第十八章灰かぶり姫・混乱【下】
すみませんちょっと色々(主に土下座とか土下座とか)あるのですが今は失礼しますーーーーーっ!!
隈を消すため、薄く、白みがかったクリームを塗ってもらいながら、カーペットの上にじかにすわりこんだまま、私は一昨日の夜の話をアナマリア様にした。
具体的なことは避けたけれど、兄様が何か危ないことに関わっていて、そして、口をはさんでしまったこと。そうして、私が手を出そうとすることが、兄様の迷惑になってしまうかもしれないという可能性。そして、「必要ない」と言われた事で、止めなくてはいけなかった兄様を、止められなかったこと。
一昨日の夜、一睡も出来ずに目を開けて、朝食を用意しようと階段を下りて。何も考えずに朝食の準備をし終えて。お母様のぶんの朝食に、兄様のを並べようとしたとき、お母様に思いっきり不思議そうな顔をされた。
『ちょっと、なんであの子の分まで用意しているのよ』
『?え?』
『仕事で三日だか四日だか、出かけるといっていたわよ』
『え…?』
私には一言も言わず、兄様は家を出てしまった後だった。日帰り、って言っていたのに。それも、いつの間にか、変わっていた。
後悔した。落ち込んでいる暇があるなら、どれだけ嫌がられてもいいから、きちんと話して、できるなら止めなければいけなかったのに、と。
…ちなみに、話している途中で、私の首元を見たアナマリア様が硬直し、物凄い勢いでそれはナニ!と問い詰められて、鏡を見てみたら、首元に鬱血した痕が赤くのこっていて、ああ、兄様が…と言ったところで絶叫したアナマリア様が何故か再び扉に走りかけたりもしたのだが、ともかく。
「だから、兄様は悪くないんです」
「何が“だから”なのかわかんないわっ。充分!ひどいこと言ってるように聞こえるわ」
何となく怒られそうな予感がしたので、具体的な台詞は言わないように、「必要ない」、と言われたとだけ言ったのだけれど…ひどい?
「酷くは、ないと思います。私が、ちゃんと…」
「やせ我慢、じゃないそんなのっ。どうして嫌わないのよ」
むっと顔をしかめたまま、言われた言葉に、小さく目を見開く。嫌う?兄様を?そんなこと。
「…ありえ、ません」
「何故よっ」
何故って。だって。
「だって私、知ってます…知っているんです」
「―――何をよ?」
一瞬だけ、とても驚いたように目を見張って、そして、響いた声は少し怒っているようだったけれど、目は酷く真っ直ぐで、真摯だった。だからこそ、答えを固めることができた。
そうだ、ちゃんと、解っていたはずなのに。私が、自分の痛みでいっぱいいっぱいで、目を向けられなかったこと。兄様は、
「兄様が…私を、どうでも、いいって、要らないって思っていても、兄様は、自分のことを好きな人を、わざと、傷つけるようなことは、しません…っ」
そう、兄様はとてもとても優しい人だから。本当の本当に、私のことを「要らない」と思っていても、私が兄様を好きなら、あんな風には言わない。わざわざああいう言い方をしたのも、ああいうことをしたのも、意味があるに決まっているのに。
「私、兄様のこと、なんにもわかってない。勝手な、ことばかり…っ」
あんな優しい人が、ただ、自分の不快感のためだけに、他人を拒絶するわけがないのに。なのに、きちんと話も聞かないで。私は、自分のことで落ち込むことよりも、すべきことがあったはずなのに。
「…酷いこと言われて、怒ってはいないの?」
情けなくへしゃげた声に、アナマリア様の声がかかる。まだ目は真っ赤だったし、声はぐずついていたけれど、落ち着いて、静かな声だった。
「…いいえ。ただ、…あれが本心だったら、って思うと、怖くて」
全部が、あの冷たい態度が兄様だとは思わない。けれど、疎んじている気持ちもまた本当だったらと思うと、身がすくむ。
「スィリスは、レイがすきなのね?」
「はい。好きです」
「…それは、家族として?それとも、恋人としての好き?」
当たり前にした返事に返ったのは、思いもかけなかった言葉だった。
「恋人と、して……?」
「ええ、そうよ」
好き?私が、兄様を?そんこと、知らない。わからない。だって、今まで考えたこともなかった。
「わか、りません。…知らないんです」
「…もしかして、初恋もまだなの?」
「はい」
私にとって、もし結婚をすることがあるのなら、それは義務であるはずだった。父様も兄様も、あえて強要することは多分ないけれど、カークランドの家に有益な人と、縁をつくる必要が出てきたのなら、その下に嫁ぐのだろう、とそう思っていた。
もしかしたら、夫となる人に好意や愛情を持つことができるかもしれないし、その努力はするつもりだけれど、それはあくまで結婚をした後の話だと思っていた。それに、…兄様は、兄様だと思ってきたし。
「…どういう、気持ちなのでしょうか…?アナマリア様は、…お好きな方は、おられますか?」
「…っ…い、いるわよ。悪いのっ!?」
「?いいえ。…アナマリア様のお好きな方は、レスト様ですか?」
「は?」
アナマリア様はレスト様をとても慕っていらっしゃるようだから、と思ったからだけれど、アナマリア様の顔は思いっきり怪訝そうに歪んだ。あれ?
「何でお兄様が出てくるのよ。確かにお兄様は素晴らしい方だし、心から尊敬しているし、お慕いしているし、ヘンな人が花嫁としてきたら全力でいびるけど」
(いびるんだ…)
心のなかでひっそりつっこみつつも、アナマリア様が真面目な顔をしているので静かに聞く。
「お兄様はお兄様よ。好きなのは、別だわ」
(あ……)
好きなのは、と言ったとき、アナマリア様の目が変わった。先ほどのように、酷く真摯な色が焦げ茶色の目に宿る。
「……どのような、方ですか?」
知りたいと、思った。この年下の可愛らしい、薔薇のつぼみのようなお姫様の好きな人がどんな人か。たった一人に向ける、「好き」という感情とは、どういうものか。
「――――情けない男よ」
「はい?」
思いがけない言葉に、声が思いっきり裏返る。えーと、確かアナマリア様は、嫌いな人の話ではなくて、好きな人の話をしていたはずなのだけれど。
だけど、微塵の容赦もない批評は、怒涛のように続く。
「情けなくて気弱でおまけに後ろ向きで、レイのように軽やかで人懐っこくもないし、兄様のように気高くもないししかもわたくしのことを子ども扱いするのよっ!?淑女に向かって失礼極まりないわ!」
…えーと、もしかして、聞かないほうがよかったのだろうか。けれど、表情豊かな方の表情は、また揺れる。
「…でも。わたくしのこと、とても優しく呼ぶのよ」
それは、とてもとても甘く、まっすぐで、そうして優しい表情。
「物凄く、どきどきするのよ。それが、好きってことなのよっ」
すぐに、照れたような真っ赤な顔になってしまったけれど、そう、「好き」と言うのは、こういうものなのだと、
「…ありがとう、ございます。アナマリア様。……なんとなく、ですけれど、“好き”がわかった気がします」
「レイは、違う?」
今度は頷けなくて、でも、首を振ることもしなかった。それは、もっとちゃんと考えるべきことなのだと思う。…たとえ、気付いた瞬間に失恋することになっても。
「――――――じゃあ、お兄様は?」
「え?」
「お兄様は、好き?恋人として」
「…レスト様、は…」
…何故ここでレスト様が。けれど、アナマリア様の表情は変わらず真剣だった。
レスト様は、心から尊敬しているし、素敵な方なのだと心から思う。お仕事をこなす横顔は凛々しくて、さぞ貴族のお姫様方にも人気が…それ以前に。
「…アナマリア様、例として、私とレスト様ってそもそも物凄くつりあわないですよ?容姿的にも能力的にも家柄的に…」
「僕がなんだって?」
「え?いえですからレスト様にも選ぶ権利はあるかと…って……っ」
涼しげな声に答えかけて、けれど止まった言葉と同時に、アナマリア様が思いっきり絶叫した。
「お兄様ぁあーーーーー!!??」
「…耳が痛いから、叫ぶのはよしなよ、アナマリア?」
呆れたように肩をすくめる、先ほどお別れしたはずのレスト様の姿に、我ながらビシっと音がしそうなほどに固まる。
「は、はい…。あ、あのお兄様、どうしてこちらにっ!?」
「ああ、ちょっと野暮用でね。スィリス」
「っあ、はい!」
声をかけられれば、顔をそむけるなんて無礼な真似をするわけにもいかずに気まずい。物凄く、気まずい。むしろ、問答無用で謝ってしまいたいような気すらする。けれど、その現実逃避は、唇をなぞった温かな感触に遮られた。
「え…?」
真っ直ぐに見上げた先、私の唇をなぞったもの…レスト様の指先が、ゆっくりと離れていく。親指の腹にのこる、うっすらとした紅色。
(なに…?)
首をかしげるよりはやく、中途半端に膝に置いたままだった掌に、とん、と平べったいケースが落とされる。…金色の、蔦が絡まるような円型のそれを半ば無意識に開けると、紅色の柔らかい色彩が詰まっている。それは、レスト様の指についた色彩と同じ。
(……口紅…?)
どうして、と聞こうとして上げた目を、向けられたレスト様の笑顔に奪われた。普段の大人びた、落ち着いた笑顔とは違う、自慢そうで、そして何故か酷く…寂しそうな笑顔。
けれど、それはすぐに掻き消えて、からかう様な、少し意地の悪い笑顔に入れ替わる。
「うん。ちょっとはましな顔になったんじゃない?」
「ええ、と…」
「それ、あげるよ。近衛が、城下で流行ってるんですよー、とか言って、お土産にーとか買ってきたんだけど、僕にどうしろっていうんだろうねあの馬鹿は」
……口調的に、オーベールさんのような気がする。と言うか、絶対にそうだろう。そして、本当に申し訳ないけれど、こればかりは庇えない。
「でもまぁ、君になら似合うだろうから?」
オーベールさん、なんでレスト様に、よりにもよって口紅買って来るんですか…?お花もお菓子もまだ、喜ぶ男性はいると思うけれど、口紅って…って、そうではなくて。
「い、いただけません、レスト様」
慌てて、口紅のケースを閉じて、レスト様に差し出した。
口紅自体は一般的なものでも、これはケースの手の込みようから見て、それなり以上に高価なものだろう。何の理由もなしに、はいそうですか、と受け取るわけにはいかない。
けれど、にこり、と笑ったレスト様の笑顔に、腕が中途半端な位置で静止する。
「へえ?僕からの贈り物は受け取れない、か。いい度胸だね?」
…………わー黒い。何で私の周囲の人は皆さん笑顔が怖いのだろうか。
顔面を強ばらせる私を見て、アナマリア様が不思議そうに目を瞬く。
「何よ、スィリス。いただけばいいじゃない。似合ってると思うのだけど、嫌いな色なの?」
「えっ、いっ…いいえ、ちがっ」
「じゃあ問題ないよね?」
「いえ、ですからこんなものをいただく理由が…」
「Le bleu est une couleur de la sagesse.」
「え?」
「Le blanc est une couleur de la vérité. Le noir est une couleur de l'affection.」
流れるように発せられるそれは、ツェトラウス古語に伝わる6色の格言。Le bleu est une couleur de la sagesse.青は叡智の色。Le blanc est une couleur de la vérité.白は真実の色。Le noir est une couleur de l'affection.…青、白、黒、黄色、緑、そして…。
「…っ……」
「君に足りなくて、僕には有り余る色だ。だから分けてあげるよ」
レスト様が、笑う。紅茶色の目で。紅玉の瞳で。酷く、強い目で。
(……ああ)
「……はい、いただきます」
一つ、強く頷く私に、レスト様は小さく笑って、アナマリア様の肩を軽く叩いて踵を返した。
「それじゃあね。さっさと帰りなよ」
「あっ…あの、レスト様!」
「何?」
「ありがとうございます」
「――――次までにはその目の下、なおして来るんだね」
そっけない言葉を、それでも穏やかに言って出て行く人に、私は精一杯背筋を伸ばして、「はい」と答えて頭を下げた。
もう、迷わない。自分に宣言するように、分けていただいた、掌の中のレスト様の「色」を強く握り締める。
「Le rouge est une couleur du courage.紅は、勇気の色」
後ろ手に扉を閉めて、何とはなしに見下ろした指先。そこに残った薄紅色。そうして、触れた熱。……僕らしくもない。
レイ・カークランドには迷いなく与えられた「好き」。僕に向けられた、「つりあわない」、の言葉
『殿下、あの子頼めますか?一応護衛置いていきますけど、流石に国外からまで、メンドーなことやってられないので』
『……構わないのかな?あれ程、スィリスの傍を離れなかったくせにね?』
『ねぇ殿下、教えてあげましょうか?…俺はね、気紛れなんですよ』
『大事だったものが、次の瞬間カミクズ程の価値もなくなる』
『……彼女も、そうだって?』
『さぁ、どうでしょう?』
肩越しに振り向いて笑った、厭味ったらしいほど整った明るい笑顔と、先ほどの、寝不足全開のぎこちない、それでも心からの笑顔が重なる。
「…………あの、嘘つきめ」