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婚約破棄モノがウケるのは負の性欲によるものか?

作者: 夢野ベル子

婚約破棄モノがここ数年ずっとトレンドになっているような気がする。


婚約破棄モノとは、概括すれば、相手方男に婚約破棄されて、自分は身も心もイケメンな王子をゲットして、相手は凋落してざまぁみたいな感じだ。


まあ、エッセイではデータを出す必要はないので、それはそういうものだと前提にしよう。


また別建てされた「負の性欲」という理論がある。


負の性欲というのは、男が女とセックスしたいというものを『正』の性欲であるとすれば、


その反対のベクトル。女はセックスしたくない男を拒絶するという意味合いで使われる。


したい‐したくないが『正』と『負』であることから、『負』の性欲と名づけたわけだ。


もともと負の性欲という言葉は、ツイフェミと呼ばれる日本のツイッター界隈の思想相に対するカウンターとして用いられ始めた。


もちろん、この負の性欲というのは、妄想である。


科学的に裏づけされたものではなく、感覚知といってもいいだろう。


ただ、それもしかたないところだといえる。


もともと、女の男を『選ばない』という仕草自体が体性感覚によるもの。


よく言われるような『キモイ』や『生理的に無理』という、言語をはみ出した言語によるものだから、


ロゴス的な知によって知りえないことを名づけたと考えられるからだ。


いわば、ツイフェミが掲げる信仰に対して、プロテスタントのようにカウンターとなるような信仰を掲げたようなもの。




んじゃ、それも妄想だから意味ないよねともいえるかもしれない。




ただ、妄想を妄想であるからすべて斬り捨てるのであれば、それは虚無主義と変わらない。


言葉は停止して死に絶える。神は死ぬ。


なので、妄想は妄想と知りながらでも、さらに一歩進めて、妄想の内容をより深く分析しようという試みが必要となる。


仏教的に言えば、『正覚』。


学問としては、精神分析ということになる。


まあ、精神分析という科学は、科学という名を冠しているが、科学もまた妄想である。


再現性の高い事柄ではあるが、現実と直接的に接しているわけではない。


我々は目や耳などの五蘊を通じて、それを脳内の図像として再生している。


脳内の図像は、現実そのものではないから、例えば錯視などの現実とは異なる図像が生じることもありえる。


我々が、現実と直接的に接するためには、フィルターとなっている五蘊や脳を取り払う必要があり、つまり目や耳などの器官のなき身体を必要とすることになる。


論理的にいって、そのような器官なき身体はありえないので、我々が直接現実と接することはない。


というのが、まあ前提。




では、負の性欲を精神分析にかけてみる。


解剖学的女は、超自我が弱い。論理的でない。あるいは中途半端な去勢であるといわれる。


人間は誰しも母と分離する前は、万能なる一者であったが、去勢というイニシエーションを経て、制限された個としての自我を獲得する。


それは言葉の世界へ参入することも意味しており、言葉とは象徴的なものであるから、象徴界への参入と言い換えることもできる。


解剖学的な男の場合は、母と自己との身体的な差異、ペニスのありなしがハッキリしていることから、去勢がトラウマ的に行われる。


これを精神分析によって表現すると「主体をSという記号であらわし、それに斜線を引く」ということであらわす。


この斜線Sは虚空である。この虚空に対しての代償物としてファルスを打ち立てる。これを象徴的なファルスという。


しかし、ファルスは去勢痕に打ち立てられたものであるから、いくら遡行しても辿り着くことはない。


対比的に解剖学的な女の場合は、母と自己との身体的な差異がないので、去勢がショッキングなイベントになりえない。


これが性差。超自我(無意識)が弱いということをあらわしている。





んにゃぴ。


もうよくわからんってなるかもしれんので、もう少し言葉を粗くしよう。


男の赤ん坊にとっては、母親に愛される子になりたい。ならなくては死んでしまう。でも、どんなふうな赤ちゃんが母親に愛されるかはわからない。


なのでこれを仮定的にファルスと呼ぶ。愛される自身をファルスと仮定する。


しかしながら、あくまでこれは想定された愛される自分であって、本当に愛されるかどうかはわからない。


なので、もしかしたら母親に愛されないかもしれないという不安を抱えながら生きていくことになる。


それはヤダ。もっと安定したいということで、父の名を導入する。


想像しよう。というときの想像的なものは、それだけでは不安定だ。


例えば、赤。赤をイメージして、赤が欲しい。けれど、それは一瞬でくずれさってしまう。


どうすれば、赤くなれるのかもわからない。


なので、赤と名づける。赤は赤として安定する。みたいなイメージか。


ヘキサグラム的な感じよねって思う。


わたしはわたしを想い、わたしになる。


それだけでは足りず、


あなたに想われて、わたしはわたしになる。


という、六芒星のような安定構造を必要としたということか。




んにゃ……。


ただ、これも絶対的なベクトルではなく、象徴界に到達した後に再び想像界へ舞い戻るといった遡行もありえる。


去勢は否認されることもある。


というか、これって一般的に言えば中二病とか呼ばれてるやつで、万能な一者であった頃に戻りたいというのは自然な成り行きであるともいえる。


中二病は病気なんかじゃなくて、むしろ普通の成長であるといえるからだ。




負の性欲について話を戻そう。


男は、去勢されたことによって、斜線を引かれたSの残骸を求めることになる。


それはSそのものではない。すでに斜線を引かれたSは存在しない。なので、まがいもの。にせもの。


これを対象аと名づける。斜線Sと近接しているけれども微妙にズレてるからね。


男は、去勢が確定的であるから、対象аに惹かれる。


万能の一者だったころを夢見て、もう一度そうなりたいと願う。


これを、正の性欲と名づけても、そこまでまちがいではないだろう。


男は対象аに引き寄せられるという在り方でしか存在しえないのである。


これに対して、女性性というのは、ファルスそのものであるといえる。


対象として目指すべきファルスがないということで、女性のシニフィアンはないという言い方をされたりもする。


赤ちゃんに、ペニスがある、あるいはないという判断がされるのであって、


ヴァギナがあるとかないとかいう言い方はしないってことね。


まあこれを極限まで言い切ると、女はいないとかいう話になっちゃうわけだけど、


男よりも特権的シニフィアンが機能していないというような話になるかな。


納得感が出るような言い方をすれば、男はいつまで経っても過去の女のことを忘れらないけれど、


女はわりとさっぱり忘れることができるみたいな言い方になるだろうか。




負の性欲というのが、過去の男と現在の男の対比で語られるとき、


過去の男は言うまでもなく選ばれなかった男だ。


したがって、負の性欲をファルス的な規制が弱いという意味で捉えれば、


軽やかに新しい男に目移りできるという意味になる。


そのとき、過去の男は女の中でまったく考慮に値しない無価値なものになる。




男も浮気するじゃないか。


むしろ婚約破棄時には、真実の愛に目覚めてなる言い訳をするじゃないかという反論があるかもしれない。


しかし、男のソレは、対象аの代替物としてのソレである。


対象аはまがいものなので、婚約破棄された女も新規女もどちらもまがいものには違いない。


したがって、どちらも等価知的であり、どちらも追い求めているモノであることは間違いない。


最悪な言い方をすれば、どっちも穴である。


どっちともエッチしたいのである。


なので、Aという女からBという女に鞍替えしても、Aの価値が毀損しているわけではない。


男の中ではAの価値も保留されているが、AとBがどちらが対象аであるのか、うすうすどちらも偽物であることはわかっているのだが、


どうしようもなく、選んでしまうというのが内実である。つまり男は本質的な意味において浮気性である。




逆に女の中では、真実の愛なるものは、男ほど意味を持たないものだから。


たぶん、どれもこれも等価地に真実の愛になりえるから。


女はAという男からBという男に鞍替えしても、まったく問題になりえない。


女は――とりわけ少女は超自我という重力から解き放たれた妖精である。


ただ、これは無意識の領域の話であることを、考慮しなければならない。


愛してるとか好きという言葉を唱えることで、想像的で曖昧な感情を名づけることができる。


この魔術的な重力によって、女は女として規定される。


曖昧なもの、存在しないもの、空虚なるナニカから、女は女へとなる。




負の性欲とは、選ばないこと。これは執着しないことと読み替えることができる。


過去の男に執着せず、現在の男に想いをはせる。


これは、別段女にとっては浮気ではない。


現実的にはもちろん、婚約というのはお互いの性器の取り扱いに対する約定である。つまり、他人とセックスしないという約束事である。


したがって、Aという男と婚約しておきながら、Bという男に懸想すれば、それは浮気にはなるのであるが、


男のように、AにもBにも本気という意味ではなく、AにもBにも執着しないので、仮にBが好きとなったとしても、それは主観的な意味においてはAに対する執着はまったくゼロになっているということもありえるのである。


ここまで述べてきて、男でもまったく執着していない人間がいるし、女にも過去男に対する執着があるという意見もあるかもしれない。


まあ、それはありうる。


ラカン論における超自我が『弱い』の弱いというのは、ちょっとはあるということだから。


つまり、ファルス的規制もないわけではなく、ちょっとはある。


ちょっとはあるということは、過去男に対する執着もちょっとはあるということ。


逆に男がファルス的規制が強いといっても、過去女のことをずっと引きずるかというと、真偽判別の話であるのだから、明確な偽物と判別できるのであれば『愛想をつかした』ということで、斬り捨てることは可能であろう。




そんなわけで、概ね、負の性欲は精神分析の文脈からも肯定できるのではないかと考える。


ゆえに、女は婚約破棄に対する耐性が強いともいえるし、次のイケメンをゲットしても男ほど罪の意識を覚えないのではないか。


むしろさー、逆に考えればわかりやすいかもしれないね。


男が女から婚約破棄されて、それで新たな女と結ばれる的な話。


婚約破棄モノの対義語的には、おそらく『追放系』がそこに収まるんだろうけれども、パーティから見放されてもなぜかヒロインからはわたしだけはわかってるからみたいな感じでついていくというパターンが多いような気がするな。


男のファルスに対する執着は、女を保持したいみたいな欲求に傾きやすいってことだから、ハーレムのほうがいいのかもね。



もうメンドウくさくなったから、男も女も等しく滅びればいいと思う

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