第八話 忍び寄る異変
(いやな雲行きねぇ……)
ネイは心の中で、そう呟いた。
本日は空の機嫌が、あまりよろしくない。吹いている風も奇妙な流れを見せており、独特なにおいが乗せられていた。
きっともうじき、一雨くるに違いない。
帰郷してから、もう一か月ほどの時が流れている。
ネイは町人の失踪に関して、こっそりと調べていた。だがどういうわけか、痕跡らしいものは何も発見できていない。
つまり突発的な事件ではなく、かなり周到な計画のもとに起こっているのだ。
また、ネイが帰郷する少し前の日から、失踪事件は完全に途絶えている。休息中か、あるいは別の町へ移動したのか、その真相はいまだ知れない。
いずれにしても、心配して戻ってきてよかったと思う。
記事で事件を知ったときは、生きた心地がしなかった。
孤児院まで被害が及んでいたら――そんな思いに駆られ、ネイは急いで帰郷することにしたのだ。
道中――咲弥と紅羽と出会ったのは、ただの偶然だった。
別に失踪に関して、手伝ってほしかったわけではない。
だから内情は伝えずに、旅行がてらに連れてきたのだ。
(まっ……咲弥は修行に打ち込めただろうし、紅羽は料理の勉強ができたから、結果的には連れてきてよかったわね)
ネイはそんなことを思いつつ、高台の草地で銀髪の少女と並んで座り、吹き抜ける風を浴びながら遠くを眺めている。
遠目にではあるが、ここからなら咲弥の姿がよく見えた。
実は度々、こっそりと様子を覗きに来ている。
この短期間で、咲弥の動きは飛躍的な進歩を遂げていた。指導が巧みなのもあるが、彼自身の素質もさほど悪くない。
咲弥と出会ってから、時折思っていたことがある。
彼はあまりにも、優し過ぎる。その歪なまでの優しさは、きっといつか必ず、彼自身を殺す結果に繋がるに違いない。
だから多少強引ではあったものの、老師に託したのだ。
紅羽には申し訳ないが、老師に託して正解だと思える。
戦闘力の向上に加え、精神面も強化されているだろう。
老師と戦う咲弥を眺め、ふと昔の記憶がよみがえった。
「咲弥様――かなり強くなっていますね」
この一か月、自ら紅羽が喋ることはほとんどなかった。
そんな彼女が言葉を発し、ネイは少し驚かされる。
彼女は無表情が多いため、感情が読み取りづらいのだ。
「あんた、怒ってんのかと思ってたわ」
深紅の瞳が、ネイのほうへと向かう。
紅羽は小首を傾げた。
「……? なぜですか?」
「咲弥と引き離されたから?」
ネイは苦笑まじりに、言葉を濁した。
紅羽はまた、前へ視線を戻す。
「別に怒っていません」
「そう? じゃあ、寂しかったのね」
「そうですね。ですが……」
紅羽はしばし沈黙してから、再び口を開いた。
「きっと咲弥様のためでもあると、そう思いましたから」
「はぁん……健気ねぇ……」
傍から見ても、明らかに咲弥に特別な感情を抱いている。とはいえ、それが恋心なのかどうかまではわからない。
ただ、シェリアと再会してまだ間もない頃――咲弥の隣にこっそりと寄り添い、彼女なりの意思表示はしていた。
シェリアに、咲弥を取られると思ったからに違いない。
料理を覚え始めたのも、おそらくその部分から来ている。鈍感な少年に、そんな乙女心を察するのは難しいだろう。
(まあ……人が口を挟むことじゃないか)
軽率に口を挟んではならないと、ネイはよく知っている。
それは、自分の過去が起因していた。
「あら、こんなところにいたのね」
声がした方向を振り向くと、赤髪の女が歩み寄ってきた。
「あんた、どこをほっつき歩いてたわけ?」
「私もいろいろと、忙しいのよ」
「そう。マザーが戻らないから、心配してたわよ」
「ふぅん」
シェリアが隣に腰を下ろし、遠くのほうを眺める。
しばらく無言が続いてから、シェリアは呟いた。
「なんだか……懐かしいわね」
「何が?」
「最初の頃は、こうしてカイトを眺めてたでしょ」
カイトの名を出され、ネイは少しびくっとする。
ある事件を境に、彼女はその名を固く閉ざしていた。
「師匠とカイトの訓練から、いつしか私達も参加したわね」
「……ええ」
「あんた、カイトより素質あっちゃってさ」
「……ええ」
「カイトじゃなく、あんたが冒険者になるとはね」
「……ええ」
沈黙が広がるが、長くは続かなかった。
「咲弥に、カイトを重ね合わせたの?」
シェリアの問いに、ネイは素直に答えられなかった。
知らずのうちにではあるが、重ね合わせたのは否めない。過去の夢を見てようやく、そうだったと理解に及べたのだ。
あの歪なまでの優しさが、カイトにとてもよく似ていた。
まだ出会って間もない頃――咲弥は見知らぬ少年のために命をかけ、報酬を失ってでも全力で助け出そうとした。
その後も彼は、さまざまなところで優しさを見せる。
得た報酬を孤児院のためにと、咲弥は置いてから去った。
そこにいら立ったのは、偽りのない事実ではある。だから殴らなければ気が済まないと、そう思ったのも事実だった。
(いら立ったのは……カイトと、どこか似てたからか……)
理解した今だからこそ、自分の行動原理を呑み込めた。
とはいえ、カイトの影を追っていたわけではない。容姿も違えば、喋り方も異なる。まったくの別人であると、ネイはしっかりと認識できていた。
ただ重ね合わせた事実は、どう足掻いても否定できない。
「……そうかもね」
時間をかけて答えたが、あまり話題を長引かせたくない。
ネイにとっても、シェリアにとっても――
カイトの話題は、苦痛にしかならないからだ。
「……そう」
シェリアが相槌を打つや、不意に紅羽が立ち上がった。
嫌な空気に、いたたまれなくなったのかもしれない。
「紅羽、別に気にしなくてもいいわよ」
「話はよくわかりませんが、この空気……なんでしょうか」
ネイは、つい苦笑する。
繊細な彼女は、この微妙な空気を察したのだろう。
「だから、気にしなくていいって」
「咲弥様……!」
銀色の髪をなびかせ、紅羽が訓練所のほうへ駆けだした。
呆気に取られているネイの視界に、不穏な影が入る。
紅羽が感じ取っていたのは、ネイ達の雰囲気ではない。
もっと別の、何か異質な気配だったのだ。
咲弥達の場所に、魔物らしき何かが複数体現れている。
「なによ、あれ……」
ネイは素早く立ち上がった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
対人訓練は、中断せざるを得ない状況に陥っていた。
咲弥は愕然としながら、周囲に視線を巡らせる。
気味の悪い魔物が、続々と集まって来ていた。
どうやら、虫に属した魔物らしい。
蜂の針が人の上半身だったり、人の顔面と無数の足を持つムカデだったりと、どの魔物も見た目がかなり恐怖を煽る。
「なんじゃい……この魔物どもは……」
ラルカフの言葉に、咲弥は驚きを隠せない。
師ですら認識外の魔物が、なぜか集結しつつある。
「咲弥! 気を抜くでないぞ!」
「はい!」
魔物それぞれが奇声を放ち、その足を速める。
咲弥とラルカフは互いに、別々の場所へと飛び退いた。
空色の紋様を浮かべ、咲弥は右手を差し出して唱える。
「水の紋章第二節、天空の砲撃!」
紋様が砕けた瞬間、咲弥の右手から蒼い一線が放たれた。
紅羽の影響を大いに受け、なんとか生みだせたそれは――液体でも気体でもない、レーザー型の紋章術であった。
手のひらをも超える太い一線が、魔物へと突き進む。だがカブト虫に似た魔物が背中で防ぐや、蒼い筋はまるで花火のごとく四方八方へ離散した。
傷一つなく、かなり強度のある魔物だと断定する。
(くっ……)
咲弥は心の内側でうめき、ラルカフに視線を滑らせた。
師もまた、紋章術で魔物を攻撃している。
上手く狙いを定め、確実に仕留めている様子だった。
咲弥は、ふと気づく。自分がいる付近よりも、ラルカフが立つ付近のほうが、明らかに多くの魔物が群がっていた。
(狙いは、師匠……? なんなんだ……この魔物は……)
咲弥は心の中で呟きながら、黒手を大きく開いた。
道中の魔物の攻撃を、素早く潜り抜ける。そしてまずは、紋章術を防いだ魔物に向かって、鋭い黒爪を振るう。
物理を破壊する黒爪は、強度の高い部分すらも裂いた。
「キャァアアアア――ッ!」
カブト虫らしき魔物が、まるで女のような悲鳴を上げる。
それはどこか、人の悲鳴ととてもよく似ていた。
咲弥はぞっと怖気を覚え、途端に身をびくつかせる。
裂かれた魔物の背に、女性らしき目が覗いていたからだ。
「なっ……」
これまで遭遇した、どんな魔物とも異なる。
人が魔物に変化したような――考えている暇もなかった。今度はハエに似た魔物が、恐ろしい速度で攻め込んでくる。
咲弥はとっさに黒手を振り上げ、大きく距離を取った。
「黒爪空裂き」
黒爪にオドを纏わせ、力強く空を切り裂いた。
裂かれた空が衝撃を生み、飛ぶ斬撃となってハエの魔物へ襲いかかる。
魔物は強烈な爪撃を体に受け、地を滑るように墜落した。
「咲弥様!」
「く、紅羽ぁっ?」
神々しい美貌をもつ銀髪の少女が、もの凄い速さで現れた――久々に目にした紅羽の美しさに、ほんの一瞬見惚れる。
紅羽は純白の紋様を浮かべ、可憐な声で唱えた。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
純白の紋様が砕け、小さな光球が舞い踊った。
虫の脆そうな部分が、次々に切り裂かれる。
紅羽の唐突な登場に驚くが、ぼんやりもしていられない。咲弥も黒爪で応戦を始め、現れる魔物を次々に倒していく。
咲弥は師を気にかけ、素早く視線を移した。すると魔物の群れの中へと飛び込む、ラルカフの姿を目で捉える。
咲弥は驚倒してしまい、少し体が硬直した。
「雷火の紋章第六節、地獄の裁き」
金色と赤色が交じり合って輝き、紋様が盛大に破裂した。
ラルカフを中心として、雷の混じった炎が素早く広がる。
魔物は焼かれながら、凄まじい電撃を浴びていた。
(別属性の合体……? まるでロイさんみたいな……)
ロイが紋章符で、似たことをしていた。
咲弥は関心を示したが、今は戦いに集中する。
そして――無数の魔物を、やっとの思いで倒しきった。
「はあ……はぁあ……」
黒白の解放を解き、咲弥は大きく息を切らした。
銀髪の少女が、颯爽と駆け寄ってくる。
「咲弥様。ご無事ですか?」
「はぁ……はぁ……紅羽、どうしてここに……?」
ラルカフは鼻で笑った。
「たまに高台のほうから、覗いておったじゃろ」
ラルカフの指摘に驚き、咲弥は周辺を眺める。
覗ける場所が多過ぎて、どこからか見当もつかない。
「にしても、こいつぁ……」
魔物の死骸の傍に寄り、ラルカフが調べ始めた。
そして深いため息を漏らしてから、静かに立ち上がる。
「やはりじゃ……こいつ、行方不明となっとった男じゃな」
その言葉に、咲弥は震撼する。
あまりに衝撃的な発言に、思考が停止した。
「人……嘘……だって……魔物だと……だから……」
再び思考が働くのに呼応して、手に妙な痺れが発生する。
「人が魔物化? いや、死体を魔物にか? なににしても、厄介そうな話じゃな」
「違う……だって……それじゃ……人を殺し……」
ラルカフは険しい表情で、咲弥のほうへ詰め寄ってくる。
凄まじい速さで腹を殴られ、自然と草地に膝を落とした。
「がはっ……!」
「咲弥様――!」
「まったく……ちょっと落ち着け、ばか弟子」
いつの間にか、紅羽が寄り添っていた。
喉が痛い。
肺や心臓も痛い。
自分でも気づかない内に、変な呼吸をしていたようだ。
紅羽の声すらも届かないほど、精神が参っている。
「まだ仔細はよくわからんが……疑似とはいえ、これが人を殺めるってことじゃ。殺らなきゃ、ワシらが殺られとる」
それは諭すように、しかし叱咤に近い声で続けられた。
「しっかりせんか! おそらく、まだ終わっとらん。お主がどうであろうが、被害は拡大していくだけじゃ。悔いるなら全部終わってからにせい」
嫌な汗が全身から湧き、目に涙が溜まる。
もしかしたら、まだ助けられたのではないか――
そんな考えが、咲弥の頭の中をぐるぐると巡る。
「今は心を殺せ――悔恨も懺悔も何もかも、生き残れた奴の特権じゃ。まずは生き残ることだけを考えろ。ばか弟子!」
草地に指を喰い込ませ、溢れ出る涙を抑えるよう努める。
師の言葉を頭で理解しても、心までは及ばない。
もう二度と、戻れない気がした。
平和な国で生まれ育ち、ずっと生きてきた。
人を殺めるのは、犯罪者のやることだと教わったのだ。
その自分が今、人を殺めたのに等しい結果となっている。
使命を果たしたところで――家族に合わせる顔がない。
人を殺めた犯罪者に、帰る場所などない気がした。
「私が……咲弥様をお護りします。安心してください」
紅羽が自身の胸に、そっと咲弥の頭を抱き寄せた。
とても優しく、温かい。紅羽の心音が聞こえてくる。
心が砕けたように、咲弥の感情は溢れ出した。
もはや涙を止めるすべなどない。
「……たくっ。それよりも、お嬢ちゃん一人か? 遠過ぎてなんとなくの気配ぐらいしか、わしにゃーわからんが」
「いいえ。ネイとシェリアもいましたが――おかしいです。付近にネイ達のオドが、まったく感じられません」
紅羽の発言が耳に届き、咲弥の心臓が強く跳ねた。
「やはり、あやつらもおったか。襲われたかのぅ。しかし、この程度であれば、ネイの奴になら余裕じゃろうにな……」
「わかりません。ついて来ると判断しておりましたので」
「ネイさん、シェリアさん……」
なんとも言えない悪い予感がする。
咲弥の頭の中が、ネイとの記憶に満たされた。
「ほれ。お前さんがいくら悔やもうが、事態は止まらん」
ラルカフはそう告げてから、声音を低くして言う。
「ずっとそのままなら、もっと多くを失うぞ」
まるで心臓が、急激に冷え込んでいく感覚がした。
優しく抱き寄せてくれた紅羽から、咲弥はそっと離れる。
「ごめん、紅羽……ありがとう……ネイさん達を、探そう」
「了解しました」
涙を雑に拭い捨て、咲弥は立ち上がった。
訓練所には、無数の――人の死体が転がっている。
雲行きの悪い空と同様、不穏な空気が場に満ちていた。