第十三話 殺意の旋律
シェリアの亡骸を抱え、ネイは魔人を見据えていた。
胸に激痛と悲しさが混じり合い、心が壊れそうになる。
カイトと同様、家族がまた自分の腕の中で息絶えた。
自分には悲しむ暇すら、与えてはくれないのだろうか――そんな思いが漠然と広がり、ネイの心をいたく傷つける。
両親が亡くなった日は、力尽きるまで魔物から逃げ惑い、カイトを喪った日は、激昂したシェリアに殴られ続けた。
そして、シェリアが逝った本日――不意に現れた魔人が、嗤いながら家族をゴミだと貶したうえに、孤児院の子供達を魔物に変え、虫けらだと吐き捨てたのだ。
あの頃よりも深く激しく、胸に憎悪が湧き上がる。
そもそも最初から、反魂など存在しない。天上の神々でも無理らしく、魔人が遊びで書き綴っただけの偽物のようだ。
きっと、シェリアはわかっていた。わかっていてもなお、反魂を試さずにはいられなかったのだと思われる。
魔に魅入られる隙を与えたのは、ネイにほかならない。
理由はどうあれ、ネイの思惑が原因でカイトは死んだ。
(……どうして……?)
魔の存在が自分から家族、または大切な人を奪っていく。愛せば愛すほど、失ったときのつらさが計り知れなくなる。
そんな心の隙間を、何で埋めればいいのか――
憎悪以外に、空っぽの心に埋めるものなどない。
ネイは音を立てるぐらい、ガリッと強く歯を噛み締めた。
その瞬間、途端におぞましい気配を察知する。
「何が……そんなに、おかしい……?」
咲弥へ視線を向け、ネイは少し恐怖で愕然となる。普段の優しい彼からは、想像もつかないほど低い声をしていた。
目をカッと見開き、魔人のほうをじっと睨みつけている。
彼のオドは激しく滾り、それはひどく濁り淀んでいる。
「なあに?」
「人の気持ちを踏みにじって……何が、そんなに面白い」
黒白の籠手が、漆黒と純白の不吉な光に覆われた。
おそらくは、咲弥の怒りに呼応しているに違いない。
これまでは、肘先までしかなかった。しかし今は、咲弥の腕を飲み込み、禍々しい右腕と神々しい左腕へと変化する。
咲弥は歯を剥き出し、両腕を前にだらんと垂らした。
憎悪を込めた眼差しで睨む。それはまるで、どこか――
「死んだ人に、また会いたいって想う気持ちが……そんなにおかしいことか? 何も変じゃない。へらへらと嗤うな」
「なんだ、虫けら? お前ら虫けらの存在なんか、僕ら魔の慰みものでしかないって理解しな? ほぉら、見てごらん」
魔人が片手を虚空に舞い踊らせるや、影がまた蠢いた。
色濃い影から、魔物と化した人々が浮かび上がってくる。
「僕の創った秘術は傑作だろう? 虫けらが、虫型の魔物に変わるんだ」
魔人はそう言い、肩を竦めた。
「しかし、こいつらも憐れだね。そこのゴミが秘術の過程で生み出したのに、用済みとなるや自害を命じたんだから」
シェリアの家族だからこそ、わかってあげられた。反魂に魅了されていたとはいえ、好んでやっていたはずがない。
きっとこれ以上、被害を出さないためなのだと思われる。
「だから、優しい僕が救って強化してあげたんだ。虫けらはしっかり蠢いてこそ、虫けらだろ? こんなふうに、ね?」
言葉終わりに、魔人は指を弾き鳴らした。
数体の魔物が、恐ろしい勢いで咲弥へと詰め寄っていく。
「……取り消せ」
咲弥がふっと、まるで煙のごとく消えた。
向かい来る魔物を瞬時に漆黒の爪で裂き、あっという間に魔人の傍にまで達している。それは進化か、また生命の宿る宝具の力は激増していた。
間合いに入るや、咲弥は空色の紋様を浮かべて唱える。
「黒爪限界突破」
「やるね。でも虫けらの攻撃は、僕ら魔人には効かな――」
魔人は不可解な表情で、即座に身を捻った。
魔人の胴体に向け、漆黒の爪が振るわれる。
ほんのわずかに、かすった程度のはずであった。
だが少し遅れ、強烈な爪跡が広がっている。
「なっ……んだっ?」
「僕のことは、どうだっていい。みんなの分は、取り消せ」
咲弥はそのまま、純白の爪を薙いだ。
魔人は素早く後退するが、またかすっている。
「おいおい……なんだ、これ……なんなんだ、お前……」
魔人が覆っていたものが、目に見えて消滅していた。
咲弥の唐突な変化に、ネイは漠然とした不安を抱く。だが同時に――本当に優しい人なのだと、改めてそう思えた。
家族のシェリアが起点となった惨劇に、ネイは戦うことはおろか、逃げることすらしていない。ただ茫然と心が痛み、現実を受け止め、今も眺め続けている。
本当であれば、ネイが立ち上がらなければならないのだ。
それなのに、出会ってから間もないはずの彼が、ここまでネイの家族のために激昂してくれている。優しい彼が町人のために心を殺し、血を流して戦っていた。
憎悪に満ちたはずのネイの心が、徐々に和らいでいく。
とめどなく涙が溢れ、ネイは唇を噛み締めた。
「魔物化とはいえ、虫けらを殺したのはお前なのになぁ?」
「そんなこと……言われなくてもわかってる。赦されない。だからどんな罰だって、僕は素直に受ける。でも――」
再び、咲弥は高速移動をした。
深手を負った魔人は、回避に専念している。そんな魔人の行動を先読みし、紅羽が魔物を討ちつつ蹴りを繰り出した。
そのあとで、老師ラルカフが雷の紋章術を放つ。
人の攻撃は効かない――魔人はそう言いかけていた。
確かに魔人は、紅羽達をまるで気に留めていない。むしろ存在として認識しているのか、あやしいくらいであった。
それをオドと呼んでいいのかわからないが、オドに近しい何かが、紅羽と老師の攻撃を弾いているという印象がある。
紅羽と老師は、即座に魔物の駆逐へと切り替えていた。
おそらく、咲弥が戦いやすい環境を作るために違いない。
咲弥が魔人の眼前へと迫り、また重い声を紡いだ。
「お前を――お前達を、絶対に野放しにはできない」
「虫けらごときが、調子に乗んな!」
魔人が漆黒の手を針に変え、咲弥に突きを繰り出した。
頬と左脚をかすめ、腹と肩を刺されていてもなお、咲弥はその足を止めない。
その猛進に、魔人の顔は震撼している。
「……怯まない……?」
「お前らがいるから、こんな悲しいことが起きる。だから、僕がお前達を殲滅してやる。二度と、誰も悲しませない」
漆黒の鋭い爪が、魔人に振り下ろされる。
魔人が避けた瞬間、死角から純白の爪が飛んだ。
「なんだ、その武器。僕に攻撃が通じるなんておかしい」
「僕は――お前達を殺す。そのために、やってきたんだ」
「はっ。笑わせるな、虫けらが! 本気で相手してやる」
魔人が素早く飛び退き、無数の魔法陣を描いた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
紅羽が白い光芒を放つが、やはりまったく効いていない。唯一、咲弥のみが、魔人に対して傷を負わせている。
その咲弥もまた、瞬時に空色の紋様を浮かべていた。
「白爪空裂き限界突破」
咲弥の紋様が砕け、純白の爪が宙を撫でる。
魔法が放たれる寸前、まるで蝋燭の火のごとく吹き飛ぶ。また同時に、魔人が纏っているオドに似た何かも薄れる。
魔人が険しい顔をして、激しく驚倒していた。
「はっ……? な、なんだ……と?」
「お前を殺し、残りの魔人も殺し、魔神も必ず殺してやる」
咲弥は言いながら、魔人へと詰め寄った。
魔人はくっと息を詰め、淀んだ影の中へ身を沈めていく。
「虫けらめ! 覚えてろよ! 目覚めたばかりじゃなきゃ、お前ら虫けらなんぞ、一瞬で八つ裂きにしてやれたんだ」
魔人が沈んだ影に、咲弥が漆黒の手を突っ込んだ。
少しずつ、魔人が引っ張り出される。
「ぐっ、ぐぁっ……あぁあああ……!」
魔人は漆黒の爪で、肩をえぐるようにして掴まれていた。
咲弥が純白の爪を影に這わせるや、影が大きく弾け飛ぶ。
すると一気に、魔人が再びその姿をあらわにした。
「ぐっ――!」
「逃がすわけ、ないだろ」
「なっ……んでっ?」
「もう訂正も何もいらない」
「ま、待っ――」
「この世から消え去れ、ゴミ虫」
魔人の体が斜めに、漆黒の爪で大きく切り裂かれる。
純白の爪で追撃すると同時に、空色の紋様が描かれた。
咲弥は漆黒の爪を高く掲げ、憎悪のこもった声で唱える。
「黒爪限界突破」
「っ――」
漆黒の爪が頭上から落ち、魔人の体を縦に走り抜ける。
「お前、まさ……か、て……ん……」
言い切る前に、魔人は塵も残さずに消滅する。
ほぼ同じ頃合いで、紅羽達も魔物化した人を討ち終えた。
沈黙が広がる空間で、ネイはただ茫然となる。
もし咲弥がいなければ、魔人に嗤いながら殺されていたに違いない。紅羽と老師の攻撃が、まるで通じていなかった。
むしろ本当に勝てたのか、今でも夢現な心境を抱える。
咲弥がふらふらと揺れ始め、ばたりと地に倒れた。
オドを使い果たしたのか、さきほどまでの禍々しい気配が完全に消え去る。黒白の籠手も、ふっとその姿を消した。
邪悪な神を討たなければならない――
初めて聞いたとき、ネイははなはだ疑問だった。しかし、なぜ咲弥が選ばれたのか、ほんの少しわかった気がする。
奇妙な運命を背負った彼は、ただ進み続けるに違いない。
たとえその身が、神殺しの獣へと落ちようとも――
紅羽が颯爽と、倒れた咲弥のほうへ寄った。
純白の紋様が浮かび上がり、そして砕け散る。
咲弥の全身が、仄かな光に包まれた。
「……ぇ?」
紅羽から、極わずかな声が漏れる。
治癒の紋章術を、なぜか途中で放棄した。
咲弥に外傷がないはずなどない。魔物と化したシェリアに加え、魔人に針みたいな指の攻撃を受けていたからだ。
まるで全身の力が抜けたかのように、紅羽が崩れ落ちる。
へたり込んだ姿勢で、咲弥のほうを呆然と見つめていた。
「いやぁ……嫌です……」
紅羽は消え入りそうなくらい、儚い声を紡いだ。
咲弥の上半身をゆっくり起こして、紅羽が抱き締めた。
すすり泣くような声が、次第に耳へと届き始める。
「嘘つき……約束……しました……」
ネイは、やっと気づいた。
咲弥の心臓もまた――シェリアと同様に止まっている。
オドの消耗が激しい固有能力を、何度も連発していた。
おそらく死因は、オドの枯渇によるものに違いない。
治癒の紋章術をかけたときに、紅羽は気づいたのだろう。
ネイは立て続けにまた一人、身近な存在を失った。
(あんたも……やっぱり、カイトと同じじゃない。ほら……だから仲間なんか……もう作りたく、なかったのに……)
いったい、どれほど身近な人を失えば気が済むのだろう。
咲弥の死が涙へと変わり、ネイの頬を何度も通り過ぎる。
ネイはシェリアの亡骸を、ぎゅっと抱き締め――
もう何も、考えたくなくなった。
いっそ自分のつらい人生も、一緒に終わってほしい――
そんな思いが、漠然とよぎった。
「どけっ!」
老師ラルカフが途端に、紅羽を大きく突き飛ばした。
金色の紋様を浮かべ、老師は力強い声で唱える。
「雷の紋章第四節、雷王の右手」
老師の右手に、激しい電流が迸った。
胸を触れられた咲弥の遺体が、弾かれたように跳ねる。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
茨の鎖を両腕に巻きつけ、咲弥は闇の中を歩いていた。
一歩進むたびに、茨の棘が肉に深く食い込んでいく。
傷みを必死に堪え、ただ前へと進み続ける。
しかし光のない闇は、心に大きな不安をもたらした。
どこまで行こうとも、ただただ孤独だけが広がっている。
歩く意味など、おそらくどこにもない。
それなのにまだ、足を止められずにいた。
茨の鎖は、無数の十字架と繋がっている。
それはきっと、自分が殺めた人達の亡骸に違いない。
どうしてこうなったのか、よく思いだせなかった。
深く重い罪悪感だけが、胸をきつく縛りつけている。
足を止めれば、自分も十字架の一つとなるのだろうか――
ふと、そんな考えが思い浮かんだ。
次第に疲れ果て、棘の痛みに耐えられなくなる。
そっと、進む足を止めてしまう。
不意に背後から、怨嗟の声が一斉に飛んでくる。
「どうして、助けてくれなかったの……」
「苦しい……お前も……こっちに……」
「なぜ殺した……救えたはずなのに……」
「痛いよ……暗いよ……助けて……」
「お前も……死ねばいい……死ねよ……」
「許さない……許さない……」
「憎い……お前が……憎い……」
自分なりに、精一杯にやってきたつもりだった。
これが罰というのであれば、受け入れるほかない。
身を委ねかけたそのとき、背にほのかな温かみを感じる。
「ほら……みんな、待ってるよ」
「シェリアさん……?」
声でそう判断したが、なぜか振り返られなかった。
全身が異常に重たく、まるでいうことを利かない。
涙で視界が滲み、頬を伝うのがわかった。
「ごめんなさい……シェリアさん……」
「いいの……何をどうしても、私は救われなかったから」
「そんなこと……」
「いいの……でも、その代わり……私のお願いを一つだけ、聞いてくれる?」
どんな願いであったとしても、自分には聞く責任がある。
咲弥は閉口して、シェリアのお願いを待った。
「ネイに伝えて。どんなに離れてても、私達は家族だって」
背を強く押されたような、小さな衝撃が走る。
いつの間にか、体が自由を取り戻していた。
両腕に巻きついていた茨の鎖もない。
咲弥はとっさに、後ろを振り返った。
微笑むシェリアの隣に、見覚えのない茶髪の男の子がいる――その後ろには、見知らぬ大勢の人達が立ち並んでいた。
みんな柔らかく微笑んでおり、淡い光に照らされる。
「私を止めてくれて……ありがとう、咲弥」
シェリアが告げるや、全員が光に溶け込んでいく。
「ま、待ってください」
「さようなら」
「シェリアさん! 皆さん!」
光は輝きを強め、そして――
咲弥はふと、その意識を取り戻した。