第十六章 灰かぶり姫・亀裂【下】
もう、どうお詫びすればいいのやら。…ごめんなさいぃぃぃぃい…。
親戚の阿呆な言葉から(ちなみにそいつらはありとあらゆる手段を使って、カークランドの館に足を踏み入れられないようにしたけど)、自分の母親が、自分と父を捨てて出て行ったことを知り、徐々に性格を変化させていっていたスィリスが、母さんが半ば意地になってつけたあだ名、「シンデレラ」を受け入れ、そう呼ばれることを望んだのは、俺が初等学校を卒業する一年前のことだった。
無邪気で素直で、どちらかといえば人にくっついているのが好きな子どもではなく、大人びて、冷静で、しっかりものの女の子に。
あまり、泣かないように。人に頼らないように。甘えないように、一人で立てるように。父に、母さんに、クローディアに、…俺に、嫌われてしまわないように。
けれど、胸の中の、愚かなほどの優しさを残したままで。
「スィリス、勉強してるの?偉いね」
「…っ!お兄様…」
机に向かって文字を練習するスィリスが、最近あまり浮かべてくれなくなった無邪気な笑顔だったから、声をかけたのだけど、スィリスはびくりと肩を震わせた後、ノートを後ろ手に隠して、困ったように眉根を寄せた。
理由の一つは、俺がスィリスを名前で呼んだこと。スィリスが名前で呼ばれたがらない理由は薄々わかってるけど、「シンデレラ(灰かぶり)」なんて名前で大事な子を呼びたくないのでさらりと流している。―――ちなみにつけた母さんも、まさか受け入れられるとは思ってなかったらしくあからさまに動揺してたし、ディアは反論はしなかったけど、むすっと唇を尖らせていた。
そしてもう一つは、多分、勉強してる内容を知られたくなかったから。…以前からどこかの言葉を勉強してるのは知ってたけど、スィリスにしては珍しいことに、「魔法のことば…父様との約束だから」と、しょんぼりとしながらも教えてくれなかった。多分、今回もその言葉だろう。どうやら、「魔法の言葉だから、人にはけして話さないで」、とでも約束してるみたいだ。
まぁ、隠そうとしてるものを無理矢理見るほど、俺も悪趣味じゃない。
…場合によるけど。テッド君の告白練習帳とか、ポエム日記とか音読したこともあったかなー。だってスィリスに悪口言い過ぎるし、反応大きくて面白くてつい。
「…お帰りなさい。…あ、の…」
「ただいま。ねぇ、のど渇いちゃったんだけど、お茶につきあ……」
「?お兄様?」
「…………ううん。何でも。それで、お茶、付き合ってくれるかな?」
「はいっ。淹れてきますね」
待っててください、と駆け出していくスィリスの胸元に抱えられたカメリアの教本。その中に刻まれた文字。「je suis,es,est,sommes …」。
侯爵家に…国の中枢にあったとき、垣間見たことのある程度の、…けれど見間違えるはずのない、機密といえる言葉。
それは、ツェトラウス古語。西域最古にして、その全ての語の基となる言葉。そして、知ることそのものが罪となる言葉だった。
「で、何考えてんですかアナタは」
「なにっ何の話っ?ってちょっ、レイ君っレイ君首しまってる首っ。おとーさんの首は今、未曾有の危機に瀕しているよっ!?」
「心が痛んでしょーがないですからとっとと吐いて下さい。何でスィリスにツェトラウス古語なんて、危険なものを教えてるんです」
カークランド会長が、スィリスに言葉を教えていることは知っていたけど、まさかそれがツェトラウス古語だとはね。
言った途端に、カークランド会長から一瞬表情が消える。それから、それまでのおちゃらけた態度とは別人のように、穏やかな、そして何かに納得したような笑みがその顔に浮かんだ。
それは、アベル・カークランド。王都組合会でも筆頭格であるカークランド家を率いるこの人の、当主としての顔だ。
表情の変化を確認してから、肩をすくめて、ぎりぎりと締め上げていた首根っこを離す。
「――――そうか。きみは、侯爵家のご子息だったね」
「違いますよ。今は」
さっくりと切り捨てる俺に、カークランド会長は一瞬目を見開いて、それから小さく笑った。
「かっこいいなぁ、レイ君は」
「どーも。それで、何故ですか?あなたなら、知っていても罪にはならない。だけど、スィリスは違います。何より、ツェトラウス古語は王家の言葉。一般庶民が知っても、益どころか害にしかなりません」
「…初めは、偶然だったよ。それに、あの子があまりにも、一生懸命に学ぶから」
特に、最近は…と続いた言葉に、苛立ちを感じた。
「あの子がツェトラウス古語に執着する理由を、あなたはわかってる筈です」
あの愚かで馬鹿で脳みそを明後日方向に埋め立ててあげようか、という親戚達の言葉を聞いたから。自分の父を捨てた人間に、自分がそっくりだとわかったから。それでも、彼に嫌われたくなかったから。
ツェトラウス古語を通してしか、父親に…彼に受け入れてもらえないから。
吐き捨てた言葉に、カークランド会長は苦しそうに顔をゆがめ、けれど、何も言わない。…まさか、
「―――――あなたはまさか、あなたを捨てたあの子の母親にあの子が似ているから、あの子を厭っているんですか?あの馬鹿げた噂は、真実ですか」
「…違うよ。あの子がシャルロッテに似ているのは本当だけれど、だからって、嫌えるわけがないだろう?あの子は僕の、愛しい娘なんだから」
なら、どうして。
「だけどね、…正直、どう、触れ合えばいいのか、解らないんだ」
「――――それは」
「すまないね、レイ君。だけど、言えないんだ。僕の弱さだ。許してほしい。感傷だとわかっていても、僕は、妻がいたころから習慣だったあの言葉を通してでなくては、もう、触れ合い方がわからない。…わからなく、なってしまった」
言って、カークランド会長は掌で顔を覆った。
…何か、あるのだろう。奥方が彼を捨てて逃げただけでは、なかったのだろうか。…だけど、それは俺には、そしてスィリスにも、関係ない。
「…謝るべきは俺にじゃない。スィリスにです」
「――――うん。わかっているよ」
「…あの子の無事を、約束できるんですか?」
「…僕はもう、喪いたくはないからね」
この人なら、あの子を守れるだろうという無責任な信頼。俺もまた、あの子を守れるのだという過信。
だからそれは、起こり得るべくして起こったことだった。
あの日のことを思い出すとき、記憶は常に断片的だ。
帰ってきても迎えに出てこなかった妹。日が沈みかけても戻らない少女。母さんとディアにはごまかしたまま、手下を走らせた人。
そうしてカークランド会長のもとに届いた手下からの報せ。蒼白に染まった彼の顔。路地裏に残されたカメリアの教本。呼び止める人の声を聞かずに、駆け出した体にまとわりついたねっとりとした夜風。
そう、あれは、夏だった。
拉致された少女の名前はスィリス・カークランド。目的は、彼女の持つ知識。
何故、と思った。万一、彼女がその言葉の練習をするのを見られたとしても、一般の人間にわかるはずなどないのに。それこそ、高位の貴族でもなければ。
蘇るのは、胸が抉られるような焦燥。後ろ手に縛れられ、腕を裂かれて血を流し、力なく項垂れた妹の姿。白刃を振り上げたままこちらを振り返った男の、怒りと怯えに歪んだ醜い顔。
ああ、と思った。見覚えのある顔だった。それと同時に、カークランド会長が俺を呼び止めたのかも。
ああ、おれ、また血縁を殺すのか。
「…っレイ…」
「―――俺の妹の前から今すぐ消えなよ。あの下種のところにでもさ」
人を殺すことを、怖いと感じたことはない。けれど、いらなかった。もう二度と、行使することはないと思っていた力だった。なのに、一瞬たりとも躊躇った記憶は、なかった。
感情の消えた化け物じみた声。顔にばしゃりとかかった血の感触。抱えあげた、意識を失った小さな体。駆け込んできたカークランド会長の、絶望に染まった顔。
そして、飛ぶ記憶。
「何故、あなたの勝手な感傷にあの子を巻き込んだんです!」
「あなたなら、他にやり様はあった筈だ!」
最悪の行動だった。守りきれなかった自分自身を受け入れられずに、無様に喚いて。あの子が傷つけつかられた理由の一端を、担っていたくせに。
誰に言われなくてもわかっていたのに。あの男は、俺を付け回す過程でスィリスの能力に気付き、そして、目をつけて利用したのだと。
それでも、あの人は一度も俺に言い訳をしなかった。ただ、すまない、と頭を下げた。あっさりと謝るあの人のずるさも、露になった俺の餓鬼さにも。
そして、おれもあの人も、最も簡単で、卑怯な手を選んだ。
ぼんやりと目をあけた子は、寝台に横たわっていることに不思議そうな顔をして、そうして、俺を見てゆっくりと瞬いた。
「痛いところは、ない?」
「?はい。どこも。おにいさま…?」
「――――うん」
「わたし、どうしたの、でしょうか…?呼び止められて、それで頭にごつって…?あれ…?」
そこまで言って、スィリスはもう一度、はたりと瞬いた。
「おにい、さま」
「なに?」
「わたし、ご本を、落として…。あそこには、お父さまとの、魔法のことばが…」
「忘れて」
「―――え?」
「その言葉は、“魔法の言葉”じゃなくて呪いの言葉だ。だから二度と使わないで」
きみを傷つけるだけの、言葉だから。…俺に力が、足りなかったから。
「忘れて」
そのときスィリスが、どう思ったのかはわからない。けれど、しずかに、しずかに、小さな妹は頷いた。
「はい…」
「…ありがとう。…さぁ、眠って」
まっすぐな目を隠すように、掌でおさえて、細い肩に布団をかける。そうして、ゆっくりと、スィリスの吐息が穏やかになっていく。
口の端から、声がもれた。
「俺が卑怯だから、こうするのかな」
俺が、守れないから。俺が…、
「にいさま…」
「…なに…?」
「だいじょうぶ。つかわ、ない。全部、忘れます。だからにいさま、なかないで」
「…っ…。ごめんね。…今度は、守るから…っ」
歪んだ視界。白い頬に毀れた、雫。
それを掬い取りながら、理解した事実。俺は、この子の害にしかなれないという、知りたくもなかった真実。
大切だった。守りたかった。幸せであってほしかった。…それが自分の我儘に過ぎないと知った今でも。
ねぇ、スィリス。ずっと一緒にいることなんか、望まないから。そんな分不相応なまねはしないと誓うから。だから、どうかきみに幸せを。
そうして夜が明け、ぱちりと目を開いた妹に、にこりと明るく笑いかけた。
「にいさま…?」
「――――おはよう。シンデレラちゃん」
きみがいつか、俺がもう呼ぶことのできない自分の名前を呼んでくれる唯1人を見つけるまでは、どうか、許して。
きみを、まもることを。
「大概しめっぽいよねー、俺も」
小さく、笑う。そうして、裂かれた腕に手を触れた。偶然だけど、ほとんど同じ場所の怪我。あの子のそこに今もうっすらと残る痕。
今の俺はあの頃ほど素直じゃなくて、可愛げもなくて。我ながらかなり根性がひん曲がってる。だから、扉を開けて、薄暗い広間に立っている女の子に、俺はにこりと笑いかけた。
「…にい、さま…」
「―――ただいま、シンデレラちゃん。それから、お帰り」
一瞬、淡緑の目が泣きそうに歪む。…泣かないで。
それでも、きゅっと唇を噛み締めてこらえて、そしてまっすぐこちらを見たスィリスは、言った。
「兄様、私、思い出しました。…ツェトラウス古語は、『呪いの言葉』だって」
…泣かないでほしいのはほんとだけど、その顔も、イヤだな。
…ごめん、なさいすみません申し訳ありません遅いです遅すぎますすみませんんんんんんん!!!謝っても済まないとわかってるのですがでもごめんなさい…っ。
話ですが…。やっと過去が終わりました。兄さんがこんなに可愛げのある状態になることはこれから先きっとありません。過去の彼はともかく、今現在の彼には可愛げなどというステキなものは1mgもありません。ひょいこら投げ捨てました。今の彼の辞書に「恥」と「可愛げ」と「弱弱しさ」の文字はありません。
次の話こそっ、次の話こそ出来るだけ早く書きたいです!お見捨てくださらないでくれると作者が泣いてわめいて転がって喜びます(キモい)!
よろしくお願いします!
私信ですが、活動報告にコメントを下さったかた、本当に嬉しかったです!これから返信しますので、宜しければお読みくださいませ!