第零話 ネイのお誘い
冒険者資格取得試験から、二か月ほどの月日が流れた。
赤いシャツの上に黒革のジャケット、紺色のズボンに黒いブーツと、少し似合わない装いをした黒髪の少年――咲弥は冒険者ギルドへと、足を向かわせていた。
ふっと吐息をつき、こぼれるように呟く。
「……やっと、ここまで帰ってこられたね」
王都を初めて訪れたときは、右も左もわからなかった。
それが今や、王都の景色に安心感すら覚えているのだ。
この二か月間の間に、王都を巡る交通機関のほか、近隣の村や町へ行く馬車に関しても、人に教えられるくらいにまで成長している。
当初は、文明が無茶苦茶といった印象を抱いたものだが、やはりその理由の大多数は、魔物の存在が大きいようだ。
害虫を根絶できないのと同様、魔物もまた根絶できない。
そこかしこで、いつの間にか魔物の群れが巣食い始める。
ただ害虫とは違い、一般人には脅威でしかない。そのため冒険者ギルドでは、新鮮な依頼がほぼ毎日舞い込んでいた。
(ほんと……世界って、上手く回ってるんだなぁ)
咲弥は、そんな感想をもった。
ふと隣を歩く、銀髪の少女に視線を移す。
彼女の清楚感に溢れた衣服は、白と黒を基調としており、どこか神秘さが際立っていた。そのせいか――今回の仕事でついた汚れが、やや目立ってしまっている。
それでも、彼女の神々しい美しさまでは損なっていない。
身長は咲弥とあまり変わらない、一六〇台半ばだ。整った顔立ちに加え、すらりとした体の線は、きっと同じ女性から見ても惚れ込むぐらい綺麗だと思える。
事実、ある女性は、異常なほど紅羽に惚れ込んでいた。
そんな美貌の少女が、いきなり紅い瞳を向けてくる。
「咲弥様」
「え? ん?」
「ギルドに戻る前に、一度宿舎に戻りませんか?」
紅羽の意図を、咲弥はぼんやりと呑み込んだ。
「ああ……お風呂に入って着替えたいんだね」
「はい。このままでは、また例の人に捕まりますから」
「ははは……」
つい最近の出来事が、咲弥の脳裏にぼんやりと浮かぶ。
冒険者ギルドの受付嬢が、泥まみれになった紅羽を見て、即座に大浴場へと連れ去った。帰ってきたころには、まるでお姫様みたいな格好をさせられていたのだ。
それが面倒な展開だと、彼女は考えているに違いない。
「わかった。宿舎に戻ろうか。僕もさっぱりしたいし」
「はい。ありがとうございます」
進行方向を変えてから、咲弥は今後について思案する。
この二か月間――本当に、あっという間に時間が過ぎた。
基本は情報収集に勤しんだ。
当然、それだけでは飯も食えなければ、生活もできない。そのうえ、一人では理解が困難な情報は、お抱えにも等しい情報屋の少女を頼っている。
スラムの隠れ家にいる子供達に、少しでも安定した生活を送ってもらうため、情報料はきっちり支払っていた。
だから度々、冒険者ギルドが管理する依頼を請負ながら、魔物から素材を入手して売り、お金を稼いで暮らしている。
さらに戦闘とオドの訓練もしており、やることは多い。
それなりに進展はしているが――たった二か月程度では、まだまだ情報不足に加え、勉強不足なのは否めなかった。
自分が育った世界ですら、知らないことは無数にある。
ほかの世界ともなれば、至極当然の話ではあった。
(あれ……こんなところに、あんなのあったかな?)
ある露店に、咲弥の視線が奪われる。
どんな品が揃えられているのか、少し興味をそそられた。
隣を歩く紅羽を向き、咲弥は許可を求める。
「ごめん、紅羽。あの露店、少し覗いてみてもいいかな?」
「はい。問題ありません」
「ありがとう!」
咲弥は紅羽と一緒に、露店へと向かった。
「あら、いらっしゃい」
「あっ。どう、も……」
咲弥は思わず、言葉に詰まる。
出店の奥に、耳の長い空色の髪をした女が座っていた。
民族的な印象のある白い衣装は、もはや水着にも等しい。スカートとは呼べない長い布が前後にあり、すらりと伸びた脚があらわとなっていた。
どこか妖艶な美しさが漂い、つい視線が釘づけになる。
(だめだ、だめだ……)
咲弥は、わずかに首を横に振りかぶる。
ふと不安に思い、紅羽の様子を恐る恐るうかがった。
彼女は無表情のまま、店の品々をじっと眺めている。
咲弥はほっと安堵し、改めて商品に目を配らせた。
店に並んでいるのは、装飾品がとても多い。目を凝らして見れば、紋章効果が付加された品々ばかり揃えられていた。
「プレゼント、する?」
「へ?」
艶やかな女の声音で問われ、つい間の抜けた返事をした。
女は頬に綺麗な手を添え、小首を傾げる。
「隣の可愛い恋人へ、プレゼントするかなって」
咲弥はどきりと心臓が跳ねた。
あたふたとしながら訂正する。
「恋、え、あ、いいえ……彼女は、冒険者仲間です」
「あら、そうなの? ふふっ」
女は妖しく笑った。
咲弥は心臓の鼓動を、静めるよう努める。
冷や汗をかきつつ、女に質問を投げた。
「ここにある品は、どういった紋章効果なんですか?」
「いろいろあるけれど……そうね。これとかどうかしら?」
女が手に取ったのは、小さな髪飾りだった。
紅い花の模様が、緻密に刻印されている。
間違いなく、紅羽に似合いそうな品が選ばれていた。
紅い髪飾りは、確かに銀髪の彼女には映えるに違いない。
「刻印されているのは、ルクアネラと呼ばれる花なの。紋章効果は、オドの回復をほんの少し、早めることができるわ」
(似合うかどうかは別としても……)
オドの回復を早める紋章効果は、とてもいい品ではある。
紅羽は案外、紋章術を乱発する傾向があった。とはいえ、咲弥とは比べ物にならないほど、オドの扱いにたけている。
彼女の口から、オドがたりないと聞いた記憶がない。
完璧なまでに、計算され尽くされているからなのだろう。
ただオドの回復が早まれば、より効果的だと思える。
「ここにある品々は、ほかでは手に入らないかもね。すべて私の自作だから」
「じ、自作……この繊細な装飾も……ですか?」
「ええ」
咲弥は面食らう。おそらく、並大抵の努力では済まない。
しかもオドの回復を早めるなど、王都の紋章ギルドですら見たことがなかった。かなり特殊な細工だと考えられる。
「もしプレゼントするなら、安くしてあげてもいいわよ」
「紅羽、どうする? 買ったらつけてくれる?」
「いいえ。自分の物は、自分で買えます」
紅羽のそっけない返答に、咲弥は苦笑する。
実際のところ、紅羽の言う通りではあった。
咲弥は決して裕福とはいえない。なんらかの手段でお金を稼がなければ、あっという間に文無しに転落してしまう。
しかし紅羽は、咲弥とは真逆の存在だといえる。
冒険者資格取得試験のとき、彼女は一六〇〇万もの大金を荒稼ぎしていた。
試験で獲得したお金は、税としていくらか徴収されたが、残りはそのまま各個人へ、しっかりと支給されている。
紅羽は物欲があまりない。ただ最低限には揃えていた。
それでもまだ、一〇〇〇万以上の財力があると思われる。
金持ちの紅羽に対して、咲弥の全財産は――今回の依頼で多少なりお金が手に入るものの、一〇万にも満たなかった。
(ほんと……情けない話だな……)
だがここで引いては、男としてかなり情けない気がする。
咲弥は思いきって、紅羽に伝えた。
「いつもお世話になってる、そのお礼ってことでどう?」
「ですが……」
「ほんと、気にしなくても大丈夫だから」
「……了解しました。ありがとうございます」
咲弥は頷いて応え、露店にいる女を向いた。
「じゃあ、それをください。プレゼントします」
「ええ。それじゃあ、八〇〇〇〇スフィアね」
「ひぇっ……?」
咲弥はあまりの金額に驚倒して、奇妙な声が漏れ出た。
想像の五倍は高額の商品に、内心穏やかではいられない。
女はくすりと笑った。
「ふふ。ウ、ソ。ちゃんとサービスするわ。一五〇〇〇ね」
「あ、ありがとうございます!」
咲弥はお礼を告げ、品物の料金を女に支払った。
痛い出費ではあるが、性能を考慮すれば決して悪くない。
女は商品を手にしたまま、紅羽へと歩み寄った。
「少しだけ、失礼するわね」
紅羽に髪飾りをつけながら、女は緩やかな声を紡いだ。
「想いは形となり、やがて想いの中へ溶けていく。あなたにとってこれが、自身の一部になれることを祈っているわ」
詩的であり、難しい言葉に感じられた。
大事にしてほしい――そういう話だと、咲弥は解釈する。
「はい。とてもよく似合っているわよ」
「どうですか? 咲弥様」
紅い瞳の色とも合っており、銀髪という理由もある。
咲弥が想像した以上に、本当によく似合っていた。
ほんの少し見惚れてから、咲弥は我を取り戻す。
「あ、う、うん。ばっちりだよ」
「ふふっ。よかったわね」
女は腰をくねらせて歩き、露店の中へ戻った。
「しばらくは、ここでお店を出すから、またよろしくね」
「あ、はい――それじゃあ、そろそろ宿舎に戻ろうか」
「了解しました」
女に見送られながら、咲弥達は歩きだした。
宿舎へ向かっている最中、何度か紅羽を横目に覗き見る。一つ変化があるだけで、醸される雰囲気は激変していた。
可憐という言葉が、ここまで似合う人もそう多くはない。
紅羽と二人で買い物をするのは、これまでも多々とある。だから別に、珍しい行為でもなんでもないはずだった。
だがしかし、今回に限っては別の感情が湧いてくる。
デートをした経験など人生で一度もないが、今回はまるでそんなことをした気分となり、途端に恥ずかしさを覚えた。
露店にいた女の言葉が、咲弥の胸をぎゅっと絞めつける。
(こういうのは、考えちゃだめだな……)
きつく自身を戒めてから、咲弥は前を向き直った。
しばらく歩いた先に、冒険者専用の宿舎へと繋がる豪勢な正門が見えてくる。
さすが王都なだけあってか、石造りの正門は壮観だった。
当然、建物や部屋も、かなりいい造りをしている。しかも部屋に関しては、最低限の家具が最初から揃えられていた。
目の前の正門から先は、すべて冒険者達の居住区となる。
実は冒険者宿舎へ移れたのは、一か月ほど前の話だった。
仲間のゼイドから、数名分の空きが出たと教えてもらい、咲弥は素早く、紅羽と一緒に宿舎での入居申請をしたのだ。
その結果、偶然にも仲間達と同じ建物へ入居となった。
(はあ……やっと帰ってこられたんだなぁ……)
咲弥は心の内側でため息をつき、正門を突き進んだ。
宿舎の玄関口付近で、赤髪を後頭部のほうで綺麗に整えた――凛とした美人ともいえる、年齢以上に大人っぽい容姿のネイを発見する。
こちらに気づいたのか、咲弥達に彼女の顔が振り向いた。
「あら?」
「ネイさん?」
お互いに、距離を縮める。
仕事に出かけるにしては、荷物の量がとにかく凄まじい。それこそ、大柄な男でも簡単に詰められそうなほどだった。
ネイもまた、咲弥達の様子をうかがっている。
「あんた達、帰ってきたばかりなのね」
「はい。ギルドでの仕事を請けてきました」
「そっ。お疲れさん」
「あの、どこかへ行かれるんですか?」
「ええ。ちょっと――」
ネイが不自然に言葉を止めた。
すっと顎に指を添え、ネイは虚空を見上げる。
それから、何かを思いついたような顔をした。
「ちょうどいいわ。あんた達も、ちょっと息抜きしない?」
「息抜き……ですか?」
「ここ最近、情報収集か依頼の請負ばかりでしょ?」
ネイの問いに、咲弥はこくりと頷いた。
「そうですね。あとは戦闘とオドの訓練ぐらいですかね」
「あまり根を詰め過ぎても、仕方がないでしょうよ」
咲弥は苦笑で誤魔化した。
咲弥本人としては、新しい発見ばかりだから苦ではない。しかしのんびりとしている日は、確かになかった気もした。
ある種、情報収集のみの日が休日ともいえる。
ネイは両手を、ぱたりと重ね合わせた。
「というわけで、たまにはのんびりするのも悪くないわ」
「そうですね。ところで、息抜きって何をするんですか?」
「ふっふっふっ。私の故郷に、準備ができ次第向かうわよ」
咲弥は小さく肩が跳ねる。
ネイの故郷――おそらくは、孤児院に違いない。
「久々に、ちょっと帰ってみようかなってね」
折角のお誘いだった。
咲弥は紅羽に目を向ける。
「はい。問題ありません」
目で察したのか、紅羽は問わずして了承した。
ネイはにこやかな顔になる。
咲弥は頷き、手短に伝えた。
「身支度を整えたあと、冒険者ギルドに寄りたいんですが、いいですか?」
「ああ。報酬まだ受け取ってないのね」
「先にお風呂に入って、綺麗にしたかったので」
「了解。それじゃあ、準備ができたら声をかけて」
「わかりました。できるだけ急ぎますね」
「はあい」
咲弥は紅羽と顔を見合わせ、自室へと戻る。
身支度を整えながら、ネイの故郷を勝手に妄想した。
どこにあるのかは知らないが、久々の新天地ではある。
咲弥はほんの少し、胸をわくわくと高鳴らせた。
このときはまだ、未来の出来事など知る由もない。
心を砕くほどの惨劇が、静かに歩み寄ってきていたのだ。