第十一話 狂乱の夜想曲
激しい雨の中――
懐中電灯の代わりともいえる紋章具、誘光灯から発生した光球を漂わせながら、咲弥は森の道をひたすら駆け抜ける。
シェリアを追った紅羽の気配を、必死に探っていた。
光球があるとはいえ、夜の闇はかなり深い。視界はあまりよろしくないが、そんな状況が今は逆にありがたくもある。
視界が悪いぶん、オドがわずかに察知しやすいからだ。
しかし捜索に没頭してしまい、豪快に木と正面衝突する。
「がっ……! ったた……」
師に見られていたら、木の棒が飛んでくる失態であった。
一か月以上もの記憶が、咲弥の脳裏によみがえる。
はやる気持ちを抑え込み、また走り出した。
(紅羽……どこにいるんだ……)
もう間もなく、町のほうへと着いてしまう。
少し遠くにある樹上から、不意に何かが飛び降りた。
あちらも咲弥の存在に気づいたのか、互いに寄っていく。
「咲弥様」
「紅……はっ!」
光球に照らされた紅羽の姿を見て、思わず言葉に詰まる。
雨で服がぐっしょりと濡れ、体に張りついていた。
シルエットだけを見れば、もはや裸だと錯覚しかねない。魅力的な体の線が浮き彫りとなり、かなり扇情的であった。
(ばかか、僕は……)
咲弥は何度も首を横に振り、卑猥な妄想をかき消した。
それから彼女の紅い瞳を、咲弥はまっすぐに見据える。
「紅羽、こんなに濡れて……風邪ひいちゃうよ」
「問題ありません。シェリアは孤児院方面へ向かいました」
咲弥は目を大きく見開いた。
「えっ! 孤児院って、まったく別の方角じゃないか」
「私の気配が覚られないよう、最大限努めました」
「あ、ああ……なるほど」
至極当然の話だった。
こちらが可能なら、あちらもまた可能なのだ。
「では、咲弥様。行きましょう」
「う、うん」
咲弥は紅羽と並び、孤児院の方面を目指した。
施設からはやや外れ、道なき道を駆け抜ける。
その先には、古びた小屋らしきものが建っていた。
物置に使われていたのか、石造りの壁には鉄扉がある。
「おそらく、この先だと思われます」
「こんな、ちっちゃい小屋……?」
咲弥は訝しんだ。
隠れるにしても、もっとほかにあると思える。
鉄扉に手をかけてみたが、開きそうにはない。
「開かないか……ほかに何か場所は……」
咲弥は鉄扉から離れ、全体をもう一度よく眺めてみる。
紅羽が右手を前に伸ばし、途端に純白の紋様を浮かべた。
「え……?」
「光の紋章第四節、白熱の波動」
灼熱の白い光芒が、勢いよく放たれる。
激しい音を響かせ、歪な形で鉄扉は開かれた。
「く、紅羽……?」
「はい?」
「さすがに……ちょっと強引過ぎない?」
これでは、気配を覚られなくした意味がない。
紅羽はどこか、きょとんとした顔をする。
「今はもう、隠密をする必要がありません。どちらにしても相手に察知されるのであれば、一刻も早く進むべきです」
「あ、ああ……まあ……」
それは確かに、一理ある話ではあった。
とにかく今は、ネイとラルカフの安否を確かめたい。
咲弥は小屋の中へ足を踏み入れ、即座に立ち止まった。
(階段……)
地下へと続く階段以外、この小屋にはないようだ。
なんの目的で造られたのか、いまひとつよくわからない。
ゆらゆらとあやしげな炎で、階段は照らされている。
「まだ、もう少し道が続くみたいだね。急ごう」
「了解しました」
広々とした階段を、咲弥達は駆け下りた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
縛られているネイは、ぼんやりと過去を振り返っていた。
風が吹き抜ける、夕日に彩られた草原での記憶――
ネイは草地に座り込んで、ただ夕日を眺めている。隣には両手を枕代わりにし、大きく寝ころんだカイトがいた。
『なあ? ネイ』
『なによ』
唐突に呼ばれ、ネイはカイトを横目で睨む。
茶色の髪に指を通し、カイトはぽりぽりとかいた。
『お前さ、好きな奴とかいんの?』
『はあ? そんなの、いるわけないでしょ』
カイトは大袈裟なため息を漏らした。
寝そべったまま、カイトは草地に頬杖をつく。
『なんだ。てっきり……それは、あなたよ。って言うのかと期待したのに』
『はあ? ばか? そんなわけあるか』
カイトはにっこりと笑った。
『俺は、お前が好きなんだけどな』
ほんの少しだけ、胸がちくりと痛んだのを覚えている。
ネイは己を律してから、カイトに伝えた。
『私なんかよりも、シェリアをちゃんと見てあげなさい』
『シェリアも好きだぞ』
『家族としてじゃなくてさ、真面目に向き合いなってこと』
カイトは、照れくさそうに頬をかく。
『女としてってんなら……俺は、お前のほうが好きなんだ』
『だから、興味ないつってんでしょ。ばか?』
正直に言えば、とても嬉しかったと記憶している。しかしカイトへの恋心よりも、ネイはシェリアとの友情を選んだ。
さらにその頃は、果たさなければならない目的もある。
家族を奪った、憎き魔物を討つ――
復讐の念に、ネイはひどく囚われていたのだ。
ネイはそっと、よみがえらした記憶を打ち消す。
かすんだ視界で、静かに前を向いた。
今現在、使われなくなった古い貯蔵庫にいる。小さい頃に何度か遊びにきたが、まるで別の場所のように感じられた。
奇妙な道具が並べられており、中央には美しい壺がある。その壺の付近に、シェリアは書物を片手に立っていた。
疑問は尽きないが、今回の騒動はシェリアが原因らしい。
今現在、ネイの左隣にはマザーがいる。孤児院での惨劇で喪ったと諦めていたが、シェリアに幽閉されていたようだ。
そして反対側には、あとから連れてこられた老師がいる。
全員オドを乱す縄で縛りつけられ、身動き一つ取れない。
「準備は、整った……」
シェリアが呟き、ネイ達を振り返った。
その黒い瞳は、明らかに常人のものではない。
「さあ……始めましょうか」
「あんた……なに考えてんのよ……」
「カイトを……生き返らせるの」
ネイは一瞬、呼吸するのも忘れた。
死人を蘇らせる――
そのために、あれほどの犠牲者を生んだようだ。
「ある遺跡調査でね、こっそり一冊の書物を手に入れたの。そこには死者を蘇らせる秘術が、克明に記されていたわ」
「そんなの……」
ネイの言葉を遮り、遠くのほうで爆発音が轟く。
出入口のほうへ、シェリアが素早く振り向いた。
「追ってきちゃったのか……」
シェリアが鷹揚に、ネイ達のほうへ向かってくる。
そして、マザーの腕を掴んだ。
「シェリア。今からでも遅くないわ。もうやめなさい」
マザーは諭すように、シェリアに告げた。
シェリアは気味の悪い笑みを浮かべる。
「マザー……ごめんね。私はもう許されないほど、罪を犯し過ぎた。もう振り返ることも、立ち止まることもできない」
「シェリア! マザーとラルカフを解放して!」
ネイは声を張って、シェリアを止める。
「私が……私が、あなたの言う通りにしてあげるから」
「記憶の残滓が、この秘術には必要なのよ。カイトの記憶を色濃く持つのは、マザー、老師、ネイ……そして、私なの」
シェリアの言葉が終わるや――
出入口の扉が、まるで破裂したかのように開かれた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
視界に広がる光景に、咲弥は驚きを隠せない。
赤黒い魔法陣が描かれ、そこかしこに蝋燭が立ち並ぶ。
その部屋の状態は、黒魔術的なものを強く連想させた。
「マザーさん!」
先に呼んだのは、シェリアに掴まれているマザーだった。
孤児院の火事で死亡したと思っていたが、まだ生きていた事実に安堵感が芽生える。だが、シェリアに捕らわれている様子から、同時に危機感も覚える。
「動かないで」
シェリアは力強く言葉を発した。
マザーの首筋に、銀色に光るナイフが添えられる。
「咲弥。あなたには、本当に感謝してる。どれほど調べてもわからない文字を、あなたはいとも簡単に翻訳してみせた。そのお陰で、私はやっと前に進める」
翻訳が引き金になったと知り、咲弥は愕然とする。
ただシェリアの力に、なってあげたかっただけであった。
咲弥は激しい罪悪感を抱え込む。
「そ、そんな……僕は……」
「念のために……ばれないようにするために、どうでもいい古代語も混ぜたの。とても重要だったのは――記憶の残滓、天使の器。これだけだった」
まさかとは思い、中央にある壺に視線が向いた。神秘的な壺に見えるが、それは天使らしからぬ気配を漂わせている。
天使と直接対面した咲弥だからこそ、違いがわかった。
「待ってください! それは、天使の器ではありません!」
「何を……」
「わかるんです。僕には! それは天使とは、まったく別の気配がします!」
「もう……止まれないのよ!」
シェリアは叫ぶように言った。
「いったい、どれほど人を殺したと思ってんの。私のせいで――なぜか孤児院の子供達まで、巻き込んじゃったのよ!」
孤児院の子供達は、故意ではなかったようだ。
シェリアは言いながらに、壺へと歩み寄っていく。
「もう止まれない。もう止まれない。マザー達を捧げた後、私は私自身も捧げる。そうして、カイトを生き返らせる!」
「シェリアさん!」
「シェリア!」
「ごめんね……」
ネイの悲痛な叫びからか、シェリアはそっと涙を流した。
そのとき、壺がまばゆい光を放つ。
咲弥と紅羽を除く全員から、オドを吸い上げていた。
「な、なんだ……」
「カイトの遺骨が……」
シェリアが呟いた直後、壺はさらに輝きを強める。
光の玉が壺の中から飛び出し、シェリアに直撃した。
シェリアの全身が、禍々しい光に包み込まれる。
「私に、力を貸してくれるの……? ありがとう、カイト」
カッと光が輝きを強め、激しい爆風にも似た風が起こる。
咲弥はとっさに、腕で目を覆い隠した。
すぐに光と風は収まり、ゆっくり腕を下ろしていく。
そこにいたのは――
シェリアの容姿の変化に、咲弥の目もとが大きく歪んだ。
「なんなんだ……これは……」
瞬間的に連想したのは、シェリアの形を残した蛾だった。
ただの蛾ではない。シェリアの胴体から下は、無数の紅い茨が集い合い、まるで大樹を彷彿とさせた。太い茨は、根を張るように伸び続けている。
「さあ、儀式を始めましょう」
魔物と化したシェリアが、鷹揚な口調で言った。
茨がうねうねと動き、ネイ、ラルカフ、マザーを掴んだ。
咲弥は即座に、黒白の籠手を解放する。
「紅羽!」
「了解しました」
咲弥の短い呼びかけに、紅羽は即座に応えてくれた。
二人で同時に駆け、まずは三人の救出を優先する。
茨が触手のごとく伸び、咲弥に襲いかかってきた。
咲弥は黒爪で引っかき、茨を切り裂く。
近くで見れば、棘がまるで刃物みたいになっている。
掴まれた者達へ、素早く視線を滑らせた。
全員が苦痛に顔を歪め、体中から血を流している。
茨に掴まれるだけでも、鋭利な棘で斬られてしまう。
とはいえ、茨の本数は数えきれない。
紅羽は茨での攻撃をすべて、軽やかに避けている。
そんな芸当は、咲弥には不可能であった。
咲弥は右手を前に伸ばし、空色の紋様を顕現する。
「水の紋章第三節、精霊の水晶!」
紋様が砕け散り、蒼い球体が右手の前に生まれる。
激しい音を立てて回転し、蒼い水晶は勢いよく放たれた。
茨の隙間を潜り抜け、深く絡み合った場所で爆発する。
ネイの影響を受けて生まれた紋章術は、まるで手榴弾にも等しい威力があった。だが、捕らえられている者達の茨は、上手く回避されてしまっている。
しかも最悪なことに、ちぎれた端から再生をしていた。
(くそ……こんなの……どうすれば……)
それはまるで、ジャガーノートを思わせる再生力だった。
背に生えた龍とは違い、茨は縦横無尽に動き続ける。
「火の紋章第二節、焔の襲撃」
咲弥の視界の端で、赤い光が入る。
紅羽が右手から火炎を放つ。まるで火炎放射器であった。
茨が炎に包み込まれ、連鎖的に焼き尽くされる。
「きゃあああああああ――っ!」
シェリアが叫びを上げた。
紅羽の火が、本体にまで到達したからだ。
シェリアが見せた一瞬の緩みを、咲弥は見逃さない。
咲弥は胸の内側から湧くオドを、一時的に堰き止める。
「黒爪空裂き、限界突破」
やや遠くから狙いを定め、黒爪で空を切り裂く。
その衝撃は連鎖していき、ネイ達を掴む茨をも分断した。
通常の空裂きは、距離が遠くなるほどに威力は激減する。しかし限界突破を併せれば、逆に離れれば離れるほど、その威力は何倍にも大きく膨れ上がるのだ。
空裂きと名づけたのにも、ちゃんとした理由があった。
戦闘の最中はとにかく、膨大な思考や判断が求められる。技を使うたびに、じっと念じるなど正気の沙汰ではない。
だから紋章術の発動と同様、言葉にすれば発動するようにしたほうが遥かに効率的で、意識を深くもっていかれない。
これまでの咲弥は、無駄があまりにも多過ぎた。
だが修行により、すべて極限まで無駄が排除されている。
(よし……)
咲弥の行動を予想していたのか、紅羽が素早く連携する。
落ちていく茨を掻い潜り、紅羽がネイ達を救出した。
全員の背の服を掴み、茨からの脱出をはかっている。
しかしシェリアが、不意に耳をつんざく咆哮を放つ。
「アァ……アァアアアアアア――ッ!」
シェリアの上空に、虹色の魔法陣が発現した。
咲弥の記憶が、漠然とよみがえる。
(あれは、ジャガーノートのときの……)
心の中で呟きながら、咲弥の体は自然と動く。
空色の紋様を浮かべ、力強く飛び上がった。
紅羽の背後に移動し、素早く詠唱する。
「清水の紋章第二節、澄み切る盾」
いくつもの青白い光の粒が、互いを繋ぎ合っていく。
前方に水の幕を張った瞬間、音魔法が放たれる。凄まじい衝撃が波紋のごとく広がり、水の幕ごと吹き飛ばされた。
同時に無数の茨が蠢き、衝撃波で弱まった水の幕を数本の茨が突き抜ける。咲弥の左肩辺りを、一本の茨が貫いた。
「ぐぁあああっ……」
「咲弥様!」
さらに複数の茨が咲弥をすり抜け、紅羽のほうへ向かう。
さすがの紅羽も、この状況下で全員は護りきれない。茨に包囲されてしまい、救出した三人をまた奪い取られた。
マザー達の悲鳴を聞きながら、無理矢理右腕を動かす。
黒爪で茨を切り離した直後、背から壁に激突した。
「ぐっ……」
咲弥は肩と背の痛みを堪え、かろうじて地面に着地する。
「すみません。また奪い返されました」
「いや……あんなの、どうしようもないよ」
咲弥は左肩を黒手の甲で抑えつつ、紅羽に応えた。
明らかに、茨を扱う精度が増している。
おそらくは、魔物として馴染んできたからに違いない。
(いったい……どうすれば……)
心の中で呟いた疑問の答えは、すでに自分の中にある。
ただそれを、咲弥は認められずにいた。
シェリア本体を討つ――
いくら振り払おうとも、行きつく答えは一つしかない。
咲弥は唇を噛み締め、壊れてしまいそうな思いを抱いた。