第?話 漆黒に満ちた渇望
一定のリズムで、一人の足音が響き渡る。
磨かれた石の床はとても滑らかで、差し込む陽光を受けて反射していた。普通に歩くだけでも、かなりの足音が鳴る。
黒衣を身に纏い、漆黒の長髪をなびかせる女――ルニス・アニマは皇帝の間へ、自分なりのペースで向かっていた。
話の内容は、おおかた予想がついている。
自然と持ち上がりかけた口角を、そっと自制しておいた。
(予定よりも、やや早く実ったわね)
廊下の中央に、豪華絢爛な鉄扉がある。
両脇に立つ衛兵の一人が、よく通る声を吐いた。
「ルニス様、皇帝陛下がお待ちです! お急ぎください!」
緊張感の宿った一人の衛兵は、その顔を強張らせていた。
ルニスは慌てない。清らかな振る舞いで、まずは応じる。
衛兵二人の顔は蕩け、うっとり見惚れる眼差しへ転じた。
生まれもった美貌に蠱惑的な肉体――男の視線を釘づける容姿だと、ルニスはしっかり自覚している。そのうえ磨きをかけており、日々の努力は怠っていない。
だが、そこで甘んじているようでは、そこらの醜女と何も変わらないのだ。人の心を蕩かすのであれば、それこそ指先一つにすら気を使わなければならない。
声、視線、振る舞い、肉の揺れ、衣服の流れ――
そのすべてをもって、ルニスは艶のある声を紡いだ。
「お待たせしては、大変ね。通してくださる?」
「は、はいっ!」
二人の衛兵によって、大きな鉄扉が緩やかに開かれる。
皇帝の間には規律正しく並ぶ、主要部隊の兵達がいた。
その最前列には、各将軍達が横に列をなしている。
広い空間のはずだが、今はとても狭く感じられた。
皇帝陛下は片足を上げ、肘をついて玉座で寛いでいる。
尊大に構えた陛下を、ルニスは前にした。
赤と黒を基調とした戦闘用の衣装を身に纏う陛下は、まだ齢二十五と若い。だが、歴戦の老兵を思わせる威厳を放つ。
雄々しい美顔は気迫に溢れ、常人なら怖気づくほどだ。
ルニスは自身の胸に手を添え、一礼してから告げる。
「陛下――お呼びでしょうか」
「正式に、お前の処遇が下る」
今はまだ、陛下を蕩かせない。
彼もまた、己に絶対的な自信を抱いているからだ。
陛下の近くにいる真面目そうな臣下が、静かに歩み出た。
「ルニス・アニマ――本日付けで、貴公を皇帝陛下直属の、紋章兵団第八将軍に任命する。延いては部隊の――」
臣下の言葉を、陛下が手で制した。
「先の戦いも実に見事だった。約束通り――褒美として俺の側近になれることを喜べ。これからの働きに期待している」
「はっ……!」
心の内側で、ルニスはほくそ笑む。
これでまた一歩、己の描いた未来へ近づいた。
(もうそろそろかしらね。三、二、一――)
「お待ちください! 陛下!」
予想通り、男の荒々しい声が飛ぶ。
紋章兵団第七将軍のマグルド――齢五十八の老兵ながら、戦ともなれば第一線に赴く、気概に満ち溢れた男だった。
それゆえ、ルニスからすれば扱いやすい存在でもある。
「素性も知れぬ輩を、本気で陛下の側近――我々と同様なる将軍になさるおつもりですか? 少々、納得しかねますぞ」
「といってもまあ……陛下が約束しちゃったから。ねぇ?」
紋章兵団第二将軍の少年が、呟くように口を挟む。
史上最年少で第二将軍まで上り詰めた、いわゆる天才だ。子供さながらの無礼な物言いも、彼のみが許されている。
「陛下! 今一度――」
陛下は静かに、まずは手でマグルドを黙らせた。
「力こそがすべて――力無き者に語る資格などない。それが俺の国であり、帝国の方針だ。マグルドよ、己の信念を貫き通したいのであれば、己の力で示せ」
「よろしいのですな?」
「構わん。だが、忘れるな。力無き者に権利はない。もしも負ければ、お前が第八、ルニスが第七へ繰り上がるぞ」
皇帝陛下の言葉に、皇帝の間に慌ただしい音が轟いた。
整列していた兵達が、一斉に端のほうへと詰め寄る。
狭く見えた空間も、こうなればとても広く感じられた。
「ルニス。もしも負ければ、今回の件は白紙だ。いいな?」
「陛下は、何をご所望でございます?」
「無論、圧倒だ」
「かしこまりました」
マグルドが待つ中央へ、ルニスは悠々と移動する。
優雅な闊歩を見せつけ、相手に精神的負荷を与えるのだ。
業を煮やしたマグルドが剣を抜き、切っ先を向けてくる。
本当に扱いやすい男だと、ルニスは心の内側で微笑む。
「異邦の魔女め! 私は貴様を、断じて認めぬ!」
「ふふっ……マグルド様。お手柔らかにお願いいたします」
「紋章兵団将軍マグルド・ゴレアムス――全力で参る!」
黄土色の紋様を二つ同時に浮かべ、マグルドは声を張る。
「土の紋章第二十七節、大地の加護。土龍の慧眼」
紋様が一斉に砕けると、マグルドの周囲に岩石が浮かぶ。
防御系統の紋章術、あるいは反撃属性かもしれない。
それに加え、なんらかの固有能力も発動している。
「大事に至る前に、我がこの場で討ち取ってくれるわ!」
マグルドは、巨体に似合わぬ素早さを見せた。
長年培われた戦での戦闘技術も、ばかにはできない。
流れる水のごとく、それでいて力強い一閃だった。
(まあ、それほど悪くはないわね)
ルニスは瞬間的な速さで、マグルドの後方に移動した。
瞬間、マグルドの周囲に浮く岩石が、粉々に砕け散る。
マグルドの顔が、驚愕の色に染まった。
その顔が実に滑稽に思い、つい忍び笑いが漏れる。
「ふふっ」
「貴様ぁあああ――っ!」
マグルドの顔がみるみる紅潮し、激しい怒りの色が宿る。
マグルドを見据え、ルニスは純白の紋様を浮かべた。
「無限召喚」
輝く紋様が砕け、無数の紋章陣を床に描く。
天使から与えられた固有能力、無限召喚――最初に込めたオドの総量に応じて、召喚する対象が多種多様に変化する。
以後、際限なく召喚が可能な、まさに天物の力であった。
今回は見せ場のため、オドを六割ほど消耗している。
白い羽衣を着た黒い人型が、光輪を背に携えて生まれた。
「幻影、か……おぞましき魔女め!」
「いいえ。これらは、実体を持つ光の乙女達」
ルニスに連動して、光の乙女達も純白の紋様を浮かべる。
「光の紋章第十一節、天女の舞踏」
ルニスと同じ紋章術を、光の乙女達も発動した。
光の乙女もオドを宿しており、なくなれば消滅する。
連動するかどうかは、ルニス側で調整が可能だった。
(さあ、行きなさい)
紋章術で強化した身体能力で、マグルドを翻弄する。
マグルドは素早い。さらに柔軟さまで兼ね備えている。
とはいえ、補助術を身に浴びたルニス達以上ではない。
ルニスは光の乙女達にまぎれ、好機をうかがった。
近接戦闘では、無理だと判断したのだろう。
マグルドが新たに、黄土色の紋様を浮かべた。
その刹那――
光の乙女が伸ばした爪を、マグルドへ一斉に突きつける。
ルニスもまた、マグルドの背後へと忍び寄っていた。
老将軍の喉元に、太ももに忍ばせていたナイフを添える。
「マグルド様、紋様をどうかお収めくださいませ」
「ぐっ……」
「大切な仲間を失うのは、とてもとても心苦しいですから」
「く、そぉ……心にもないことを……」
諦めたように、マグルドは紋様を抹消した。
それが意味するのは、たった一つしかない。
「見事だ。ルニス、お前を第七へ昇格してやる」
至極当然の結末ではあるが、陛下の期待には応えられた。
ルニスは陛下を振り返り、優美な一礼を送る。
「感謝いたします。陛下」
「マグルド。さらなる力をつけ、もっと精進しろ」
「はっ……」
玉座から離れ、陛下はルニスのほうへ闊歩する。
陛下はルニスの顎に指で触れ、力任せに顔を上げさせた。
「ルニス。お前は、この帝国に何をもたらす?」
逞しい肉体、力強い瞳、他者を圧倒する雄々しい美顔――並大抵の女であれば、おそらく逆らえないほど、心の中枢を射止められているに違いない。
そんな感想を抱きつつ、陛下の赤黒い瞳に視線を据えた。
陛下の問いの意図を瞬時に呑み込み、ルニスは答える。
「まずはアレガニス大陸を我らが帝国のものとし、延いては全世界を、陛下の手中に落としてご覧に入れましょう」
「この大陸の外側は、愚かにも大国が結集し合って作られた冒険者ギルドのほか、地の利を生かし生まれた頑強な国々、魔物と絶え間ない戦争を続ける国も多い。それらすべてを、我が手中に落とし込むと?」
陛下はさらに、その眼力を強めた。
たとえ別世界といえども、人の在り方までに大差はない。それを既知しているルニスからすれば、人が人である以上は可能だと判断している。
ルニスは応えない。代わりに、眼をもって悟らせた。
「ほう。期待してよいのだな?」
「もちろんでございます。そのために、私がおりますから」
「では、楽しみにしているとしよう」
陛下は不敵に笑い、皇帝の間の出入口のほうを目指した。
光の乙女を消そうとした――そのときであった。
陛下が通った道にいる光の乙女達が、次々に崩れ落ちる。
いつの間にか、胸部を何かで貫かれていた。
ルニスはつい、眉間に力がこもりかける。
(あらあら……とっても、悪くはないわね)
皇帝となれるだけの実力を、彼は確かに保持している。
正直に言えば、今のルニスでは勝てるかどうかあやしい。
さらにこの帝国には、まだ実力のある猛者が数多くいる。
出会ってきた猛者達の中で、たった一人だけ――ルニスの本能が、激しく警鐘を叩き鳴らし続けている人物がいた。
腰まである長い銀髪をふわりとなびかせて、ルニスの前を女が悠然と通り過ぎ去る。後頭部にある紅い花の髪飾りに、つい視線を奪われた。
鮮やかな深紅の瞳をした彼女は、神々しいまでに美しい。同性のルニスですら、つい見惚れてしまうくらいであった。
黒衣に身を包む紋章兵団第一将軍、一號という名の女だ。
身長と大差がない細身の剣を、背に携えている彼女には、もう一つ別の呼び名がある。白銀の戦姫ルナミリス――
感情の大部分を削いでいるのか、起伏が見て取れない。
そんな鉄面皮の彼女だが、まるで深淵を彷彿とさせる暗き闇を感じさせた。放たれる雰囲気からも、おぞましいぐらい力量の差を気取らされているのだ。
誰に対しても尊大に応じている陛下ですら、彼女にだけはそんな態度を取らない――否、おそらくは取れないのだ。
力がすべての帝国に於いて、彼女はまさに神にも等しい。
数々の伝説が、彼女をまさに神格化へと導いているのだ。その中の一つ――奇怪な魔物で溢れる空白の領域を、単身で制覇したなど夢物語にしか聞こえない。
そんな彼女だが、玉座にはまったくの興味がないようだ。何を考えているのか、誰も理解ができないに違いない。
人心掌握にたけたルニスとて、それは例外ではなかった。
(彼女が一番……とっても悪くないわね)
この惑星を訪れ、帝国の近辺だったのは僥倖だと思えた。
退屈な自分の世界よりも、遥かに刺激に満ち溢れている。
邪悪な神の存在は、いまだ像を結ばない。しかしほうっておいても、いずれ相対する日が勝手にやってくるだろう。
その前にもっと力をつけ、戦力を蓄えておく必要がある。
(ほかの使徒達は、どうしているのかしらね……ふふっ)
使徒とはまだ、誰一人として邂逅していない。
ほんの噂ですら聞いた記憶はないが、至極当然ではある。
この広大な世界に、たった十人しか送られていない。
奇跡による邂逅など、そうそうあるはずもなかった。
(まあ、それでも……)
今現在、最低限の地位は入手できた。まずは姿なき邪悪な神よりも、どこかにいるはずの使徒を片づけておきたい。
願いを叶えるのは、ただ一人――ほかの使徒の存在など、ルニスにとっては、単純に目障り以外の何物でもなかった。
欲を言えば、使徒がこの世界の力を吸収してしまう前に、命を摘み取りたい。とはいえ、さすがに何も手がかりがない状態で、探しだせる能力まではない。
(遅いか早いか……ただ、それだけの違い)
ルニスは天使に、心から感謝する。
刺激に満ちた世界へ招き、面白い力も与えてくれた。
自分の世界にあった力と、この世界にある力を併せれば、天使から受けた使命を果たせると確信している。
もとの世界でルニスは、漆黒の魔女と恐れられていた。
ある日は、国同士を戦争に発展させて遊んだ。
ある月は、世界に混沌をもたらした。
ある年は、復興する国々を根底から叩き潰した。
この世の生命体など、ただ自分のおもちゃに過ぎない。
ルニスは疑わなかった。
自分こそが、真の使徒に違いない。
ルニスは信じている。
世界を支配するのは、自分にこそふさわしい。
ルニスは願っていた。
未来永劫、愉悦極まる人生を送りたい。
その闇に染まった意思は、留まることをしらなかった。
漆黒に満ちた渇望は、やがて――