第九話 終焉の唄
自由に草木が生い茂った場所に、咲弥達はやってきた。
ここは見下ろす形で、訓練所全体を一望できる。さすがに訓練所のほうから、この場所を特定するのは困難に思えた。
下のほうからでは、木々に覆われた山の一部に過ぎない。
「ネイ達を最後に見たのは、この場所です」
紅羽の淡々とした声を聞き、咲弥は周囲を眺めた。
魔物に襲われたと考えていたが、特に戦闘の痕跡はない。
咲弥は、師であるラルカフを振り返った。
「争ったような跡は、どこにもありませんね」
「ふむ……わしらの戦力は申し分ないと判断して、別行動を取ったんじゃな」
「別行動……ですか?」
「あれだけの大群じゃ。町のほうにも現れとるかもしれん。そこから察するに、孤児院のほうに気が回ったんじゃろう」
なるほどと唸ってから、咲弥は頷いた。
「では、僕達も急ぎましょう」
「じゃな」
「了解しました」
咲弥達は全速力で、孤児院へと向かう
先を行くのは、紅羽とラルカフであった。どちらもかなり素早いが、咲弥も無理なく追えている。そのうえ、これだけ全力で駆けていても、息切れすらしない。
おそらく修行がなければ、置き去りにされていただろう。
咲弥はなかばぼんやりと、修行の成果を実感する。
そんな感想を、抱ける状況でもない。だが、現実逃避――何か考えていなければ、また心が軋んでしまいそうになる。
魔物と化した人を裂いた感触、息絶えた人達の虚ろな目、殺してしまった罪悪感――少しでも気を緩めれば、現実での出来事が心を壊しにやってくるのだ。
ただ今は、ネイ達の安否を確認するという目的がある。
だから苦しい感情を、なんとか切り捨てられていた。
(まずは、ネイさん達の無事を……)
咲弥はそう思い、走る足をさらに速める。
そうして、あっという間に孤児院付近にまで辿り着いた。
不意に、咲弥は妙な臭いを嗅ぎ取る。
(なんだ……焦げた臭い……?)
咲弥はとっさに視線を巡らせた。
やや遠くのほうで、立ち昇る黒煙を発見する。
嫌な想像が脳裏を駆けた。紅羽達は急ぐ足を速めている。
そして――
孤児院は激しい猛火に包み込まれていた。何かに火が燃え移ったのか、それにしてはあまりにも火の勢いが凄まじい。
施設の前に、ネイとシェリアの姿がある。
ネイは腰を落とし、ただ茫然と施設を眺めていた。
隣に立つシェリアは、愕然とした顔で立ち尽くしている。
そんな二人に、カマキリの形態をした魔物が迫った。
咲弥の心が、ひどく軋む。
こちらにいる魔物もまた、やはり人の面影を残している。カマキリの胴体が、若い男性を思わせる形をしていたのだ。
「ネイさん! シェリアさん!」
声を張ったが、ネイ達は身動き一つ取らない。
大きな鎌を思わせる手を、魔物が高く振り上げる。
咲弥は手を伸ばすが、間に合う距離ではない。
ネイ達へ向かって、大きな鎌の手が振り下ろされる。
そのとき――まるで瞬間移動でもしたかのごとく、紅羽が突如としてネイ達の前に現れた。おそらく彼女の固有能力、魔女の悪戯を発動したに違いない。
カマキリに似た魔物が、後方へと閃光に吹き飛ばされる。
ふと、咲弥は訝しく思った。
紅羽ほどの実力者なら、魔女の悪戯の間に仕留めていても不思議ではない。だが、ただ吹き飛ばしただけなのだ。
ラルカフも紅羽と一緒に、苦い顔で戦いに参戦する。
理由はまだわからないが、咲弥はまずネイの傍に寄った。生気の宿らない瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。
間近でネイの状態を見て、咲弥は言葉に詰まった。
「ネイさん……」
これほどまでに絶望で打ちひしがれた者に対して、なんと言葉をかければいいのか、咲弥にはまるでわからなかった。
かける言葉など、そもそも存在しないのかもしれない。
こちらの事情も知らず、魔物がそこかしこから現れる。
どの個体も、人らしき面影がそこかしこに残っていた。
途端に強い風が巻き起こる。
「うっ……」
魔物の群れの上を飛ぶ、一体の影を視界に捉えた。
背に翅が生えた蝶みたいな人型の魔物――咲弥の思考が、一瞬停止する。次第に恐怖に震え、ただ絶句するほかない。
紅羽が殺せなかった理由が、いまさらになってわかった。
ネイ達が避けようとしなかったわけを、やっと理解する。
「……ロナ……ちゃん……?」
いつも隅のほうでぬいぐるみを抱き締め、あまりみんなと馴染めていなかった女の子だ。そんな子が今、蝶を思わせる魔物となって浮遊していた。
魔物の大群の中には、見知った子供の顔がいくつもある。
咲弥は頭がおかしくなりそうだった。いったいなぜこんな状況へと陥っているのか、何一つとして理解できない。
胸の辺りを強く掴み、幾度となくさまざまな疑問が巡る。
ある思いが、漠然と浮かんだ。
(……どうにかして、助けられないのか……?)
咲弥は白爪を構え、そんな奇跡を願った。
しかしハクのほうからは、否定的な意識が流れてくる。
それはどこか、警告にも等しい感覚であった。
「な、どうして……救える可能性が、少しでもあるなら……助けられるかもしれないなら、助けるべきじゃないか!」
咲弥は白手を見つめ、つい声に出していた。
ハクから、諦めたような意識が伝わってくる。
魔物化したロナが、咲弥のほうへと距離を縮めてきた。
(速いっ……)
ロナの体当たりを、咲弥はかろうじて回避する。
ロナはそのまま、遥か上空へと飛び上がっていく。今度は落下まじりの凄まじい速さで、体当たりを仕掛けてきた。
とはいえ、雷の紋章術を纏ったラルカフほどではない。
咲弥はタイミングをはかりながら、そっと白爪を揃える。
ロナの攻撃をかわすと同時に、胸に白爪を突き立てた。
瞬間――
漆黒の世界に、まるで砂嵐みたいなものが飛び散る。耳を痛める激しいノイズが、そこら中から鳴り響き続けていた。
「な、んだ……これ……耳が……」
「痛い憎い苦しいつらい死にたい殺して壊して死ね殺す憎い苦しい痛い死ねつらい殺して壊して死にたい殺す苦しい痛いつらい死にたい殺して死ね壊して憎い殺す」
何度も何度も、呪詛じみた言葉が繰り返される。
その声には、激しい憎悪と怒りが宿っていた。
漆黒の闇の中に、音もなく静かにロナが現れる。
咲弥は恐怖に震えおののき、ゆっくりと後ずさった。
呼吸がひどく乱れ、喉も肺も焼けついたように熱くなる。
(……魂が溶けて……壊れてる? こんな……こんな……)
ロナの状態に、咲弥はひどい吐き気をもよおした。
もはや救いたいと願える、そんな次元の話ではなかった。ロナの魂は魔物とドロドロに融合しており、ほぼ人としての原型を留めていない。
途端に、バチンッと弾かれた音が鳴る。
精神世界から、現実の世界に咲弥は戻された。
おそらく、ハクが強制的に解除したに違いない。
吐き気が込み上げ、咲弥は嘔吐する。
涙のせいで、地面が歪んで見えた。
「咲弥様!」
どこか悲鳴じみた、紅羽の声が飛んだ。
咲弥は滲んだ視界を持ち上げる。
迫りくるロナが、口の中から鋭い針を伸ばしていた。
咲弥の顔を貫く寸前で、紅羽とラルカフが紋章術を放つ。
ロナは閃光と雷撃を同時に受け、咲弥から大きく逸れる。黒焦げとなったロナが落下して、地をこするように滑った。
「あぁ……あぁああ……」
物言わぬ屍と化したロナを見て、咲弥は心底震え上がる。
ラルカフが叱りつけるように言った。
「何しとんじゃ! ばか弟子!」
「咲弥様! ご無事ですか!」
「うるせぇえええ――っ!」
それは自分でも、信じられないほどの怒声であった。
咲弥は解放を解き、胸を強く掴んだ。
激しい息切れが生じ、必死になって堪える。
それから、咲弥ははっと我を取り戻した。
紅羽は無表情だが、ラルカフは訝しげな顔をしている。
「す、すみません! 僕、いったい……!」
心配してくれた人に対して、声を荒げて怒鳴った。
ありえない応じ方に、咲弥は錯乱に近い状態に陥る。
ふと、精霊の言葉が脳裏によみがえる。
『それは、汝の力。しかし、扱い方を違えてはいけません。汝の言う精神世界は、特に――汝が知りようもない危険が、多様に潜んでいますから』
(まさかロナちゃんの憎悪に、激しい怒りに……僕の精神が引っ張られたのか?)
そんな予感めいた推測が立つ。
ロナの死体を眺め、咲弥は心をひどく痛めた。
「魂が……壊れていました……絶対……助けられない……」
涙ながらに精一杯、咲弥は声を絞り出して伝える。
「事情は、あとで聞く! 今は生き残ることを考えろ!」
ラルカフはそう叱咤してから、魔物の群れに飛び込んだ。
「咲弥様……」
「ごめん……紅羽……あとで、必ず話すから……」
「……了解しました」
紅羽も魔物のほうへ向かった。
魔物化した人達が、次々に討たれる。紅羽もラルカフも、必死につらさを耐え忍んでいる雰囲気が滲み出ていた。
仲間が手を汚した場合、それをよしとするのか――
ふと、師の言葉を思いだした。
つらいのは、悲しいのは、自分だけではない。
ここにいる誰もが、同じ苦しみを抱えている。
咲弥は荒れ狂う心を、必死に抑え込んだ。
(くそっ……くそっ……くそっ……くそっ……)
ハクが止めた理由を、心に傷を負いながら痛感した。
どう足掻こうとも、助けられないぐらい壊れている。
だから救える方法は、ただ一つ――殺すほかないのだ。
紅羽達から離れた魔物が、ネイ達へ向かう光景を捉える。
咲弥は黒白を解放し、すぐさま獣の手を生みだした。
「うわぁあああああ――っ!」
咲弥は雄叫びを上げ、黒爪で魔物を深く切り裂く。
次第に雨が降り始め、土砂降りの中でも戦いは続いた。
ある一か所に、魔物の群れが固まっている。
空色の紋様を浮かべ、咲弥は心を殺して唱えた。
「清水の紋章第一節……降り頻る雨」
カッと紋様は輝き、豪快に破裂する。
蒼い煌めきが上空に流れ、途端に大きな水の塊を生む。
集まっていた魔物をめがけ、雫の弾丸が降り注いだ。
雨のせいか、その威力は想像を超えて増している。
大勢の魔物が一体も残らず、物言わぬ屍と化した。
しばらくして――
寒気を覚えるほど、激しい雨音だけが場を支配していた。
雨の影響か、孤児院の猛火はいつの間にか収まっている。
ネイとシェリアは終始、身動き一つ取っていない。
咲弥もまた、雨に打たれながら沈黙する。
あまりに理不尽な惨劇に、どうすればいいかわからない。
必死に考えてから、咲弥は言葉を口にする。
「まだ……生きてる人がいるかもしれません……僕……」
「一度、わしの家に帰るぞ」
咲弥の言葉を遮り、ラルカフはそう告げた。
咲弥はラルカフを見据え、言葉を返す。
「でも……もしかしたら……」
「……帰るぞ」
ラルカフは短く、優しく諭すような声を出した。
施設の中に、生きている者はもう誰もいない。修行で得た気配察知から、それはわかっていた。わかっていながらも、認めたくはなかったのだ。
ラルカフが傍に寄り、咲弥の腰を弱々しくぽんと叩いた。
咲弥はくっと息を詰めてから、ネイ達に視線を向ける。
大粒の雨に打たれ続けながら、ネイ達は孤児院の焼け跡の方角を眺めていた。絶望に染まった表情のまま、ずっと――
咲弥はまず、自然とネイに歩み寄る。
ネイと同じように膝を落とし、そっと頭を下げた。
「……誰も、救えませんでした……殺すしか、方法が……」
雨はさらに強さを増した。
その中で、ネイのかすれた声が飛ぶ。
「また……家族を失った……また……置いていかれた……」
「ネイさん……」
それは雨の雫か、はたまたネイの涙なのかわからない。
歪んだ目もとから、何度も何度も流れ落ちる。
「あんたになら、助けられたでしょっ? 精神世界とやらに行って、みんなを救えたんじゃないのっ? 紅羽の暴走を、止めたときみたいに! 精霊の力とかも使って……いろいろ方法は、あったんじゃ……ないの……?」
咲弥の胸にネイは顔を埋め、力のない拳で叩いてくる。
「なんで、救ってくれないの! なんで、助けてくれないの……助けてよ! ねえ……お願い……助けてよ……みんなを……お願いだから……ねぇ……ねえ……」
ネイの悲痛な叫びに、咲弥は涙でしか応えられない。
咲弥は唇を噛み締め、自分の手の肉に爪を喰い込ませる。
「なんのために……頑張ってたの……なんにも残らない……みんな、いなくなっちゃう……みんな、私を置いて……」
溢れ出る感情が声となったように、ネイは泣き叫んだ。
咲弥の胸にしがみついて、激しく泣きじゃくるネイを――咲弥はただ、両手で包み込んであげることしかできない。
「なんで……こんなことに……?」
シェリアの呟きが、漠然と咲弥の耳に残った。
この理解不能な現実までは、雨は流してくれない。
ただ冷酷なまでの冷たさだけが、咲弥達を染めていく。
この世界は――あまりにも、残酷過ぎた。