第二話 もう一人の赤髪の女
咲弥は放心状態となり、夢の可能性について模索する。
風神龍ヴァルジアの存在は、あまりにも現実味がない。
咲弥にとって、史上最悪の魔物が脳裏に浮かぶ。
ジャガーノートの背に龍を連想したが、本物は迫力に満ち溢れており、恐ろしいくらい威圧的な存在感を放っていた。
おそらくは、ジャガーノートですら歯が立たないだろう。
むしろ、風神龍にもてあそばれかねないとすら思える。
(……本当の本当に、現実なのか……?)
咲弥はいまだ、現実を呑み込めないでいた。
風神龍が飛び去ると、風も徐々に緩やかに変化する。
ネイが不敵に笑った。
「初めて見たでしょ? 極まれに、風神龍と遭遇するのよ」
「あ、あんなの……世界には、どれだけいるんですか?」
咲弥は必死に声を絞り出した。
ネイが肩を竦めながら答える。
「発見されてんのは、属性違いが五体ぐらいだったかなぁ。どの国の調査機関でも、神龍系統の生態は謎だからね。同じ個体が複数存在してんのかもしれないし、一体だけなのかもしれない。二匹同時にって情報がないから」
咲弥は心の底から震撼した。
あれほどの生物が複数体、自由に空を泳いでいるらしい。こちらの人にとっては、きっと地球でいえば深海生物に近い存在なのだと思われる。
冒険者になってから約二か月間――咲弥が得た情報など、ほんのひとつまみしかないと、そう強く思い知らされた。
知らなければ、思い至らなければ、調べようがないのだ。
(ほんと……恐ろしいな……)
風神龍が自然死してしまい、空から降ってくる――
咲弥はそんな、ばかげた想像ばかり働かせた。とはいえ、絶対にないとは言いきれない。可能性は充分にあるだろう。
ふと、紅羽に興味本位から訊いてみた。
「紅羽なら、風神龍に勝てたりする?」
「冗談ですか? 私には不可能です」
紅羽が無表情のまま、紅い瞳でじっと睨んでくる。
咲弥は苦笑を送って、誤魔化しておいた。
「その昔、風神龍に攻撃したばかがいるらしいんだけれど」
ネイの発言に、咲弥は驚きを隠せなかった。
さすがに、その者の神経を疑わざるを得ない。
「攻撃事態が通じなかったどころか、まるで虫を払う感じで瞬殺されたみたいよ。どこの国でも、ばかはいるみたいね」
笑えない情報に、咲弥はなんとも言えなかった。
もとの世界でも、猛獣を相手にした事件を見た気がする。国どころか、惑星単位で似たような人はいるらしい。
風神龍の見学を終えた人達が、徐々に船内へ戻っていた。
咲弥は、不意の疑問が浮かび上がる。
「あら……? あの、ネイさん」
「ん?」
「どうして、荷物なんかも持って来たんですか?」
「もう少ししたら、私の故郷の真上を通るからね」
もうじき、飛行船から解放されそうであった。
咲弥はほっと安堵する。
「じゃあ、もうそろそろ飛行船が停泊するんですね」
「うんん。そんなわけないじゃない」
「へ?」
ネイの否定を訝しく思い、咲弥は首を捻る。
「飛行船は私の故郷を飛び越して、アルキネンラっていう、領地の中じゃ一番大きな町にしか停泊しないのよ」
「へぇ……ネイさんの故郷から、その町は近いんですか?」
ネイは首を横に振った。
「うんん。滅茶苦茶に遠い。馬車で一週間ぐらいかしら」
「あ、結構かかりますね」
「そっ。だから、これが役に立つわ」
ネイは言いながら、無色透明の玉を差し出した。
玉の中には、紋章らしき刻印が施されている。ぱっと見は紋章石だと思えたが、よく見ればそうではなさそうだった。
ある種、紋章石の模造品だと感じられる。
咲弥は恐る恐る、片手を縄から外して玉を受け取った。
紅羽にも、同じ物が配られている。
「あの……なんですか、これ? 紋章石っぽいですが……」
「うぅーん? ただの生命保護具かな?」
咲弥はようやく、ネイの思惑に気づいた。
まさかとは思いつつも、おずおずと尋ねる。
「……え? ま、まさ、か……ですよね?」
「さあ。もうそろそろ、荒療治といこうじゃないか」
腰に両手を置き、ネイは大きく笑った。
咲弥は柱にある縄を、さらに強く掴んだ。
激しく首を横に振り、声を張って抗議する。
「む、無理です! 不可能です! 絶対だめです!」
「大丈夫だって。慣れれば平気だから」
「慣れません! ショック死しますよ!」
「紅羽にだけプレゼントして、私にはなかった罰よ」
「すぐ渡します! 降りたら、そうすぐにでも!」
「じゃあ、さっさと降りようか」
「無理です! 降りられません!」
「飛行船の着陸地からじゃ、本当に遠くて面倒なの」
「歩きましょう! 馬車を利用しましょう! 健全です!」
ネイが薄目をして睨みながら、そっと近づいてくる。
ネイは腰に帯びた短剣を抜き、縄を素早く切り裂いた。
咲弥はぎょっとする。ネイは若草色の紋様を浮かべた。
「風の紋章第四節、自在の旋風」
紋様が砕け、突然に風が吹き荒れる。
咲弥の体がふわりと、風の力で持ち上げられた。
上空から落とされた紋章術と、よく似た術に思える。
「わ、わわ、わわわわっ!」
試験開始前と同じ展開に、咲弥は錯乱状態に陥る。落下の光景が何度もフラッシュバックし、ひどい吐き気を覚えた。
そんな咲弥をよそに、ネイが爽やかな声音で言った。
「さっ。紅羽も行くわよ。その玉、落とさないでね」
「了解しました」
「使い方とかはないから、安心していいわよ」
「存じております」
まるで雑談でも楽しむように、二人は言葉を交わした。
紅羽であれば、しっかりと止めてくれる――心のどこかで期待していたが、そんな気配は何一つとして感じられない。
咲弥は必死に、紅羽に内情を察してもらおうと訴える。
「く、紅羽……っ?」
「安心してください。今度こそは、私が傍にいますから」
「ちょ……ちがっ!」
ネイが進むと同時に、咲弥の体も風に移動させられる。
「待って、待ってください! 本当に無理ですってば!」
「問答無用じゃい!」
そう言ってネイは、飛行船のへりを軽々と飛び越えた。
紅羽も飛び越え、そして咲弥は風に振り落とされる。
「ぎにゃああああ――っ!」
まるで、踏まれた猫みたいな悲鳴が漏れた。
地上へと向かい、もの凄い速度で落下する。
「あっははっ! きっもちぃー!」
「あばばばば――っ!」
風を縦に切って、咲弥の目もとから涙がこぼれる。
咲弥のほうを見て、ネイが満面の笑みを見せた。
咲弥はパニック状態のさなか――最悪の出来事が起きる。激しい風圧のせいか、命綱の玉が手からすっぽ抜けた。
「あっ……!」
咲弥は不意の死を覚悟する。
ネイは凛とした顔を、ひどく青ざめさせた。
「ば、ばかぁああああ――っ!」
そんな悲鳴じみた叫びが、わずかに聞こえた気がした。
ネイが風を自由に操り、咲弥が手放した玉を拾う。
先に、紅羽が咲弥を目指してきた。
「咲弥様!」
紅羽に掴まれ、ほどなくしてネイにも掴まれた。
その瞬間、ネイ達の持つ紋章具が重なって発動する。
まるでシャボン玉みたいな、二層の球体に包み込まれた。するとずっしりとした重力を、途端に全身から感じられる。
どさっと落ちてから、咲弥は大きく息を切らした。
「はぁ……は、はぁ……はぁ……」
錯乱が静まるにつれ、咲弥はふと気づいた。
左頬には紅羽の胸が、右頬にはネイの胸が当たっている。
激しい恥を覚え、すぐ抜け出そうと試みた。だが、体中が痺れたような状態となっており、何もいうことを利かない。
「やっぱり、ちょっと無茶だったかぁ」
「咲弥様、大丈夫ですか?」
「……うっ」
紅羽の問いに、応える余裕すらもない。
背にある荷物も重ければ、二人の胸に顔を埋めている。
もういっそのこと、気絶でもしたい気分であった。
しばらくして、落下が止まった気がする。とはいえ、まだ体を動かせない状態が続き、状況の確認まではできない。
紅羽達も動かないため、まだ落下中だろうと予想する。
「……たまにはこういうのも、悪くないでしょ?」
「私は試験のときに、同じ体験をしましたから」
「いい経験じゃない。風になれるのなんて、そう何度もあるわけじゃないわよ」
もう二度と味わいたくないと、咲弥は切に願った。
むしろ、飛行船そのものに二度と乗りたくない。
「咲弥様。少し重たいです」
「ほんと、いつまで抱き着いてんの?」
咲弥は愕然とした。やはり、すでに着地していたらしい。
気力を振り絞り、なかば無理矢理に上半身を起こした。
草原を思わせる景色が、咲弥の視界いっぱいに広がる。
痺れも消え去るや、手に妙な違和感を覚える。
草地とは異なる、何か柔らかいものに触れていた。
視線を落としてから、咲弥はぎょっとする。
まるで紅羽とネイを、押し倒しているかのような姿勢――咲弥は二人を跨いだ形で座っていた。そしてたわわに実った彼女達の胸に、ぽんっと両手を乗せている。
どこかじっとりとした女二人の目を漠然と見つめ、咲弥は途端の恐怖を覚えた。
「わわわっ! す、すみません! わざとじゃないです!」
大慌てで謝罪しながら、咲弥は素早く立ち上がった。
荷物が重いという理由もあったが、そもそもまだ体に力が上手く入らない。そのまま後ろへ、豪快に倒れ込んだ。
紅羽とネイが、すっと咲弥を覗き込んでくる。
咲弥は訳もわからないまま、ただただ恥じ入った。
「まったく! 情けないわね」
「大丈夫ですか?」
差し出された二人の手を、咲弥は呆然と見つめる。
深呼吸で気を取り直し、二人の手を握り締めた。
立ち上がった瞬間に、咲弥は深く頭を下げる。
「ほ、本当に、すみませんでした……」
「ほら、見てみなさい」
ネイの指示に、咲弥は顔を上げる。
さきほどとは逆の方向に、町並みが見えた。
王都と同じく、中央には大きな城壁もある。
「飛び降りたおかげで、一週間ほど短縮できたわ」
「あそこが、ネイの故郷ですか?」
紅羽の問いに、ネイは微笑んだ。
「そっ。それじゃあ、二人とも行きましょうか」
ネイは颯爽と、町へ向かって歩き始める。
咲弥が動くのを、紅羽はじっと待っていた。
なんとも言えない気持ちを抱え、咲弥は紅羽に告げる。
「ほ、本当に、ごめんね」
「何がでしょうか?」
「いや……その……ほら……」
「ほらぁ! 置いていくわよ!」
口ごもっていると、ネイが拳を掲げながら声を張った。
いろいろと諦め、咲弥は重いため息をつく。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
紅羽と一緒に、やや遠くにいるネイを急いで追った。
ネイの隣に並び、咲弥は疑問をぶつける。
「あの……あんな降り方して、本当にいいんですか?」
「冒険者ならね。下降玉は、一般では販売されてないし」
「ああ、あれ、下降玉って名前なんですね」
「ええ。といっても、船長にはちゃんと許可を取らなきゃ、罰則くらうわよ」
そんな日は訪れないと、咲弥はそう思いたかった。
ネイはいたずらな笑みを浮かべる。
「帰りも、王都の上空でやろっか」
「か、勘弁してくださいよ……」
「冗談よ。王都じゃ絶対に許されないから」
そう言って、ネイはからからと大きく笑った。
咲弥は嘆息してから、前を向き直る。
中央にある壁には、窓の役割を担った穴が随所にあった。遠目ではあるものの、そこに人の姿がちらほらと見える。
王都と同じぐらい、厳重に警戒されているようだ。
おそらく塀の内側には、身分の高い者達が暮らしている。王都のほうでも、庶民は強固そうな塀の外側が普通だった。
路地裏じみた場所を、咲弥達は何度も通り抜ける。
そして、ついに大通りへと出られた。
「うわぁ……ここが、ネイさんの故郷……」
「ふふ。ルートゥミレス町へ、ようこそ」
水と緑がとても豊かな――石造りの町には、大勢の人達で賑わっていた。中には、楽器の演奏をしている人もいる。
王都とは、また違った活気溢れる町であった。
「とりあえず身軽になりたいし、先に孤児院に向かおうか」
「あ、はい!」
「了解しました」
咲弥は周囲を眺めながら、ネイの後を歩いた。
「あ……」
ネイが短い声を漏らし、立ち止まった。
ネイの向いている方角に、咲弥も視線を向ける。
噴水広場がある方面には、それこそ多種多様の目的を持つ人達で溢れかえっていた。ネイの焦点がどこにあるのか――情報量の多い景色からではよくわからない。
少ししてから、ネイはすっと歩きだした。
紅羽と顔を見合わせてから、咲弥も前へと進む。
ネイが再び、不意に立ち止まる。その先に――ネイと同じ赤髪の女が、目を閉じたままギターを弾いて歌っていた。
一瞬、ネイの姉妹を疑ったが、顔はあまり似ていない。
咲弥は観察しながら、流れる演奏に耳を傾けた。
赤髪の女は修道士、または魔術士みたいな服を着ている。二十歳前後の彼女からは、独特な雰囲気が滲み出ていた。
少し気の強そうな気配が、端整な顔から感じられる。
そんな美人が歌う歌は、どこか別の国のものらしい。聞き慣れない言葉のせいか、翻訳されなかった部分があるのだ。
歌詞の内容は、どうやら悲恋を題材としている。
胸に多くの想いを巡らせ、ともに過ごした記憶を抱く――そんな歌であった。
奏でられた音色は悲しく、切なさに溢れている。
赤髪の女が演奏を終えるや、観客達から拍手が送られた。
誰もがもの悲しげな表情を浮かべ、ギターケースの中へとお金が投げ飛ばしていく。その前からすでに、小銭やお札が溜まっている様子であった。
来る前から、何曲か歌っていたに違いない。
咲弥も観客達を真似て、お金を少し投げ込んでおいた。
赤髪の女が目を開き、黒い瞳を咲弥達へ向けてくる。
「久しぶりね。ネイ」
「シェリア――あんたも、故郷に帰って来てたのね」
お互いに呆れ顔をして、ネイ達は顔を見合わせていた。