第五話 本日の方針
それはまだ、ネイが幼かった時代の記憶――
魔物に家族を奪われ、世界にぽつんと独り取り残された。
ネイの瞳には、ただ暗い景色しか映らない。
自分も家族と一緒に、この世から旅立てればよかった。
そんな思いだけが、ぐるぐると胸の内側を巡り巡る。
初めて孤児院を訪れた日は天候の悪い、寒い季節だった。
はらはらと流れ落ちる雪の世界に彩りはない。
出迎えてくれた孤児院の責任者――マザーは聖母のような微笑みをもって、温かく家族として迎え入れてくれた。
しかし、ネイの心はずっと闇の中を漂い続ける。
暗い世界に、感情など湧くはずもない。
そんなネイの前に、少女と少年が歩み寄った。
二人の年頃は、自分とさほど変わらない。
同じ赤髪だからか、少女は妙なぐらい突っかかってくる。どれほど無視をしても、事あるごとに首を突っ込んできた。
少年のほうは、未来を語るのがとても好きらしい。一言も話さないネイに、いつも見据えた未来について語っていた。
しばらくの時が流れ――
孤児院での生活を経て、世界に明るさを取り戻していた。
相変わらず、少女のシェリアとは反りが合わない。いつも喧嘩ばかりしていたせいで、そのたびにマザーに叱られた。
少年のカイトは、飽きもせず冒険者の話ばかりしている。
ネイにすら運動で劣る者が、なれる職業だとは思えない。だが前向きな性格をしたカイトは、決して諦めなかった。
孤児院付近に、少し変わり者の老爺が一人暮らしている。
カイトはその老爺から、オドの指南を受け始めたのだ。
ひたむきなカイトに、感化されたのは否めない。
いつからか、ネイ達もカイトに付き合うようになった。
最初はただ、なんとなくの付き合い程度でしかない。
日が経つにつれ、自分でも知らなかった事実を知る。
二人に比べ、ネイは紋章者としての素質があったらしい。めきめきと才能が伸び――ネイの心に、不穏な影が宿る。
失っていた世界の明かりを、ようやく完全に取り戻した。
家族を奪った憎き魔物を、必ず自分の手で討ち取りたい。だからどれほど厳しい訓練でも、必死に耐え忍んだ。
血反吐を吐くことも、一度や二度では済まない。
ネイはいつしか、カイト以上に訓練にのめり込んだ。
もし復讐心を悟られれば、止められるかもしれない。そう思い、ネイは悟られぬようにも努め始めだした。
お調子者として、普段からおどけることにしたのだ。
少しずつ、しかし着実に、復讐への道を歩み続ける。
もはや町の大男ですら、ネイに勝てる者はいなくなった。
ある日、ある事件をきっかけに――
ネイの復讐は、道半ばに跡形もなく消え去る。
家族を失ったときと同じぐらい、喪失感だけが残った。
(ん……)
不意に、ネイの意識は覚醒へと至った。
目もとの付近に、妙な違和感を覚える。
そっと手の甲で拭うと、何やら湿った感触があった。
故郷に帰ってくると、たまに昔の夢を見る。
普段はとりとめがない夢も、このときだけは少し違う。
ネイは静かにため息をつき、ゆっくり上半身を起こした。
窓から朝日が差し込み、すっと目を細める。
しばらくの間、眩しい光を呆然と見つめ続けた。
ふと――黒髪の少年の姿を頭に思い描く。
(そっか……そういうことか……)
ネイは漠然と、自分の中だけで納得した。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
孤児院を訪れてから、三日目の朝を迎えていた。
朝の清掃の手伝いを終え、咲弥は大広間にいる。
孤児院内からは、本日も元気な声が響いていた。
「おーい、咲弥! 今度は、こっちので遊ぼうぜ!」
「そんなのより、こっちのほうがいいってば!」
おもちゃを片手に、男の子達が言い合いを始めた。
咲弥は苦笑まじりに告げる。
「一つより二つ。一緒に遊ぼう。時間はたっぷりとあるし」
目をキラキラと輝かせ、子供達は納得してくれた。
咲弥は意識して、部屋の隅へと視線を移す。
ぬいぐるみを抱えた女の子が、膝を抱えて座っている。
咲弥は歩み寄り、女の子と目線の高さを合わせた。
「ロナちゃんも、一緒に遊ばない? きっと、楽しいよ」
声音を優しくして伝えるが、やはり本日も無反応だった。
ロナはまるで、出会った頃の紅羽とよく似ている。感情が表に出ることもなく、口を開いてくれるわけでもないのだ。
孤児院にいる経緯から、それとなく事情は察している。
きっとつらい何かが、彼女をこうさせたに違いない。
「もし遊びたくなったら、いつでも遠慮なく言ってね。僕でよかったら、ロナちゃんの遊び相手になるから。気が向いたときにでも、声をかけて」
無反応のロナに向け、そう伝えておいた。
いつか声をかけてくれると信じて、咲弥は立ち上がった。
「咲弥! はーやーく!」
「うん。今、行くよ」
遊んでいると、次第にほかの子達も集まり始める。
もとの世界では、こうして幼い子と遊ぶ経験はなかった。
(兄弟がいたら、こんな感じだったのかな……)
一人っ子の咲弥は、そんな感想を抱く。
家族に連想が働くが、すぐにそっと思考を打ち消した。
寂しさを募らせるだけ、胸が苦しくなるとわかっている。
(にしても、この子達……毎日、ほんと元気だな)
子供の体力を、ばかにはできない。
眠るまで、ずっと活発に動き続けていた。
この数日間で、気づいたことがある。きっと畑や果樹園は食卓を潤す以外にも、体力を減らす目的もあるのだろう。
「ちょ、ちょっと! たんま!」
子供達が雪崩かかり、咲弥は押し倒された。
やんちゃな子も多いため、咲弥はもみくちゃにされる。
そんなとき、大広間の扉がゆっくりと開いた。
「い――っ?」
咲弥は思わずうめく。
もう数か月の付き合いになるが、ネイが髪を下ろしているところを初めて目にした。背の中頃くらいまである赤髪が、右へ左へと激しく乱れている。
着ているのは、丈の長いシャツ一枚だけであった。しかもかなりはだけており、目のやり場に困る姿となっている。
そんな状態のネイが、眠たげな顔で入ってきたのだ。
「ネイさん!」
「あら、お早いわね。ご苦労さん」
「そんなことより、ちゃんとした服を着てください!」
「硬いこと言いなさんな。自分ちでくらいゆっくりさせて」
「ほかの子供達もいます!」
「大人の魅惑で虜にしちゃうわね」
あくまでおどけるネイに、咲弥はつい頬が引きつる。
「ねぇちゃん、おはよー」
子供達が次々に、咲弥から離れた。
それぞれ朝の挨拶をしながら、ネイのほうへと寄る。
ネイは両膝を床に下ろし、傍にいる子の頭を撫でた。
「ん……? あれ? 紅羽は」
「ああ……それがですね……」
咲弥は、昨日の夜の出来事を振り返る。
それは就寝前の身支度を、整えていたときのことだった。
マザーと歩く紅羽を見かけ、なにげなく理由を尋ねると、何を思ったのか、料理を学ぶのだと意気込んでいたのだ。
マザーの料理は、王都の酒場に負けないぐらい美味しいが――結局、なぜ料理を覚えようと思ったのかまでは、いまだ教えてもらえないままでいる。
咲弥は事実をそのまま、ネイに告げた。
「マザーさんと一緒に、料理をしてると思います」
「料理?」
ネイは訝しげに問い返した。
咲弥は困り顔を作って答える。
「はい。昨日の夜に、突然そんなことを言い出しまして」
「ふうん。まあ、覚えておいて損なことはないわね」
「ははは……そうですね」
「あいつは?」
もはや名前を言われずとも、咲弥は察せるようになった。
「シェリアさんは急用だとかで、今朝早くに出ましたよ」
「へぇ。急な話ね」
「なんだか、仕事の用事っぽかったです」
「ふぅん」
会話の切れ目に、マザーの声が遠くから飛んだ。
「みんな、朝食の用意ができたわよぉ!」
「っしゃ! 腹でも満たしますか!」
「はぁーい!」
子供達が慌ただしく、ネイと大広間から出て行った。
咲弥も最後尾で、食堂へと向かう。
大きなテーブルの上には、さまざまな料理が並んでいた。
すでに、マザーと紅羽が席に着いている。
咲弥は、紅羽の隣の席に腰を下ろした。
マザーは周囲を眺めてから、そっと両手を組んだ。
「それじゃあ……みんな、手を組んで」
全員が両手を組むと、祈り言葉を唱える。
すっかり冒険者達の習慣に染まっていたが、初めて訪れた村のほうでも、こうして食事の前には祈りを捧げていた。
リフィア――神の御使いへの祈りだ。
「リフィア様の恵みと加護に感謝し、食事をいただきます」
「いただきます」
子供達も含め、咲弥は習わしに則って言葉を発した。
祈りの時間が終わるや、全員が食事を取り分けていく。
マザーの手料理はどれも美味しく、しかも健康的だった。
栄養バランスをきちんと考え、料理が作られている。
紅羽が身を乗り出して、小皿に料理を取り分けた。
魚の切り身が乗った小皿を、差し出してくる。
「咲弥様、これを食べてみてください」
「あ、うん。ありがとう」
野菜と魚を使った料理は、少し酢の物の匂いがした。
口に入れるや、魚の甘味に酢の味が絡み合う。
噛むとさらに混ざり合い、味覚を刺激する味となる。
「うわ。凄く美味しいや」
「ふふ。よかったわね。それは、紅羽さんが作ったのよ」
マザーの言葉に、咲弥は少し驚かされた。
とても料理が初めてだとは思えない。
マザーはにこやかに声を紡いだ。
「やっぱり、冒険者だからかしら。とっても筋がいいのよ。教えれば教えるほど、するすると呑み込んでね。包丁捌きも料理人顔負けだったんだから」
「へぇええ……」
咲弥はマザーに、感嘆の声で応じた。
おそらくそれは、冒険者だからではない。すべてにおいて万能型の紅羽だからこそだと、心の中だけで思っておいた。
料理をひとしきり眺めてから、咲弥は紅羽に視線を移す。
「本当に美味しいよ。これからもちょくちょく、紅羽に何か作ってもらおうかな」
「はい」
紅羽がそっと微笑んだ。
何度見ても、不意打ちの微笑みにどきりとする。
「なかなかやるじゃない。確かに、こりゃ美味いわ」
いつの間にか、ネイも同じ料理を食べていた。
マザーが呆れながらに告げる。
「あんたも少しは、料理の勉強をしたらどう?」
「うぅーん……酒場の飯で充分だからねぇ」
「まったく……で、今日は何をするつもりなの?」
マザーの問いから、ネイは虚空を見上げた。
「ああ……あのさ、師匠ってまだ生きてんの?」
師匠と聞き、咲弥は少し興味をそそられる。
そんな人物がいたのは、初耳だったからだ。
マザーは大きなため息をついた。
「今もぴんぴんしているわよ」
「そっか……じゃあ、久々に顔でも見せに行くかな」
「あたしは、あんま好きじゃないねぇ。あんたを危険な道に進ませた張本人なわけだし……それに……」
マザーは言葉を不自然に止め、少し沈黙した。
「とにかく、あんたからの援助は確かにありがたいけれど、あんまり危ないことだけは、しないでおくれよ」
「わかってるって」
「本当にわかってんのかいね。この子は……」
ネイがフォークの先を向けてくる。
「食べ終わったら、あんた達も準備しなさいよ。私の師匠に会わせてあげるから」
「こらっ。はしたない」
マザーの叱咤に、ネイは苦い笑みを浮かべた。
酒場での癖が、完全には抜けきっていない。
「まったく。だいたい、あんたはね――」
マザーの小言を聞きながら、咲弥は少し楽しみに思えた。
ネイの師匠がどんな人なのか、想像は尽きない。
「咲弥様。これも、私が作りました」
「へぇ。それじゃあ、それもいただくよ」
「はい」
どこか嬉しそうな紅羽を、とても新鮮に感じる。
朝食が終わる頃、咲弥は腹がはち切れそうになっていた。