第一話 トラウマを抱えながら
晴れ渡る大空を、大きな飛行船が悠然と翔けていく。
船内にある座席の上で、咲弥は石像のごとく座っていた。
しきりに浮く冷や汗が、頬を通じてぽたぽたと落ちる。
ある一つの事実が判明した――飛行が始まった途端、心が恐怖に蝕まれ、心臓がしぼむような感覚に襲われたのだ。
冒険者資格取得試験のとき、遥か上空から放り落とされた経験が、咲弥に根深いトラウマを植えつけていたらしい。
そんな心の傷跡があるなど、自分ですら知らなかった。
情けない話ではあるが、こればかりはどうしようもない。
ネイが呆れながら、外が見えない客室を選んでくれた。
わずかではあるものの、そのお陰で恐怖心は薄れている。むしろ今はそれだけが、心の救いでもあった。
無心に努めていた咲弥の耳に、ネイの呟きが届く。
「……まぁた戦争かい。あの帝国も飽きないわねぇ」
咲弥の対面にある席に腰をかけ、ネイは足を組んでいる。
広げている新聞のほうへ、青い瞳が小刻みに揺れていた。
気分をまぎらわせようと、咲弥は会話を試みる。
「て……てい、帝国、ですか?」
「そっ。力こそが正義! 力無き者に語る資格などない――というのがモットーの、ロヴァニクス帝国の記事ね」
新聞をめくりながら、ネイは会話を続けた。
「世界地図では西側にある、大きなアレガニス大陸。そこにその帝国があるの。私達がいる大陸からは、ずいぶんと遠い大陸ね」
また新聞を一枚めくり、ネイは足を組み直した。
彼女の魅力的な白く細長い脚に、つい視線が向かう。
厚着は彼女の好みではないらしく、普段から獣人に等しい薄着をしていた。そのため、非常に目のやり場に困る。
体系も見惚れるぐらい、女性らしさが際立っているのだ。
視線を気取られる前に、咲弥は新聞に目を戻しておく。
「あそこは昔から、なにかと戦争が絶えない国だけれどね。でもあまり過激になってくると……冒険者ギルドを創設した連合国が、黙ってはいられないかもね」
飛行船とは別の意味で、じわじわとした恐怖を覚える。
咲弥は抱いた疑問を、恐る恐る口にした。
「戦争に……冒険者が、駆り出されたりするんですか?」
さすがに、萎縮せざるを得ない心境だった。
ただでさえ、魔物の命を奪うのにですら心を痛めている。相手が人ともなれば、まったく別次元の問題となるだろう。
胸が絞めつけられる感覚の中、咲弥はじっと返答を待つ。
「うぅん。さすがにないんじゃないかな……連合国のどれか一つにでも戦争を仕掛ければ、ほかの国々も動くだろうし」
ネイは困り顔をして、虚空を見上げた。
「そもそもだけれど……そういうのは騎士か、軍人や傭兵のお仕事でしょうよ」
それは確かに、その通りに違いない。とはいえ、冒険者が絶対的な戦力になるのは、疑いようのない事実ではあった。
その部分を考慮すれば、駆り出されないとは考えづらい
咲弥が訝しんでいると、ネイがなにげない声を紡いだ。
「まっ……たとえそうでも、いよいよともなれば……私達も参加しなきゃならない場合も、出てくるかもだけれどね」
ネイの言葉の意味を、咲弥はそれとなく呑み込んだ。
無関係ではいられない。
そんなところまで状況が切迫した場合――心臓をぎゅっと掴まれたような、不気味な感覚が咲弥に襲いかかった。
咲弥は瞬間的に、ぶるりと身を震わせる。
ネイは呆れた様子で、肩を竦めた。
「でも、そうなる前に、お偉いさんがどうにかするでしょ。それはそうと、アレガニス大陸には連合国が作ったギルドがないから、行くことがあれば覚悟しなよ」
「はは……は……」
咲弥は空笑いが漏れたが、まったく笑えない話ではある。
仮に邪悪な神がそこにいた場合、行かざるを得ないのだ。
空白の領域にしろ、アレガニス大陸にしろ、頭の痛くなる場所がとても多い。
咲弥は不意に、とんとした重みを右肩に感じた。
紅羽がもたれかかったらしく、咲弥はぎょっとする。
耳を澄ませば、小さな寝息が聞こえてきた。
かなり珍しい状況に、咲弥は静かに戸惑う。
「あんたさぁ……」
ネイが新聞を顔の前に置き、上から覗き込んできていた。
妙な振る舞いに、咲弥は困惑する。
「ちょっと、無理させ過ぎなんじゃない?」
「え?」
「紅羽。四六時中、気を張り続けてんのよ。まさか気づいてなかったわけ?」
ネイの言葉の意味が、よく呑み込めない。
咲弥が首を捻ると、ネイが短いため息をついた。
「呆れるわね……人にぶつかりそうになったときも、魔物の襲撃のときも、ずっと紅羽がきっかけで気づいてたでしょ」
「魔物の襲撃……ああ、ついこの前の話ですか?」
「ほんと、安全なときでもずっと気を張って、周囲の状況を事細かに探り続けてんの。そりゃ疲れも溜まるってもんよ」
咲弥は、はっと気づかされる。
ネイは苦い顔をして、小首を傾げた。
「まあ、その子が好きでやってることだから、あまり口出しすべきじゃないのかもだけど、もっと気にかけてあげなよ」
「……はい。そうですね」
「でもまあ、労ってはいるみたいだから、少し安心したわ」
「え?」
「その可愛い髪飾り、あんたがあげたんじゃないの?」
いつの間に話していたのか、ふと紅羽の髪飾りを見る。
集合したときは、自分が先にネイといたはずであった。
「いつ、紅羽から聞いたんですか?」
「ばか? 見りゃわかるわよ。機能と性能を重視する子が、そんな可愛らしい装飾品、選ぶわけがないじゃない。誰かがプレゼントしたって、普通は考えるでしょ」
「いや、これ……案外、性能いいんですよ? オドの回復を早める一品ですから」
「そうなの? それは……機能と性能が結構いいわね」
紅羽に配慮してか、ネイは控えめに笑った。
「まあでも、あんたがプレゼントしたんでしょ?」
「はい……いつもお世話になってるお礼にと、渡しました」
「仲間の体調を考えるのも、冒険者としては当然の義務よ。これを機にしっかり覚えて、もっと気遣ってあげなさい」
「そうですね。わかりました」
「あんたさ、優しいところは優しいけど、抜けてるところは抜けてんのよね」
咲弥は苦笑する。
言われなければ気づけないことが、本当にたくさんある。
この世界に来て間もない頃から、体力や精神を削ることがあたりまえ過ぎて、きっと変に慣れてしまったのだと思う。
だから情報収集のため、町に繰り出す程度ならば、それは休憩や休日と変わらない。今まで本気で、そう考えていた。
しかし紅羽は、そのさなかもずっと――魔物がいる場所と同じくらい、周囲に気を張り巡らせ続けていたに違いない。
ネイの指摘通り、配慮が欠けていたと自身を戒める。
自省していると、ネイがぼそっと呟くように訊いた。
「ところでさ、私には?」
「へっ?」
「私も、その〝お世話になってる〟仲間のはずだけれど?」
「あ、いや……あのぅ……実は……そのぅ……」
咲弥は言葉を濁す。
ネイがすっと目を細め、青い瞳で睨んできた。
「なによ?」
「実はこれ、もの凄く高かったんです……ほんと……」
「ふぅん……で?」
「も、もう少し、お金が貯まってからってことで……?」
「……やれやれ……」
ネイは不満げなため息をつき、新聞のほうへ視線が戻る。
咲弥は苦笑で、場をもたせた。
ふと、ネイと出会った頃の記憶がよみがえる。
あの頃のネイは、お金のことばかり口にしていた。自分が冒険者になってみれば、当然といった感想を持つほかない。
何をするにもお金が必要で、仕事に使う道具一式のほか、移動費から生活費と、本当になんでもお金が飛んでいく。
ネイの場合、そこから孤児院に仕送りまでしている。
それに比べれば、咲弥はまだましなほうではあった。得た利益の大半を、そのまま自分のために使えるからだ。
(そのためには、まあ……いろいろ考えなきゃだったけど)
依頼の請負は、基本的には移動費を負担してくれるものを選んでいる。
むろん、そんな依頼は報酬がかなり低くなる。
だから複数の依頼を同時に請けたり、または魔物を狩って素材の入手をしたりして、着実に利益を生み出すしかない。
世界は本当に、上手く回っている――
冒険者になってから、咲弥はそれがよくわかった。
「ふぅ……」
ため息をつくなり、途端に飛行船が大きく揺れた。
咲弥の肩が、瞬間的に震える。
その振動が、どうやら紅羽へと伝わってしまったようだ。
「……んぅ……」
「あ、ご、ごめん。起こしちゃったね」
「すみません。眠ってしまいました」
「もう少し、寝てていいよ」
紅羽は姿勢を正して、静かに深呼吸した。
眠る気はない様子に、咲弥は申し訳ない気持ちになる。
突然――サイレンの音が数回だけ響いた。
何事かと思い、咲弥に緊張が走る。
「あら……珍しいわね。しかも、そろそろ頃合いかぁ……」
ネイは落ち着いた様子で、そう呟いた。
新聞を折りたたみ、鞄の中へとしまいながら訊いてくる。
「ところで、あんた。飛行船がまだ怖いわけ?」
当初に比べれば、ましにはなっている。
たださきほどの揺れで、恐怖がよみがえった。
「そ、そうですね……」
「ふぅん……まっ。ちょっとついておいで」
ネイはそう言ってから腰を上げ、小さな荷物を担いだ。
紅羽も立ち上がり、咲弥は渋々と席を立つ。
パンパンになったネイの鞄を、咲弥は背負った。
休息だと言っていたが、単純に荷物持ちだと思える。
重い気分を抱えたまま、ネイの後ろを歩いた。
ほかの乗客達も、なぜか同じ方向を進んでいる。
(あれ……もしかして……)
階段を上がり、甲板へと向かっているらしい。
その推測が、胸にある恐怖を一層大きくする。
開いている扉から、強い風が流れ込んできた。
なんの説明もなく、唐突に飛行船から振り落とされた――そのときの光景が、咲弥の脳裏にフラッシュバックする。
(ひぃいいぃ……)
心の中で悲鳴を上げ、咲弥の足はがくがくと震え上がる。
その状態を見てか、ネイが半目になって睨んできた。
「いいものを見せてあげるから、我慢しなさい」
「いや、あの……頭ではわかってるんですが……その……」
ネイはため息をついてから、咲弥の手を握ってきた。
やや冷えたネイの手のひらの感触を受け、別の意味からも鼓動が速まる。
咲弥の手のひらは、ひどく汗ばんでいた。
気持ち悪がられないか、そちらにも気が向く。
「こうすれば落ちないから、大丈夫でしょ?」
「あ、あの……僕、汗ばんでます」
「だからなによ。早く行くわよ」
ネイは気にしてないのか、ぐいぐいと引っ張ってくる。
なかば引きずられるようにして、咲弥は甲板に出た。
現在、飛行船は停滞ではなく飛行している。しかし多少の風は感じるものの、別に体が持っていかれるほどではない。
飛行船の先端のほうに、大きな玉みたいな物がある。
そこから緑色をした帯が、飛行船に沿って放たれていた。
「なんでしょう、あれ……」
「ん……? ああ、風の流れをコントロールする紋章機よ。あれがないと、大抵の人は風に吹き飛ばされちゃうからね。私はまったく平気だけれど」
よくよく考えてもみれば、ネイは風の使い手であった。
もし吹き飛ばされても、平然と着地できるに違いない。
乗客だと思われる者達が、ところどころにある縄を掴み、じっと固まっていた。何をしているのか、見当もつかない。
(うわっ……)
時折、強い風を浴び、試験官の放った紋章術を思いだす。暴風に巻き上げられ、遥か上空から島へと落とされたのだ。
「んぅ……いい風ねぇ」
ネイは草原にでもいるように、風の流れを楽しんでいた。
「中央のほうが、すいてるわね。さあ、行こうか」
「は、はい……」
ネイに引きずられつつ、咲弥達は甲板の中央まで進んだ。
そこには、縄が巻きついた大きな柱がある。
「あんた達、この紐をしっかり掴んでなさい」
理由はわからないが、咲弥と紅羽は柱にある紐を掴んだ。
ネイがすたすたと、端のほうへ歩み寄る。
「おっ? 見えた見えた。間に合ったみたいね」
ネイの方角へ目を向けるが、咲弥からは何も見えない。
飛行船の一部が、視界の邪魔をしている。
ネイが颯爽と戻ってきた。
「いい? しっかり掴んでなさいよ」
「は、はい!」
言われずとも、離せるはずがない。
咲弥は縄をしっかりと握り直した。
その瞬間――
(……えっ……?)
トラウマすらも完全に忘れ去り、咲弥は言葉を失う。
飛行船と並んだのは、長い蛇――龍が姿を現したからだ。
金色の瞳をした龍は、岩を連想させる翡翠色の鱗を持ち、口には鋭い牙がいくつも剥き出している。まるで蛇が地面を這うように、悠々と空を泳ぎ進んでいた。
飛行船かそれ以上に大きく、もし体当たりでもされたら、間違いなく墜落するだろう。その想像が、咲弥に不意の死を連想させる。
同じ縄を掴んでいるネイが、大きな声を飛ばした。
「風神龍ヴァルジア――分類上は魔物じゃなく神獣の一種。こちらから何もしなければ、人は襲わない。護神龍としても崇められてんのよ」
風神龍のせいか、風がかなり乱れている。
ネイの張った声が、かろうじて聞き取れるぐらいだった。
風神龍は飛行船を追い越し、どこかへと飛び去っていく。
現実離れした存在との遭遇に――
咲弥はただただ、唖然となるほかなかったのだ。