面接試験の合格回答
面接試験に臨んで、ある若い女は好きなものは「正義」だと称した。ゆえに私はこう問うた。汝が何を以って正義と称するのか、その由来から説いて、それを愛する理由もまた具体的に述べよと。するとその女は、以下のように答えた。
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私は、正義を愛しています。
ここで正義とは、部分の幸福と対比したときの全体の幸福です。
例えば、一握りの人々の安寧のために、大多数の人々の生活がひどく犠牲にされていたなら、どうでしょうか? そしてその秩序が、事実的ではない虚偽の言説を庶民に強いることによって成り立っていたなら、どうでしょうか? そのような状況は歴史的に、不正義であると言われ、憎悪の対象ともなり、改革すべきものだとも認識されました。すなわち、正義には歴史的に自然な定義が存在して、私が申し上げる正義も実にそれに適ったものにすぎません。
さらに例えば、大多数の人々の満足のために、一握りの人々の幸せがひどく犠牲にされていたなら、どうでしょうか? 少数の弱者の尊厳が多数派の実力によって奪われ、したがって幸福もまた搾取されるならどうでしょうか? そこにも正義はありません。正義は、力という権威ではないし、数という権威でもない。一方で不正義には常に虚言が伴いますから、真理は実に、正義らしい属性です。そして事実性とは結局、論理的な整合性の多寡によって導かれるものですから、真実を通して知性が正義を支えます。
ただし、事実性は正義そのものではないでしょう。正義のための虚偽はありうるでしょう。それはその嘘が、相手の幸せを本心から真剣に望んだ結果として生じたときです。他者を幸せにするための道具として嘘が用いられることもあるでしょう。しかし現実にはほとんどの嘘は、他者の幸せを奪って自分に付け替えるために使われます。それゆえ、正義を求めるときには正直を愛し、一見善意に由来しているとしても、欺瞞を警戒することになります。とはいえ、情報の事実性と正義かどうかは本質的には完全に別です。
人間社会において、行うだとか言うだとか思うだとか感じるという現象の単位として、人間個人があると言えます。感じるにせよ思うにせよ言うにせよその行いに正義があるとは、他者の幸せを願う程度にあるのだと言えます。すなわち行いの最適な結果を求めるとき、自分の利益のみならず他者の利益も計算に算入するなら、そこに愛があると言えます。言い換えるならば、他者の利益を含めて「自分」という範囲を定めているとき、そこに正義はあります。
すなわち、正義とは愛にほかならない。そして愛そのものは知性を要件とはしていません。したがって、知力と良心とは分けて考えざるをえません。
腕力に恵まれた者が、その腕力を自らの利益のためにのみ使ったならばどうでしょうか? その腕力は、他者を圧迫して利益を奪い取るためにすら使われることでしょう。知力に恵まれた者も同じです。すなわち、力にも知性にも、それ自体には正義の属性はありません。
しかし例えば、社会の政策を判断するとき、同じだけの良心さえあるなら、無知で愚かな者にも同等の発言権があるべきでしょうか? いかに善意に基づく考慮であっても、それが愚かであるなら、社会全体には莫大な損害をもたらす結果になるかもしれません。そして良心は、それを自覚する謙虚さももたらすことでしょう。
したがって、本物の良心は必ず、知性への憧憬を含むことになります。あるいは、あるべき正義を実現するための腕力もまた願うことになるでしょう。しかしそれはもちろん、腕力や知力そのものへの憧れではありません。良心を前提として、正義をなす道具として、腕力や知力を欲するのです。
良心と知性という素質が兼備されていれば好ましいということになります。しかしそれらの素質は、無関係に降って湧いたものではありません。
この世に存在する小さな動物は、言葉を交わすことがなく、言葉にしたがって考える能力も持ちません。ただ個体が存在し、群れがあるだけです。本能にしたがって憤ったり逃げ惑うだけで、群れとしての理性的な戦術的動作はしません。
そのような自然状態に対して、知性を持った私達の祖先は、しだいに社会性を発達させていったのだと思います。なぜ社会性を発達させたかというと、分業によって生産性は飛躍的に向上するからです。そしてなぜ社会性を発達させざるをえなかったかというと、人間にとっての最大の脅威は人間だったからです。対外的な脅威に備えるために、人間の群れは何らかの社会的な団結をせざるをえなかった。国家は常に兵器を開発して生産するほかなかったし、軍を組織して維持せざるをえなかった。
もしも人間のいくつかの群れが互いにいくらか好戦的であるなら、あるいはそうでなくとも自然災害や飢饉の脅威があるなら、個人の利益と群れの利益とは無関係ではありません。自分の安寧のみ追及していればすむという状況ではなくなります。国民を飢えさせていたなら、徴兵して酷使したところで、勝てる戦争にも負けてしまうでしょう。
すなわち、知性は必ず社会を産みますが、社会は必ず、最適化すべき利益の主体の範囲の拡大、つまり良心を要求するのです。
そのため、人間という生物が、知性とともに良心を発達させていったことは自然だと考えられます。その良心が、言語に対する真実性についての愛好にまで至ったとあっては、私達は確かに、地球生命の王としての資格も帯びているのでしょう。
したがって、知性的だが良心は持たない存在を考え、それを知性に数えるべきかは、疑問符がつきます。なぜなら、共食いをして船を沈めてしまう個体があったとして、船が沈めばやはりその個体も死んでしまいますから、その個体がいかに共食いに長けているとはいえ、それは知性の発生をたどって見るなら、病理的な現象だと見なせます。
あるいは、知性のない良心というものは、現実的に存在しうるのでしょうか? その生物は、隣人の食事を奪って食べてしまうかもしれません。なぜなら、食事を奪われた隣人が飢えて死ぬときに体験する苦しみを空想する知力を持っていないからです。本人には害意はないかもしれませんが、最終的に知覚され優先される自分自身の利益というものは残っているはずです。そのため、客観的な現象としては、普通の知能があって邪悪な場合と変わりません。一種の社会悪と見なすほかありません。
それゆえ、正義について語ろうとすればするほど、知性と良心とは重複した属性だということになります。偽りの知性や偽りの良心を軽視するほど、真の知性と真の良心とは究極的に一致する同一の属性だと見なせます。
このようにして、社会的か反社会的かという価値の程度の多寡、つまり正義は、知性や良心といった個人の属性に強烈な関係を持っています。個々人について社会的な価値の程度を問うことも可能だということになります。
しかしもちろん、人間が目指すのは社会的な価値だけではありません。対極として、個人的な価値、つまり個人的な幸福があります。
健康で、長生きして、収入があって飢えることがなく、結婚をして子供を残すことが、古今東西変わらない人間の幸せの姿です。例えばそれが、個人的な幸福です。
あるいは、社会的な地位を目指す人もいます。その最大の理由は、社会的な尊厳と個人的な利益とは強く相関しているからです。人間は、偉くなりたいと思う。そして、偉くなれる人やお金をたくさん稼げる人を、優秀な人だとも考えます。
しかし、そのように世俗的な地位を得たり目指したりする人々の中には、良心に欠ける人達も少なくありません。金銭欲や性欲といった私利私欲の猛々しい人達ほど、むしろ良心に欠けている場合もあります。
そして、私という動物は、良心に欠けた個体に敬意を感じません。どんな莫大な財産や名声を備えていたとしてもです。厳しい言葉遣いで言えば、出来損ないの劣等種だとすら感じます。
一方で、私達の生まれ育ったこの国には、今も歴史的にも、驚くほどの知性と良心を兼ね備えた人物が多くいます。私は生まれてこのかた、素晴らしく善良な人とだけ出会ってきたとは言いませんが、数え切れないほどの人情に育まれて今日まで生きてきました。今日のこの国の姿を守るために血を流し死んでいった祖先だって少なくありません。
私が心底からの敬意を禁じえないのは、そんな人達です。
私は、そんな人達こそを本当の意味で優秀なのだと思うし、そのような価値の尺度に従って、出世して偉くなりたいと願う。
健康や長生きもいいでしょう。それも価値でしょうが、私にとっては副次的な価値です。私にとっても私が尊敬する人達にとっても、私利私欲以上の価値というものが確かにあります。
ましてや世間では、世俗的な価値の尺度で他者を見下していたぶって楽しむことすら行われると聞きますが、そのような自称「強者」を、私の魂は強者だとは感じません。私利私欲を相対化した義の道を歩む者達こそが、人間という種の「強者」なのだと私は考えます。
私は、正義を愛しています。
同時に私は、正義を愛する人達を愛しています。
私は、私の人生が結局、正義を愛好しつづけたものであってほしいと思っています。
人民の生活を広く愛し、義にしたがって道を歩んだ結果、死に迫られるなら、私は正義を踏み外すよりは命を取られて、後悔はないつもりです。
したがって、権力が権力だからという理由によって、私が認識や主張を曲げることはありません。自分よりもずっと愚かに見える人が自分よりもずっと愚かに見える理屈を、どんな実力や権威を背景に私に強いたところで、矛盾に満ちた言論を私が受け入れることはありません。
私にはそのように強いプライドがあり、悪徳に対する憎悪もあります。それらは、正義を愛する人達に共通の性質だと私は思います。
そして私は今日、この面接試験を受験しました。
世界で最も「優秀」な方々とともに仕事ができると期待してです。
そして、私に与えられた素質をもって、世の中に最大限の貢献を捧げられる立場を望んでです。
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以上の答弁により、私は合格を与えた。
彼女は女性として帝国の初めての将軍になり、伝説的な戦功を重ねたが、やがて本国政府の不正義に反発して失脚し、私よりも若く生涯を閉じた。
あの才媛は、我が帝国が誇る奇跡だったと今でも思う。
水清ければ魚棲まず、と言うべきか。
涼風とすれ違った日の、忘れがたい記憶だ。