後編 旅の終わり
次の日、開口一番ルークは「ごめん」と言った。私も同じ言葉を返した。二人の間のぎこちなさはしばらく残っていたが、日を重ねるごとに薄れていった。
あれ以来、ルークは私への恋情を一度も口には出さなかったし、私もまたルークの恋情を煽る真似はしなかった。部屋は完全に分け、触れ合いも最小限。表面上はただの保護者と子供――その役割を貫いたのだ。
時折、ルークが私を見て苦しげに眉を寄せるものの、あの時の二の舞を恐れているのか、黙って目を伏せるばかりだった。
そして、瞬く間に時は過ぎ、目的の星へ降りる日がやってきた。もうほとんど聞こえないスピーカーから、船が星の周回軌道に乗ったと連絡が入る。
この機械音声も、あと何度聞けるだろう。全てのものには終わりが来るとわかってはいるけれど、少しでも先になって欲しいと思うのは我儘だろうか。
「ルーク、そろそろ降りる準備をしてね。……ルーク?」
さっきまでダイニングにいたはずのルークの姿がない。嫌な予感が走り抜け、第二区画に向かって駆ける。
案の定、ルークはそこにいた。最初とは見違えるほど立派になった手足を踏ん張って、閉ざされた白いドアをこじ開けようとしている。
「ルーク! 何をやってるの!」
悲鳴を上げ、体に追い縋るがビクともしない。いつの間に、こんなに力がついたのだろう。
ああ、そうだ。地球人の血を引いているとはいえ、ルークは外星人との混血。体の成長も普通より早いに違いない。そんな単純なことに、今になって気づくなんて。
「やめて! やめて、ルーク!」
艦内に響き渡る破壊音がして、白いドアが開放された。歪んだ蝶番を起点にぶらぶらと揺れる木片の向こうで、ヘッドギアをつけた住人が静かに横たわっている。この騒ぎなんて聞こえていないみたいに。
ルークは私の手を振り払うと、空間を飛び越えるように住人に近づいた。そして、おもむろに掛け布団に手をかけて一息に剥ぎ取った。
ああ、やめて。私の秘密を暴かないで。
「これが住人だって? もう死んでいるじゃないか」
声なき悲鳴が喉から漏れた。掛け布団に隠されていたもの。それは機械に繋げられた生きる死体だった。
全身はミイラみたいに萎び、大小様々な管が無理やり脳と心臓を動かしている。ヘッドギアの向こう。電子データの狭間で二度と覚めない夢を見たまま。
――そう。この世界はすでに滅んでいる。それでも、現実を認めたくなかった。存在理由が欲しかった。送り人の職務を全うすること。それが、私が造られた理由だから。
見送る人が全ていなくなった時、私は用済みになる。この船も終わりを迎える。
私は怖かった。広い世界で生きることを夢見ながら、目的のない世界に放り出されることが。仮初の地球に逃げ込んだまま戻らなかった、かつての住人たちのように。
私は欠陥品だ。ロボット三原則を組み込んだ心は、とうの昔に壊れてしまった。アンドロイドとしてあるまじき思いを抱き、何十年もずっと死者を冒涜していたのだ。安らかな眠りなんて、この船には存在しなかった。
へなへなと足の力が抜け、その場に蹲る。もし人であったなら、嗚咽を漏らしていただろう。けれど、がらんどうの喉からは何も出てきやしなかった。
「やめて……。死んでない……。死んでないの……。みんなはただ眠っているだけなの……」
「そうだな。機械に繋がれて、ただ脳を保管されているだけの夢見るお人形だ。こんなの、生きているって言わないよ。命っていうのはもっと……熱を感じるもんだ」
床に跪いたルークが私に手を差し伸べる。まだ発展途上の小さな手。それでも、その手には確かな熱が宿っている。住人たちにはない、温かな体温が。
「なあ、俺と一緒に行こうよ。この人たちを弔って、赤い花を……サザンカを供えよう。佐藤さんに渡せなかった分もさ」
甘い甘い言葉が私の耳をくすぐる。この手を取るべきか、取らざるべきか。取れば職務を捨てる代わりに、ルークと新しい世界に進める。取らなければ職務を全うできる代わりに永遠に船に囚われる。
私は一体どうすればいいの? 私の顔を見下ろすルークの黒い目を見つめ返した時、船が大きく揺れた。
『メーデー! メーデー! 動力部に重大な損傷! 船体を維持できません! 当機は墜落します! 住人は至急脱出ポッドに搭乗下さい!』
断末魔みたいなノイズが走り、スピーカーが完全に沈黙した。住人たちと同じく、騙し騙し動かしていたこの船にも、ついに寿命が訪れたのだ。
咄嗟にルークの手を取り、最下層に走る。そこには棺――脱出ポッドがある。こういう事態になって初めて本来の役割を果たせるとは皮肉なものだ。
「乗って、ルーク! 星の周回軌道上にいるから、そのまま着陸できるわ! 翻訳機と端末を渡しておくから、どうか素敵な家族を見つけてね」
嫌がるルークを無理やりポッドに乗せ、耳から外したイヤリングと、ポケットから取り出したスマホ型端末を渡す。ルークはひどく顔を青ざめたまま、震える手で私の手首を掴んだ。
「行くならサザンカも一緒だ! 俺だけ生き延びるなんて嫌だよ」
「いいのよ、私、アンドロイドだから、最初から生きてないの。この肌の下を流れているのは、人間とは似ても似つかない白い血なのよ」
無理やりポッドの蓋を閉め、ハッチを開ける。あとは何もしなくても自動的に外に射出してくれる。
眼下に広がるのは、サザンカのような赤い星。色を除けば地球と似ているが、文明レベルは桁違いだ。あそこなら、ルークも差別されずに生きていけるだろう。たとえ私が居なくとも――。
「サザンカ!」
くぐもったルークの声。同時に崩れた天井が落ちてくる。そこで私の意識はぶつんと途切れた。
暗闇の中を歩いている。いつから歩いているのかはわからない。気づけばここに立っていて、何かに突き動かされるように足を動かしていた。
明かりがないのに、不思議と何かにぶつかる気配はない。――いや、最初から何もないのかもしれない。この機械の体のように、死の香りが漂う宇宙空間のように、空虚な闇だけが広がっている。
あの船での生活も似たようなものだった。佐藤さんを見送ってからの、えも言われぬ絶望感。やがて来る終わりに怯え、それでも前に進むしかなかった日々。開けても開けても真っ暗なカーテンの向こうから、眩い明かりを照らしてくれたのはたった一人の少年だった。
ルーク。私が拾い、育て、そして突き放した子供。今頃、素敵な家族を見つけているだろうか。こんな愚かなアンドロイドのことなんて忘れて、新しい恋をしているだろうか。
不意に、唇に柔らかな感触が蘇ってその場に足を止めた。いくら限りなく人間に近いとはいえ、この身は模造品。けれど、あの時――空っぽの胸の中に何かが宿った気がした。とうに壊れた心が熱を帯びたような……。
『……カ!』
声が聞こえる。少し掠れた、声変わり中の少年の声が。どうして? 脱出ポッドで星に降りたはずじゃなかったのか。もしかして幻聴? ルークを想うあまり、耳まで壊れてしまったのだろうか。
「ルーク?」
恐る恐る名前を口に出す。もう二度と呼ぶことはないと思っていた名前を。すると、それに呼応するように、背後から声が響いた。
『サザンカ!』
その声は、今まで聞いたどんな声よりも力強く聞こえた。
「サザンカ!」
ふっと瞼を開ける。真っ先に目に入ったのは真白い天井。そして、見慣れた黒い髪から伸びる二本の巻き角。その耳には私があげたイヤリングが揺れている。まるでサザンカのような赤い石が。
「サザンカ、サザンカ。俺を見て。俺が誰だかわかる?」
「ルーク……どうして? ここはどこ? 私、壊れたはずじゃ?」
泣き笑いのような笑みを浮かべて私を抱きしめるルークの背後から、何かがひょこっと顔を出した。
体は巨大な白兎みたいだが、その目は人間によく似た一つ目だ。青色の術着らしきものを着て、私とルークを見下ろしている。U38星人――ルークを託そうと思っていた星の住人だ。
U38星人は、墜落した船から燃え残った私の体を回収し、新しい機体に電脳を載せ替えたのだと語った。
「ごめんねえ。あんたの体、ほとんど壊れちまってたもんだから、総取っ替えしたんだわさ。何しろ、とうの昔に廃番になった機体だから部品がなくてさあ。ああ、安心しな。顔の作りは一緒だよ。この子の記憶を読ませてもらってねえ。できる限り再現したさあ」
はい、と鏡を手渡される。首元に齧り付いたままのルークを優しく引き剥がそうとして、今までとは比べものにならないぐらい動きがスムーズだと気づいた。さすが飛び抜けて優れた文明を持つ星。こんなの、まるで人間と変わらないじゃないか。
「ルーク、離れてよ。鏡を見たいの」
「嫌だ。もう離れない」
何度言っても聞かないので、ルークを引き剥がすのを諦め、右手で背中を撫でながら、左手で手鏡を掲げる。
「私、こんなに可愛かったっけ?」
鏡の中で、黒い髪と黒い目をした少女が目尻に皺を寄せて笑った。
ルークの記憶の中のサザンカは、誰よりも可愛い女の子でした。
最後までお読み頂きましてありがとうございます。
船が墜落した場所には、いずれサザンカの花が咲き乱れるでしょう。
↓以下人物まとめ
サザンカ
個体番号EーLUNEA28。女性型アンドロイド。機械の体だが、人工皮膚に包まれており、見た目も感触も人間と変わらない。人間を守り、死者を弔うようプログラムされていたが、佐藤さんの死をきっかけに自我が芽生え、本分を超えて住人の命を繋ぎ止め続けていた。星に着陸後はルークの番になり、人工子宮で子供ももうけ、送り人としての職務を全うした。
ルーク
サザンカに惚れた十二歳。狐の店主にはよろしくないことを教え込まれた模様。実は最初にデータベースを見た時からサザンカの秘密には気づいていた。サザンカは失念していたが、外星人との混血児なので、体力だけでなく知能も人間より発達が早い。子供みたいに振る舞っていたのは、サザンカに構ってもらいたいがため。星に着陸した後は、サザンカの番として幸せな一生を送った。
佐藤さん
サザンカを造った研究者の子孫。サザンカを一人残すことが忍びなくて、仮想現実に逃げずに生き続けていた。最先端技術で寿命を無理やり引き延ばしていたので、百年以上は生きていたはず。『笑ってごらんよ』はサザンカに自我が目覚める前にかけた言葉。佐藤さんが亡くなってから、ルークと出会うまでは数十年以上の時が流れている。