間章・とある王子様の面会
謁見の間へと続く扉に広がる、精緻極まる木彫り細工。栄光を意味する葡萄の蔓と、幸運の使者であるイルカを配した扉は、それ自体が一級の芸術品だ。その美しさに感嘆した彼の前で、従者の手によって、音も無くその扉が開かれる。
瞬間、目を射たのは眩いばかりの陽光。この地方の秀でた技術により、四方の壁を玻璃…硝子で囲った室の中に居並ぶのは、白の地に金糸で縫い取りのある、近衛隊。そして、中央に鎮座するのは、天鵞絨張りに金銀の飾り彫りのなされた、豪奢でありながら威厳溢れる玉座。
けれど、座るべき主の姿はそこにはなく、かわりに立ち上がったのは、近座に座っていた、まだ年若い少年だった。
深緑に金糸刺繍のある衣服が鮮やかな赤銅色の髪に良く映え、ただ立っているだけで、一幅の絵のような姿の少年は一瞬目を見開き、そして、深く澄んだ紅茶色の瞳が、混じりけのない喜色に彩られる。
(何…?)
「―――――ロワナの第一王子殿下、マルス・カドクエル・アビガイル様ですね?ようこそ、おこし下さいました。お会いできて心から、…心から、嬉しく思います」
端整な…少し幼さの残る顔立ちをほころばせ、少年…ソルフィア王国の第一王子、レスト・ファリシアン・リュファス・アレクサンドルは、はにかんだようにこちらに手を差し伸べた。
小さく微笑んで手を差し伸べると、多くの護衛に囲まれて入室してきたロワナ第一王子殿下は、一拍の間のあと、静かに唇に笑みを刷いた。
靴音も高くこちらに歩み寄り、こちらの作法どおり、胸元に掌を置いての礼をしたあと、目元を小さく和ませてみせた。
「こちらこそ。お会いできて光栄ですよ、レスト・ファリシアン・リュファス・アレクサンドル皇太子殿下」
良く通る低めの美声。ロワナの人間特有の浅黒い肌に、甘いきらめきを放つ黒曜石の目。何よりぬきんでているのがその身長で、190cm近いだろうか。
その長身を、ゆったりと布が垂れる形の真紅の民族衣装に包み、髪と瞳と同色の、掌程もある、虹を含んだ黒色の宝玉の首飾りを下げたロワナの第一王子殿下を見据え、心の中で思いっきり嘆息する。
(…コレが狙いか。―――それに、女官がきゃーきゃー騒ぎそうで鬱陶しい)
いかにも“異国の貴公子”といった体の濃い美貌の主には、きっと王城の女官、そして貴族の子女が大騒ぎするだろう。面倒臭い。この上なくメンドウくさい。…まぁ、こっちに騒ぎが来ない分少しはましかもね?
とはいえ、顔面と心情を直結させるほど馬鹿ではない。全力で女官と子女の相手を押しつけようと思考しつつ、向けられた笑みに微笑を返す。「聡明で穏やかで心優しい、理想の王子様」の顔に、年上の異国の王子へのはにかみと憧れをのせて。
途端、視界の端で近衛隊長の男がひぃっと蒼ざめて身を引くのが目に入った。…何かな、その世にも恐ろしいものを見たという態度は?――――腹筋3000回かな。まぁ、緊張感の欠片も無くにこにこふわふわしてるオーベールもどうかとは思うけどね。
「はい。聡明と名高いロワナの第一王子殿下にお越しいただき、本当に恐縮です。まだまだ至らぬところが多い身ですが、宜しければご指導いただければと思います。ロワナ第一王子殿下」
「無論。この身の及ぶ限りのことをさせていただきますよ。…それはそうと、私のことはマルスと呼んでいただけないだろうか?その呼称はいささか他人行儀だし、気恥ずかしいのでね」
名前が腐りそうですね?
「宜しいのですか?ええ、勿論です、マルス殿下。どうか僕のこともレストとお呼びください」
「ええ。レスト殿下」
思ったことをおくびにも出さず、ぱっと顔を輝かせて提案すると、マルス「殿下」は鷹揚に頷く。
…喧嘩をふっかけた国の人間に対して、大した面の皮だ。それはともかく、見事なまでに実りも意味も何も無い会話だ。正式な会談ではないとは言え、無意味すぎる。
「それにしても、あなたのお噂は聞き及んでおりましたが、お聞きしていた以上に素直でご聡明なご様子だ。さぞご期待も重いでしょう」
(噂とは違って、素直も度を過ぎて騙しやすそうですね。分不相応な期待をかけられて、かな)
にしても、言い方が一々嫌味ったらしいな。貴方をおちょくったのは僕じゃないんだけどね、マルス殿下?まぁ、僕でも同じことをしたけど。
勿論、ただの厭味のわけはなく、こちらを挑発して探っているのだろう。僕が本当に、聡明で素直なだけの子どもなのかを。
けれど、それで剥がれる程度の皮ならば、そも最初から被りはしないんだよ、王子サマ?
「そんな…勿体無いです。僕など…マルス殿下のほうにこそ、ご期待は重いでしょうに」
分不相応な程に、ね。
にこりと、笑う。心に嘲笑を、表情に賛嘆を。
すっと細められた漆黒を、嗤う。
「―――レスト殿下。国王陛下のお体はまだ優れませんか?出来れば一番にでも、お会いしたかったのですが…」
会いたかったのは貴方ではない。聞き様によってはそう聞こえ、そして、実際にその意を込められた言葉にはじめて眉をひそめて俯く。
「…はい。…父も、マルス殿下とお会いできればと、願っていたのですが…。体が、それを許しませんでした。どうか、お許しください」
嫌味を気付かない振りで、すっと哀しげに瞳を伏せてみせる。ついでにさり気なく拳を握り締める。「父王を思いつつも、懸命につらさを隠そうとする健気な王子」の姿に、ロワナ側の重臣達からいたましげな空気がわき、同時に近衛の1人の肩が、思いきりがたがた震えだしているが無視する。
すぅと、マルスの目からも僅かな険が消えた。
「いや、こちらこそ申し訳なかった。心から快方をお祈り申し上げる」
「いいえ。そのお気持ちだけで十分です。…正式な会談は4日後を予定しています。長旅でお疲れでしょう。明日からはこの国の観光など、していただこうと思っていますので、商業などの堅苦しいことは忘れて、どうぞおくつろぎ下さい」
「お気遣いに感謝しますよ」
優美な礼。そして、静かに退出しようとしたマルスは、…ああそうだ、とわざとらしく言葉をついだ。
「レイ・カークランドという商人をご存知ですか、レスト殿下?」
ふと思い出したとでも言うようにかけられた言葉に、一瞬の躊躇なく、軽く首をかしげてみせる。
「…?レイ・カークランド、ですか?ええ。わが国の王都組合会総会の1人だったと記憶していますが…。彼が、何か?」
「――――いいえ。ただ、機会があれば、是非とも話し合いたいと、そう思っただけですよ」
…言いたいことがあるとすれば一言。…いったい何をやったんだ、レイ・カークランド?
その後延々と続いた長口上から逃れてようやく戻ってきた執務室で、机に行儀悪く頬杖をつくと、ゆるやかな動作で扉を閉めた近衛が、とがめるように殿下、と声をかけてきた。それをさらりと流しつつ、目線を流す。
「―――で、感想は?」
「心の中で大爆笑でした。殿下ってばほんとに顔面純白中身純黒ですよねー」
「…腹黒さ全開、笑顔と世辞でかろうじて灰色に薄めてる人間に言われたくないね。―――誰が僕の演技の話をした、レイ・カークランド?」
常より下がった声音に、くすくすと笑いながら、制帽を取り払った近衛…レイ・カークランドが肩をすくめた。濃紺の近衛服の上に、鮮やかな金糸の髪がぱさりと落ち、入室時の殊勝な態度が一瞬で霧散する。
せっかく鬱陶しい顔が視界から消えたと思ったのに、今度は不快な顔が入ってきた。と言うか、堂々と近衛の格好で国賓応対に紛れ込むな非常識人間。
「嫌だな殿下。冗談ですよ。―――そうですね、俺が敵対視されてることだけはわかりました」
首をかしげての困ったような――あくまで「ような」だ。断言できるけれど、こいつは全く困っていない――苦笑を浮かべるレイ・カークランドを一瞥して、先ほどのマルス「殿下」の私怨のこもりにこもった眼差しを思い出し、眉根を寄せる。
「…だから言ったんだ。僕の名前を使えと」
「嫌だな殿下ったら。そんなに俺が心配ですか?」
「脳味噌は詰まってるのかなその頭?いっそ切り開いてみたらすっきりすると思うよ?」
「もー、殿下ったらて・れ・や・さ・ん、なんだからぁぁっ」
「自殺願望でもあるのじゃなきゃ黙りなよ?…予想以上に、この国ではなく“レイ・カークランド”を敵視しているようだから言っているんだよ。
マルスを妨害したのはあくまで「レイ・カークランド」という一商人であり、王子は「敵」足り得ないほどの幼い子どもで、圧力の有無すら気付いていない。そうした性格に偽ったほうが動きやすいのは確かだけど、あそこまでの敵意が向かうのなら、僕の名を使って構わなかったのだと告げると、レイ・カークランドは実に愉しげに笑ってみせた。
「えー?あそこまで想われるなんて、男冥利につきませんか?」
「何、同性愛の気でもあるわけかな?―――なら今すぐ出て行け?」
「うわー本気で嫌そうですね殿下。冗談なのに」
「レイ・カークランド。あそこまで敵視されるなんて、いったい何をした?」
茶化して煙にまこうとするのは、レイ・カークランドのいつもの手。誤魔化すな、と意を込めて名前を呼ぶと、レイ・カークランドは道化た仕草で、軽く肩をすくめてみせる。
…全く言う気がないなこいつ。
「…まぁ、構わないけどね。それで、アレの狙い、当たりはつけただろう?」
「まぁ恐らくは。これみよがしにつけてましたからね。『黒牡丹』」
予想したままの答えに嘆息し、小さく唇を動かした。
『黒牡丹』、と。
すみません腹黒さん二人…いやむしろ腹黒さん三人はひとまずさわりだけです。
そして、猫かぶってる王子様を他人の目線で書いてみたら、意外なほどにというか予想以上に気色悪かったです。なんですか「はにかんだように」って。(自分で書いたくせに)
そして…あのー番外編とかいうものがのってますが、単に作者が書かなくちゃいけない本編から逃げ出した結果です。ごめんなさい。