第四話 孤児院でのひととき
ネイの故郷にある孤児院は、町の少し外れに建っていた。
付近には、畑や果樹園がある。そこでは子供達の姿も多く見られ、どうやら学びの一環として育てさせているらしい。
木造の孤児院は少し古ぼけていたが、妙に落ち着きのある雰囲気が漂い、どこか安心感を覚えさせる景観をしている。
そんな孤児院の玄関口で、一人の老婆が出迎えてくれた。
「ネイ。シェリア。おかえりなさい。そして、初めまして。私はこの孤児院の総責任者、マルガレット・スティゴア――みんなからは、マザーと呼ばれているわ」
とても穏やかな声を紡ぎ、マザーはにっこりと微笑んだ。
細身のマザーは、妙に落ち着く気配を纏っている。とても居心地がよく、それこそ母親のような安心感に満ちていた。
そんな感想を抱きつつ、咲弥は深く頭を下げる。
「初めまして、咲弥です。しばらく、お世話になります」
「紅羽です」
淡々とした口調で、紅羽は簡潔に名前だけを告げた。
ネイは大きく笑い、気さくに喋る。
「ただいま。マザー。お土産をたっぷりと持ってきたから、みんなに分けてあげて。たぶん人数分はちゃんとあるはず」
「あなたが友人を連れてくるだなんて、また成長したのね」
「私は日々、成長しかしてませぇん」
両手を後頭部に置き、ネイはすたすたと孤児院に入った。
ネイの隣に、シェリアが並ぶ。
「中身は、子供の頃のままじゃない」
「はあ? 節穴? 大人の色気が出まくってるわよ」
「大人の色気? ああ、妄想の中のあんたの話ね」
「あんたがお子様過ぎて、ちょっとわかんないかぁ」
「はあ? ばか? 私のほうが、女としてなら経験豊富よ」
「へえ、そうかいそうかい」
まだ言い合いを続ける二人を、苦笑まじりに見送った。
ふと、マザーのため息が聞こえる。
「本当……どちらも、子供の頃のままね……」
マザーは呆れ顔をしてから、咲弥のほうを振り返った。
「王都からの長旅で、疲れたでしょう? あなた達の部屋も用意しているから、ゆっくり寛いでちょうだいね」
「わざわざすみません。ありがとうございます」
「それじゃあ、案内するわ」
マザーの後ろを、咲弥は紅羽と一緒についていく。
施設内では木の香りのほか、甘い匂いが漂っている。
「そうそう。今、果実を使ったお菓子を作っているの。もしお腹が空いているなら、あなた達もあとでどうかしら?」
おそらくそのお菓子は、子供達のために作られている。
咲弥は申し訳ない気持ちを込め、マザーに問い返した。
「僕達も、食べてしまっていいんですか?」
「ネイから連絡を受けて、ちゃんと多めに作ったから」
「ああ……すみません。お言葉に甘えて、いただきます」
「遠慮なんかしなくてもいいのよ。若いんだから」
マザーは肩越しに、柔らかな微笑みを見せた。
本当に遠慮しないわけにもいかない。
半分は社交辞令として受け取り、愛想笑いをした。
「ところで、あなた達は町の噂を聞いて来たの?」
町の噂など聞いた記憶がない。
咲弥は小首を傾げる。
「噂……ですか?」
「あらやだ。ごめんなさい。違うのね」
「ネイさんからは、休息がてらにと言われましたので」
「そう」
それ以上は語られず、何か妙にもやもやする。
咲弥は、もう少し突っ込んで訊いてみた。
「噂って、どんな噂なんですか?」
「最近、町のほうで――失踪事件が起こっているらしくて。心配したから、あの子が帰ってきたんじゃないかな、とね」
「失踪事件ですか……なんだか、物騒ですね」
「ここ最近は、各地でも妙な事件が起こっているらしいわ。できればあの子には、冒険者をやめてほしいんだけれども」
ふと、シェリアの言葉を思いだした。
マザーは冒険者に、あまりいい印象を持っていない。
失言に気づいたのか、マザーが言葉を取り繕った。
「ごめんなさいね……別にあなた達冒険者を、否定しているわけじゃないの。ただ親心としては、あの子に危ない真似はしてほしくない……それだけの話なのよ」
冒険者は、魔物の巣に飛び込むことも珍しくはない。
内情を知っていれば、それが普通の感覚だとも思える。
肩越しに見えるマザーの笑顔は、どこか寂しげであった。
「まあ、あの子が冒険者として、人生を楽しんでいるのなら……あまり小うるさくは、言えないのだけれどもね。それにあの子のお陰で、この孤児院が潤っている事実もあるから、余計に、ね?」
マザーの心情を察し、咲弥は言葉を選んで伝える。
「保護者としては、それが当然の考えだと思います。でも、ネイさんは本当に、毎日とても楽しそうに過ごしています」
「そう。それを聞けただけでも、ちょっと安心したわ」
二階に上がった先にある扉の前で、マザーは立ち止まる。
「ここが咲弥さんの部屋で、左隣が紅羽さんの部屋よ」
扉が開かれると、中はかなり綺麗に清掃されていた。
王都にある冒険者専用施設と、なんら遜色がない。
「わあ、凄くいい部屋ですね。ありがとうございます」
「ゆっくり寛いでね」
「はい! あっ、もし何か、お手伝いできることがあれば、おっしゃってください。お世話になるお礼に、できることはなんでもしますから」
マザーは少し、呆気に取られたような顔をした。
しかしすぐに、いつもの朗らかな微笑みに変わる。
「ふふっ。別に気を遣わなくてもいいのよ」
「いいえ。僕自身が、そうした性分ですから。これまでも、お世話になった方々のお手伝いをしていました。ですから、僕にできることであれば、なんでもします」
「そう? それじゃあ、いろいろお願いしちゃおうかしら」
「はい。なんでも遠慮なく言ってください」
顔は微笑んではいるが、マザーの感情は複雑そうだった。
懐かしさか、あるいは寂しさか――そのどちらとも取れる色が、マザーの茶色い瞳には宿っているような気がした。
「マザーさん。どうかしましたか?」
「いいえ。少し、昔を思い出しただけ……」
マザーは首を横に振り、小さなため息を漏らした。
「お菓子ができたら、また呼びに来るわね」
「はい。わかりました」
マザーを見送ったあと、咲弥は紅羽を向いた。
「それじゃあ、ちょっと部屋で寛いどこうか」
「了解しました」
咲弥は部屋に入り、自分の荷物を椅子にかけておいた。
早速ベッドに寝ころび、少しぼんやりとする。
本来こうした時間は、通信機で情報を漁っているのだが、それができないように、今はネイに取り上げられていた。
何もすることがないのは、案外つらい状態でもある。
お菓子作りの見学をしようと思い、咲弥は立ち上がった。
そのとき、ノック音が響く。
「はい?」
さっとドアに駆け寄り、咲弥は静かに開いた。
紅羽かと思ったが、そこには意外な人物がいる
「あ、シェリアさん。どうしたんですか?」
「んふふぅん……」
奇妙な笑みを浮かべ、さっと咲弥の部屋に入ってきた。
両手を後ろに回しており、何か持っている気配がある。
「ねえねえ。ちょっと、手伝ってほしいんだけど?」
「古代語の話ですか?」
「そう。どうしても、わからないところがあるの。いい?」
何もすることがないよりは、遥かにましであった。
咲弥は苦笑まじりに、シェリアの願いに応える。
「僕で力になれるなら……わかりました」
「やったぁ。ありがと」
不意に、シェリアの顔が近づいた。
シェリアの柔らかな唇の感触が、頬を通じて伝わる。
「いっ……!」
一気に緊張が高まり、急激に頬が熱を帯びる。
シェリアは鼻歌まじりに、上機嫌で進んだ。
咲弥は何が起こったのか、それを考えるのに必死だった。
唇が触れた頬を押さえ、シェリアの背を見つめる。
背後に持っていたノートを数冊、テーブルの上に置いた。
「それじゃあ、ちょっとお願いしていい?」
「え、あ……え、は、はい……」
内心の焦りを抑え込み、咲弥はかろうじて返事をした。
思いがけない出来事に、心臓がはち切れそうになる。
戸惑いながらも、咲弥は席に着く。シェリアは咲弥の傍で立ったまま、テーブルに手をついて前屈みの姿勢を保った。
あまり近寄られると、緊張感がまったく和らがない。
「ど、どうぞ……シェリアさんも座ってください」
「これでいいの。それよりも……」
シェリアが一冊のノートを広げる。
咲弥は諦めの境地に達し、内容に目を通した。
ぶつ切りの情報が、中にはちりばめられている。
文字は読めても、理解まではできない部分が多い。
「あの……これって、どういう古代語なんですか?」
「とある修道遺跡から発掘された古文書でね。考古学者達の間では、なんらかの信仰を目的とした文書って見解なのよ」
「そうですか……確かに、それらしい文字がありますね」
シェリアは身を乗り出した。
咲弥の背に彼女の胸があたり、柔らかな感触が伝わる。
うめきそうなのを、咲弥は必死に堪えた。
「どれ?」
「え、えっとですね……例えばこの文字なんですが、これは聖獣と読みます。そしてこちらが、最果ての祠……ですね」
「最果ての祠……ああ、あれのことね……聖獣……そうか。あの石像は、きっと聖獣を模して造られていたんだわ……」
シェリアは吐息を漏らし、少し驚いた顔をしている。
そして、また別のノートが広げられた。
「これは、どうかしら?」
シェリアの声には、わずかな緊張が宿っている。
咲弥は真面目に、ノートの文字に目を通した。
シェリアが細い指で、文字の一部分を差し示す。
「特に、ここが重要だと思うの」
(天……この先から読めなくなってるな……)
咲弥はすぐに気づき、シェリアに伝える。
「……すみませんが、読めません」
「えっ……?」
驚くシェリアに、咲弥は落ち着いて疑問を述べる。
「あの……たぶんですが、文字を間違ってませんか?」
「嘘……そんな……」
シェリアは、目に見えて落ち込んでいる。
咲弥はなんとか、元気づけてあげたいと思う。
「ちょっと、ペンを借りてもいいですか?」
「え、ええ……」
この世界での文字を学び、書く練習をしていた最中に似た事例がある。ほんの少しでも書き損じてしまえば、まったく翻訳されなくなるのだ。
その練習中、偶然にも発見した裏技みたいなものだった。
「何か、適当に書いてもいいページはありますか?」
「それなら、こっちのノートに……」
「わかりました」
咲弥はまず、連なる古代文字をそのまま描き写した。
このままでは当然、間違っているのだから読めない。
(間違った文字に二重線を……それから……)
咲弥は片目を閉じてから、瞼を手のひらで覆い隠した。
間違った文字の類似文字が、暗い闇の視界に描かれる。
浮かんだ文字を、間違った文字と入れ替え――正しい文、または単語だった場合、意味が読み取れるようになる。
「こ、これは……」
咲弥は自然と、眉間に力がこもる。
「なに? 何かわかったの……?」
「えっと……」
咲弥はつい、言葉を呑み込んだ。
読み取れた古代語から、漠然とある存在が脳裏に浮かぶ。
純白の翼を六つ背に携えた――この世界へと、咲弥を放り込んだ存在だ。
焦らされた子供のように、シェリアが距離を縮めてくる。
「なんて書いてあるの? ねえ! 教えてよ!」
「天使の器……と、書いてあります」
「……はっ……!」
シェリアは沈黙した。
その顔は明らかに、何か思いあたる節があるらしい。
「そっか……そういうことだったのね……」
シェリアはそれ以上、何も言わなかった。
どういうことかはわからないが、力にはなれたようだ。
しばしの静寂を経て、シェリアは大きく両手を広げる。
「凄い凄い凄い! 本当に凄い! ありがとう、咲弥!」
シェリアに抱き締められ、恥ずかしさが込み上がる。
柔らかな感触のすべてが、あちこちで伝わってきた。
「ちょ……」
突然――ノックもなく扉が開かれた。
「おぉい、咲弥! おや……つ……」
振り向いた瞬間、シェリアの唇の感触をまた頬で味わう。
そして視線の先には、扉を開いた姿勢で固まったネイと、手を前で組んでいる紅羽が、石像のごとく立っていた。
途端に女達の視線は重く、じっとりとした目に変化する。
「ち、ちが……」
「まぁた別の女に手を出してんのか!」
「ま、また……ご、誤解ですって!」
「何が誤解か! はっきりこの目で見てんのよ! ねえ?」
憤怒の形相をしたネイが、紅羽のほうを向いた。
紅羽はこくりと頷く。
「はい。目撃しました」
「い、いや……ちょっと、お手伝いしただけで……」
ネイが大袈裟なため息を吐いた。
シェリアがくすりと笑う。
「ふふっ。取っ、ちゃっ、た」
「あんたね、あげないっつってんでしょうが!」
「早い者勝ちなんでしょう?」
「そんなこと、一言も言ってないんだけれど?」
「私が先にとか、言ってなかったっけ?」
ネイとシェリアが、また言い合いを始める。
どう誤解を解けばいいのか、咲弥は激しく悩んだ。
そのさなか――
紅羽の重い視線が、ずっと体に突き刺さり痛かった。