中編 船での生活
本来、船には外星の生き物を乗せてはいけない。生態系を狂わせる可能性があるからだ。けれど、今さら少年を放り出すわけにもいかず、念入りにチェックをした上で船内に招いた。
「第二区画には行かないでね。この船の住人が眠っているから」
私の言葉を理解しているのかいないのか、少年はきょろきょろと船内を見渡している。
消毒はしたけど、まずはお風呂に入れないと。子供用の服なんて残ってたっけ? ああ、ご飯も作らなきゃ。慌てて市場で食材を買い込んだけど、料理なんて久しくしていないから、上手くできるかな……。
「……俺は何をすればいいの」
掠れた声に足を止める。それが少年から発せられたものだと理解するのに少し時間がかかった。だって、人間と会話するなんて佐藤さん以来だから。
「特に何も。船は自動運転だし、掃除も洗濯も専用のロボットがするし……。調理ロボットはだいぶ前に壊れちゃったから、私がするけど」
「じゃあ、一緒のベッドに寝ればいいの」
「え? どうして一緒に寝るの? 寂しいの?」
「寂しいのはあんたなんじゃないの。見たところ、この船、若い男はいないみたいだし」
何だか話が噛み合ってない。首を捻りつつ少年の言葉を頭の中で反芻する。やがて、それが性行為を意味すると気づき、私は頭を抱えた。
「そんなことしなくていい。あなたはこの船でのんびりしていればいいのよ。二ヶ月後には、もっと文明が進んだ星に降りるから、そこでちゃんとした保護者を見つけてあげる」
「また売られるってこと?」
「売るんじゃないのよ。あなたを幸せにしてくれる家族を探すって言ってるの」
「あんたじゃ駄目なの」
まっすぐな瞳に何も言えなくなる。私には少年の家族になる資格なんてない。この両手は死者を送り出すためのもの。子供を育てるためのものではないのだ。
「私じゃ力不足よ。あなたにはもっと素敵な家族が待っているわ」
不服そうな顔をした少年を促して廊下を進む。長い時を経た船内はところどころ内壁が剥がれて見窄らしく見えた。
「ほら、ここが浴室よ。入り方はわかる?」
少年がこくりと頷く。少なくとも最低限の教育はされているようだ。少年が入浴している間に、料理に取りかかる。相手が佐藤さんなら和食一択だけど、子供だしなあ。
買い込んだ食材は地球でいうニンジン、玉ねぎ、牛肉……。そうだ、カレー。カレーにしよう。日本人はみんなカレーが好きだとデータベースで見たことがある。
いきなり香辛料のきついものを食べさせたら胃によくないかもしれないけど、せっかく奴隷生活から解放されたのだから、少しでも喜ぶものを作ってあげたい。幸いにも食欲はありそうだし、様子を見ながら食べさせれば大丈夫だろう。
「えーと……。まずは材料を切って……」
カレールーの箱のレシピ通りに作っているうちに、少年が浴室から出てきた。洗い立ての長い髪からシャンプーのいい匂いが漂う。しっとりと濡れた黒髪。黒曜石のような瞳を縁取る長いまつ毛。さっきは薄汚れていてわからなかったが、少年は美少年と呼ばれる類だった。
「うわ、いい匂い」
少年は目を輝かせると、倉庫から引っ張り出してきたばかりのダイニングチェアに座った。毛先から散った雫が床に落ちる。せっかく保護したのに風邪を引かれると困る。細い首にかけたタオルを拝借して髪の毛の水分を拭うと、少年は気持ちよさそうに目を細めた。
「あんた、優しいんだな。買われてラッキー」
「そう思ってもらえたら嬉しいけど……。あなた名前は?」
「ルーク。お前は金のなる木だからって。前の名前は忘れた」
ひどい。今からでもあの狐店主の横っ面を殴ってやりたい。内心歯噛みする私をよそに、少年は上機嫌で鼻歌を歌っている。
少年は十二歳。物心ついた時から、あの星で母親と共に暮らしていたという。父親は少年が生まれる前に亡くなったそうだが、予想通り日本人の血を引いていたらしい。
地球最後の日、この船以外にも宇宙に飛び出して行った船はたくさんあった。連絡が途絶えて久しいが、そのうちの一つがあの星に不時着したのかもしれない。
「母さんが死んで、あの狐野郎に捕まえられた時はもう駄目だと思ったけど、生きてりゃいいこともあるもんだな。こんな美味そうな飯食えるなんて何年ぶりだろう」
「たくさん食べて……と言いたいところだけど、お腹がびっくりしちゃうから程々にね。気に入ったらまた作ってあげるから」
「やった! ……そういえば、あんたの名前は?」
一瞬言葉に詰まる。私には佐藤さんやルークみたいな名前はない。苦し紛れに「サザンカ」と名乗った。佐藤さんが好きだった赤い花の名前だ。ルークは「変な名前」と笑ったが、それ以上は聞かずにスプーンを手に取った。
「うまっ。何だ、これ。初めて食べた」
「カレーって言うの。ああ、ほら、がっつかないで。誰もとったりしないから」
汚れた頬をティッシュで拭いながら独りごちる。食事のマナーを再教育するのは骨が折れそうだ。何が楽しいのか、少年が大きく肩を揺らす。ダイニングに笑い声が響いたのは数十年ぶりのことだった。
それから、私たちの奇妙な生活が始まった。まるで家族のように共に寝起きし、共に食卓につき、共に船内を回る。初日に説明した通り、住人たちが眠る第二区画だけには立ち入らせらなかったが、それ以外は自由にさせていた。
ルークは賢い少年だった。ひと月も経てば船に残された本はあらかた読み終えてしまったし、簡単な計算なら計算機を使わなくても暗算できるようになっていた。
長かった髪も切り、綺麗な服を着せたルークは上流階級の子供みたいだった。言うまでもないが、肉体関係はない。ルークがあまりにもごねるので同じベッドで眠るのは了承したが、それ以上のことは決して許さなかった。
たまに夜中に目を覚ました時、こっそり頬にキスをしていることはあったけど……。それぐらいは親愛の情だと目を瞑った。もしルークが私に保護者以上の感情を抱いていたとしても、別れの日は容赦なく訪れる。
残り一ヶ月。色褪せたカレンダーにバツをつけていると、ダイニングチェアの上で足をぶらぶらさせていたルークが「あのさ」と声を上げた。
「この船、本当に人がいるの? 俺が来てから、サザンカ以外の姿を一度も見てないんだけど。地球人って一ヶ月も飲まず食わずで生きられるもん?」
「いるわよ。みんな眠っているだけ。起きなくても大丈夫なのは、生命維持装置が動いているからよ。時が来れば目を覚ますわ」
「それっていつ?」
「地球に似た星に辿り着いた時」
その可能性はほとんど低いが、希望は捨ててはいけない。それまで私は粛々と仕事をこなすべきだ。尋ねてきた割に、ルークは「ふーん」と興味なさそうに呟き、ダイニングテーブルの上に身を乗り出した。
「でも、それってまだまだ先の話だろ。俺がいなくなったら寂しくない?」
「寂しくないわよ、ずっと一人だったもの」
「嘘だよ。俺の前にもいただろ。誰だっけ、佐藤さんって人」
サインペンを走らせる手が止まった。今聞いた言葉が信じられなくて、油が切れた機械の如くぎこちなく振り向く。
「どうして、その名前を知っているの?」
「船のデータベースを見た。情報が膨大すぎて、まだ一部しか見られてないけど」
思わず唇を噛む。ルークの成長度合いを甘く見ていた。使い方を教えずとも、アクセスできるようになっているとは。機密事項にはパスワードをかけているけれど、もし突破されたら私の秘密が知られてしまう。
送り人は死に触れる仕事。前時代では差別や偏見があったと聞く。佐藤さんも、よく私を憐れんでいた。『こんな仕事を君に負わせるなんて』と悲しそうな目で。
だから、ルークには船の運行を管理する仕事だと伝えていた。本当ではないが、嘘でもない。住人を全て見送るまで船を維持するのも私の役目だから。
「それ以上、データベースにはアクセスしないで。あなたが知っていても仕方ないことよ」
「どうしてだよ。もっとこの船について詳しくなれば、俺もサザンカの仕事を手伝えるだろ」
「気持ちは嬉しいけど、そんなことしなくていいの。あとひと月もすれば新しい家族の元で幸せに暮らすのよ。こんなうらぶれた船のことなんて、すぐに忘れるわ」
サインペンを置き、ルークの頭に手を伸ばす。我儘を言う子供を宥めるように。けれど、ルークは私の手を振り払うと、「嫌だ!」と叫んだ。
「俺はこれからもサザンカと一緒にいたいんだ。今はまだ子供でも、五年もすればサザンカより大きくなる。力だって強くなるし、サザンカのことを守ってあげられる。だから、俺をこの船に置いてよ。きっと役に立つから」
「駄目。そんなの駄目よ。あなたをこんなところに縛りつけるわけにはいかないわ」
「なら、俺と一緒に船を降りようよ。サザンカだって、本当は船を降りたいと思ってるんだろ?」
図星だった。だけど、とても頷けない問いだった。肯定すれば最後。私の存在理由が揺らいでしまう。
私の動揺に気づいたのか、ルークは席を立つと一息に距離を詰めてきた。しなやかな肉食獣のように素早く、目に獰猛な光をたたえて。
「俺、サザンカが好きだ。俺の家族に……番になってよ。サザンカも俺がいた方が楽しいだろ?」
「何を言っているの? 私には仕事があるの! そんなの無理……」
最後まで言い終わるよりも早く、ダイニングテーブルの上に押し倒された。そのまま唇を塞がれる。焼けるように熱くて濡れた感触。息継ぎの合間に切なく漏れる吐息。何? こんなの知らない。
混乱する頭の中で、私は激しく憎んだ。この子にこんなことを教えた奴らを。ルークの想いに応えられない自分を。
「やめてったら!」
いくら男の子でも、今は私に分がある。テーブルに縫い留められた腕を無理やり動かしてルークを突き飛ばす。
「私があなたを保護した理由は同情よ! 自分と姿形の似た子供が困っていたから放っておけなかった。ただそれだけ。特別な感情なんてないわ。現に、私一度も笑ってないでしょ!」
ルークは傷ついた顔をした。空っぽの胸が酷く痛む。どうして? 私の心なんて、もうとっくに壊れているのに。
「今日から別々に寝ましょう。あなたは好きな部屋を使って」
返事は待たない。そのまま小さな体を押し除けてダイニングを飛び出す。ルークは追いかけて来なかった。頬を伝う液体が涙だということには、あとで気づいた。