとした食感が美味い。

 山芋は濃厚で粘りが強く、風味が豊かで甘い。口の中で咀嚼するたびに、染み込んだ煮汁が飛び出て口内を満たす。そこに雑穀の粥をかき込めば、雑穀の香ばしい味が混ざっていく。


 「お前は本当に美味そうに食べるね、真赭」

 

 ウキは目を細めて微笑みながら、真赭の顔を眺めた。


 「本当ですか? ちょっと照れるなぁ。何だか、前は芋とか雑穀とか食べられなかった気がして…」


 真赭の何気ない呟きに、ウキは目を見開いた。


 「記憶を思い出したのかい?」


 「いや、思い出したわけじゃなくて、何となくそんな気がするというか…」


 真赭は食べる手を止めて、椀の底に沈んだ雑穀を箸で摘んだり離したりを繰り返した。思い出したのかと問われれば微妙なところだ。鮮明に記憶が蘇ったわけではなく、食べられなかったという感覚があるだけだ。


 「あっ、そういえば。ウキさん。私、ちょっと思い出した…とまではいかないんですけど、考えたことがあって」


 ウキは真赭の話を静かに聞いてくれた。


 「私、舞を踊って跳躍している時だけは何だか安心するんです。動きを何百、何千と繰り返して目が回って天と地がどちらかわからないくらいに舞を踊り続ける時だけは、安心するんです」


 「それが、お前が体を酷使してまで舞う理由か?」


 ウキは咎めるような視線を真赭に向けた。


 「…それもあります」


 真赭は居た堪れないように小声で呟いた。ウキは真赭にとって恩人であり、師匠であり、祖母のようでもあった。


 「体が宙に浮いている不安定な時だけ、私は安心するんです。むしろ、陸にいると船酔いみたいになるというか。舟に乗っている方が楽なんです。それで、私は舟の中で生まれ育ったんじゃないかって考えました」


 舟は常に揺れている。もし、舟の中で生まれ育ったという仮説が本当なら、真赭は揺れていることが当たり前として慣れてしまい、揺れてない陸だと逆に不思議な気分になるのではないか。

 だからこそ、体を動かし、跳躍し、舞うことで舟の中にいる時の状態に近い体にすることができるのに安心するのではないか。


 「舟…か。まあ、海から来たのだ。島から島へ流れ着いたと考えるには、少し現実味がない。舟に乗っていたと考えるのが妥当かもしれないな」


 ウキは真赭の考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴はせずに、頷いてくれた。でも、真赭の不安は消えなかった。初めて会った時、ウキは「真名を思い出したら、何処へなりとも行くがいい」と言った。


 つまり、記憶を思い出したら天籟島から追い出されるのではないか。ずっとそんな不安が付き纏う。真赭は天籟島にとって異邦人だ。だからこそ、真赭は舞う。この島に必要とされたくて。舞うことこそが、真赭にとっての存在証明だ。


 朝餉を食べ終え、ウキは村人たちから祈祷の依頼があったのでそちらに向かい、真赭は家の掃除をすることにした。床を拭き清め、玄関を掃き、祭具の点検をした。


 少し時間が空いたので、真赭は吸い寄せられるように崖上の舞台に来ていた。ここは波の音がよく聞こえる。少しだけ…と言い訳をして、真赭は舞台に上がった。


 潮風と波の音。それは真赭に安寧を齎す。しかし、水だけは真赭を苦しめる。運良く天籟島に流れ着いた真赭だが、きっと海に落ちて溺れたのだろう。

 真赭は水を見ると恐怖に襲われた。胸が締め付けられる。洗顔のために水を張った桶に顔をつけるのさえ怖くて、いつも手巾に水を含ませて顔を拭いていた。


 島の子供達は、海で泳ぐ達人だ。しかし、真赭がそこに混ざることはない。髪の胡桃を砕いたものが取れてしまうというのもあるが、水場に近づくだけで体が震えるのだ。


 風に身を任せるように、ふわりと真赭は舞った。指先から足の先まで、神経を尖らせる。そうすることで、舞を通して神と一体になれる気がした。ここにいても良いという赦しを与えられたような。




***




 舞に夢中で、真赭は蹄の音に気が付かなかった。立派な黒馬に跨った狩衣姿の男が、崖上の舞台を見つめていた。ぬばたまの黒髪、黒曜石の如き瞳。端正な顔立ちをした青年だった。


 「あれは何という」


 男は天籟島を案内させていた村人に尋ねる。


 「あれは海神を祀る斎庭にございます」


 緊張した面持ちで村人は説明する。麗扇京みやこからやってきた貴族の男。しかも、それなりの偉い官職を賜っているらしいという事前情報から、緊張してしまうのも無理はなかった。


 「違う。あそこで舞っている()()は何だ?」


 男は尊大な態度で指差した。村人は少し躊躇ったあとに、口を開いた。


 「巫女見習いの娘にございます」


 「ほう」


 男は感嘆のため息を漏らした。そして面白そうなものを見るように目を輝かせ、無意識に口角が上がっている。


 「面白いものを見た。巫女とやらの元へ案内しろ」


 男は満足そうに笑う。手綱を軽く引き、馬が嘶いた。

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