最終話 一歩ずつ前へ
クロエの願いが叶ってから、一週間の時が流れた。
咲弥の意識が、不意の覚醒へと向かう。ゆっくり重い瞼を持ち上げ、また新たな一日の始まりを迎え入れるのだ。
窓から差し込む陽光が、やけに眩しい。
次第に目も慣れ、自室の光景が視界に広がった。上半身をさっと起こしてから、ベッドの上で大きく背伸びをする。
それから手早く身支度を整え、外出の準備をした。
玄関のほうから、コンコンコンとノック音が鳴る。
おそらくは、銀髪の少女に違いない。
咲弥は机の上にある時計に、ふと目を向けた。
(あれ……?)
時刻はまだ、六時半過ぎを指している。
今日はいつもより、少しばかり早いらしい。
これまでは、きっかり七時に訪れていたからだ。
「はぁい!」
咲弥は大きく返事をして、玄関口へと進む。
朝の挨拶をするために、咲弥はドアを開いた。
そして――咲弥の思考は停止する。
「おはよう。アニキ」
黒髪の美女クロエが、艶やかな声で挨拶をしてきた。
かなり扇情的な黒いドレスに身を包んでおり、ほんの少し派手そうな白い下着が、胸元からちらりとはみ出ている。
咲弥は慌てて視線を上へと逸らし、すぐにまた停止した。彼女の白い肌をした胸元には、紅真珠のネックレスがある。
あの一件以来、ずっと身に着けているのだろう。
つい茫然と見つめてしまい、咲弥ははっと我に返った。
「ク、クロエさん? どうしたんですか」
クロエはただ満面の笑みを浮かべ、何も言葉を発さない。
咲弥は小首を傾げ、クロエの目をじっと見つめた。
後ろのほうで両手を組んでいるクロエは、ふふっと不敵に笑いながら、ぐいぐいと咲弥のほうへ詰め寄ってくる。
部屋に入るのだと気づき、咲弥は自然と後退した。
部屋のドアが、ばたりと自然に締まる。
「あ、あの……どうしたんですか?」
「私ね。今日、この大陸を離れるの」
「え?」
あまりにも突然過ぎる話に、咲弥は驚いた。
クロエは咲弥のほうを向いたまま、後ろに回り込んだ。
そのまま窓のほうまで後退して、明るい笑顔を見せる。
「その前に、アニキとアネキにはお礼が言いたくて」
「お礼だなんて……僕はそんな、別に……」
クロエは首を横に振る。
「アニキがいてくれたから、私は前に進むことができた……だから、ありがとう」
クロエの笑顔は、とても澄み切っていた。
そんなクロエに頷いて応え、咲弥は疑問を述べる。
「それにしても、今日とはずいぶん急ですね」
「前々から、話は来てたんだけどね……でも……」
クロエは長く綺麗な指で、紅真珠のネックレスに触れた。
「気持ちの整理がつかなかったから、ずっと断っていたの」
事情を察した咲弥は、それ以上は何も問えなかった。
クロエは優しく微笑んだ。
「これから、私は……新しい自分で明日を迎えられる」
「はい。どこに行っても、頑張ってくださいね」
「たまにお手紙書くから、ちゃんと返事してね?」
文字はそれなりに書けるようになったが、まだまだ拙い。
上手く返事ができるか、ほんの少しだけ心配ではあった。
ただチェリッシュにしてもだが、書く訓練にはなる。
「書くのは苦手ですが、ちゃんと返事はします」
「約束ね」
「はい」
咲弥はこくりと頷いた。
クロエは、ずっと後ろに回していた左手を前に出した。
その手にはなにやら、見覚えのある物を持っている。
「これ、新しいやつなの。アニキにあげるわ」
差し出された物から、咲弥はすぐ視線を逸らす。
どうやら、クロエが表紙を飾った雑誌の様子だった。
本人を前にして、凝視できるはずもない。
ロイから貰ったときとは違い、さらにきわどい格好をしていたような気がする。
「今度は、ちゃんと中も見てね?」
「あ、ああ、あ、ありがとうございます」
どぎまぎしてしまい、咲弥はどもりながらお礼を告げた。
雑誌を受け取るなり、クロエは朗らかに微笑む。
「本当に、ありがとう。どこへ行っても、私……頑張れる」
クロエの声は、途中から少し震えていた。
彼女の心情は、咲弥には想像しかできない。おそらくは、大陸から離れることに、恐怖や不安を感じているようだ。
その気持ちであれば、咲弥には痛いほど理解ができる。
この世界を訪れた当初は、咲弥もそうだったからだ。
励ます意味を込め、咲弥は言葉を送る。
「大丈夫です。何かあれば、またいつでも言ってください。形上ではありますが……僕は、みんなのアニキですから」
「うん。ありがとう」
お礼を告げるなり、クロエが急接近してくる。
ぎょっとする咲弥の耳の隣に、クロエが顔を近づけた。
大人の香りが漂う中、クロエが耳打ちしてくる。
「あのね、アニキ――」
「おおぉい! 咲弥、起きてっかぁ?」
唐突にドアが開かれ、ネイの元気な声が響き渡る。
咲弥は全身が大きく震え、とっさに雑誌を背後に隠した。
ネイの隣には紅羽のほか、ゼイドの姿もある。
紅羽以外の二人は、唖然とした顔で硬直していた。
紅羽は無表情のまま、両手を前のほうで組んでいる。
「え、あ、いや……その……」
「な、な――」
ネイはどもってから、声を張った。
「なぁに女を連れ込んでんじゃい!」
「いや、違うんですって! 誤解なんです!」
「何が誤解か! こっちは目撃者なのよ!」
ネイの怒号に、咲弥は後ずさりながら説明する。
「この前のお礼に、来てくれただけですよ!」
「ふむ。お礼が美女からの抱擁か……悪くねぇな」
ゼイドが顎をさすり、虚空を見つめながら言った。
咲弥はぎょっとする。
「いやいや! そんなことされてませんから!」
確かに見ようによっては、そう見える可能性もある。
だからそう勘違いされても、おかしくはない。
咲弥は助けを求めるように、クロエを見た。
だがそれは、失敗に終わるだろうと予感する。
クロエはもじもじと、恥じらいの姿勢を見せたからだ。
「アニキってば、結構……情熱的だった」
「クロエさんっ? この人達、冗談通じませんからねっ?」
咲弥は必死に訂正を試みた。
ネイがでかいため息をはいた。
「あんたも結局、あの色ボケ元無職と同じってわけ、か」
「えぇえ……いや、ほんと……ただの誤解ですって……」
クロエはくすくすと笑い、ネイ達のほうへ歩み寄った。
「ちょうどよかったわ。あなた達も、ありがとう。私ね……大陸を離れるの」
「そっ。まあ、そんなたいした問題じゃないわよ」
「冒険者は、みんなそうなのかな?」
「大陸間を渡るなんて、上を目指すなら当然だもの」
ネイとの応答を経て、クロエは鷹揚に頷いた。
「少し不安だったけれど……それを聞いて、安心したわ」
「何するかわかんないけど、どこへ行っても頑張りなよ」
「ええ」
ネイとの会話が終わるや、クロエは紅羽に歩み寄った。
「アネキ」
「はい?」
クロエはそっと、紅羽に耳打ちした。
何を言ったのかは、まったく聞き取れない。
「それじゃあ」
「はい」
特に変化を見せず、紅羽は無表情のまま応えていた。
いったい何を言われたのか、不安で仕方がない。
クロエが微笑みながら咲弥のほうを振り返り、小さく手を振ってから去った。
どたばたとした別れになったが、これが最後の別れというわけでもない。
少し寂しく思いつつも、今はそんな場合でもなかった。
ネイが呆れ声で呟く。
「はぁあ。一緒に朝食でもと思ったのに……」
「いや、本当……ただの誤解ですってば」
「白か黒か、どっち?」
ネイの問いの意図が、咲弥にはよくわからなかった。
ゼイドが軽く笑い、問いに答えた。
「黒だな」
「黒です」
紅羽が続き、そう答えた。
ぼんやりと、ネイの問いの正体が見えてくる。
「いやいや! 真っ白ですから!」
「しっかり見てんじゃない。この変態め」
ネイの指摘に、咲弥はぎょっとする。
てっきり白か黒か――善悪の話だと勘違いしていた。
「い、いや! 違うんです! たまたま、ちょっと隙間から見えただけで……」
咲弥は言ってから、ようやくネイの罠だったと理解する。
ネイは両手を広げ、肩を竦めた。
「語るに落ちたわね」
ゼイドが大笑いする。
ネイと紅羽の視線が、とても痛い。
咲弥は少しうな垂れ、声を絞り出した。
「はぁ……ほんと、勘弁してくださいよ」
「さぁってと、変態はほうっておいて、飯でも行きますか」
ネイは言葉を投げ捨て、歩きだした。
「それじゃあ、先に行ってるぜ。早く来いよ」
「先に行き、朝食のご用意をしておきます」
ゼイドと紅羽は、二人並んでネイのほうを進んだ。
朝から疲労が溜まり、咲弥は深いため息をつく。
ふと、とっさに隠した贈り物に目を向ける。
いやらしさを噛み殺し――とても眩しい笑顔をした彼女の胸元には、紅真珠のネックレスも一緒になって写っていた。
(どこへ行っても、頑張ってください)
表紙にいるクロエに、咲弥はそう心の中で言葉を送った。
そして――その日の朝食は、ネイにずっとからかわれる。
ただただ、苦笑で誤魔化し続けるほかなかった。
時刻はもう、正午を過ぎたあたりの頃――
本日も変わらず、スラムは淀んだ空気に満ち溢れている。
咲弥は紅羽と一緒に、隠れ家のほうを訪れていた。
「その情報なら知っているわ。今朝方に来たからね」
桃色髪の情報屋、プリムはそっけない態度で続けた。
「ついでに、報酬の六〇万も持ってきたわよ」
「そっか。六〇万もあれば、しばらくは大丈夫そうだね」
「なぁに言ってんのよ」
咲弥の言葉を聞き、プリムは呆れたしぐさを見せた。
「今回、あちこちで情報を掴むのに加え、無線機や盗聴器に衣装。いったい、いくらかかったと思っているわけ?」
「あっ……」
「私の手元に残ったのは、一〇〇〇にも満たない程度なの」
「えぇえ……」
入手した情報は、おそらく一つや二つ程度では済まない。しかも相手は、王都でも屈指の富豪の片腕であり、裏組織の首領でもあるライカムだったのだ。
だからきっと、情報代が大半を占めているに違いない。
咲弥は納得すると同時に、不意の推測が立った。
「あれ? ということは、最初からそのつもりで……?」
「ええ。アニキなら、絶対に首を突っ込むと思ったからね。あのときにそう判断したから、クロエにはかかる必要経費を提示したってわけ」
そこまで頭が回っていたなど、考えすらもしなかった。
プリムは不敵に笑う。
「まあでも……ネイと賊の出現はさすがに予想外だったし、ライカムがクロエのバックにつくとは、微塵も思わなかった――もっと吹っかけても、よかったかもね」
口ではそう言っているが、おそらくそんな気はない。
仲間想いのプリムのことが、徐々にわかってきた。
咲弥は苦笑してから、プリムに封筒を差し出す。
「それじゃあ、これを受け取って」
「なぁに? これ」
「この前と、今回の分の情報代だよ」
「別に、いらないわよ」
プリムはそっぽを向く。
咲弥はプリムの手を取り、無理矢理に手渡した。
「僕は確かに、形上だけのアニキ。それでも、ここの子達が少しでも楽になれるなら、できる限りの協力はしたいんだ」
声のない威嚇をしてくるプリムから、咲弥は手を離した。
「そんなに多くはないから、あれだけどね」
「はあ……わかった。じゃあ、ありがたくいただいとくわ」
「うん」
プリムはため息をつき、気を取り直した姿勢を見せる。
「じゃあ、今日は冒険者の成り立ちでも語ろうか? きっとアニキには、空想上の物語に聞こえるかもしれないけれど」
その言葉を聞き、咲弥はふと考える。
「……そういえば、僕……冒険者になれたはずなのに、今はただの、なんでも屋みたいな感じなんだなぁ……」
「それは仕方がないわ。アネキみたいに飛び級で中級にでもなっていれば、もう少し事情は変わっていたかもだけどね」
こればかりは、どうしようもない。
今はコツコツと地道に、頑張るほかないのだ。
焦ったところで、いい結果は生まない気がする。
「うん。そうだね。一歩ずつ前へ、進んで行くしかないね」
「ただ、今回の一件での咲弥様では、不安しかありません。今回は運よく間に合いましたが、ネイの言葉通り――練度を高めていただかねば、ただのお荷物です」
不意に紅羽が、胸に突き刺さる言葉を放った。
神々しいほど可愛い顔をして、言うことがきつい。
それは確かに、まっとうな指摘でもある。
「アニキ、対人だと腑抜けになる呪いでも受けてんの?」
プリムの追撃に、咲弥は苦笑する。
二人の発言通り、深刻な問題なのかもしれない。
みんながみんな、いい人だとは限らないからだ。
それは王都を訪れてから、痛いほどよくわかっている。
とはいえ、平穏な国で生まれ育ってきた咲弥からすれば、どうしてもその殻だけは破れない。人を殺してしまうほどの戦いなど――あってはならないのだ。
平和を望む反面、それが無理だとしっかり理解している。
それでも――
「うん。頑張るしか、僕にはないんだ……」
目的のためには、きっと避けては通れない道もある。
そのときに何ができるか、どう対処するのか――
頭の中でだけでも、想像しておく必要はあるに違いない。
「一歩ずつ、私も力になります」
そう言ってくれた紅羽に、咲弥は微笑みを作った。
「ありがとう。紅羽」
「はい」
紅羽は突然、柔らかく微笑んだ。
言葉にはできない美しさに、咲弥の心臓は鼓動を速める。
「それじゃあ、そろそろお勉強会を始めましょうか」
プリムは言いながら、黒板を振り返った。
咲弥は見てないとわかりながらも、小さく頭を下げる。
「よろしくお願いします」
頭を上げると、プリムは困ったように微笑んでいた。
紅羽と一緒に、黒板の前で床に座り込む。
プリムの話を聞きながら――
(僕はまだ……スタート地点に立ったばかりなんだ)
この世界を訪れてから、右往左往しつつ進んできた。
咲弥はまだ、最低限の資格を手にしたに過ぎない。
これからも多くを学び、たくさんの経験を積んでいく。
そうして、いつの日か――邪悪な神を討つ戦いが始まる。
咲弥は大きな不安を胸に抱え、ただ前を向いた。
(ほかの使徒達も、こうやって頑張っているのかな……?)
咲弥はふと、そんなことを考えた。
自分とは違い、才能の溢れる人達が選ばれているはず――しかし最初の一歩だけは、誰もが同様であると思えた。
みんな自分なりの一歩を、踏み出しているのだろう。
(僕だって……負けられないんだ)
咲弥は覚悟を胸に、プリムの話をしっかり聞き始めた。
どんな小さな欠片も、積もり重なれば山となる。
そう信じて、咲弥は今日も情報収集に励んだ。
おぞましいほどの悪意が育っていることに――
咲弥は気づけるはずもなかった。
第二章 完
無事、第二章の終わりを迎えられました。
ここまでお読みいただき、本当に感謝します。
特に蛇足らしい蛇足もありませんが……咲弥が背後に何か隠した行為は、当然それとなく、みんな勘づいています。
気づかないふりをしてくれて、みんな優しいですね。
そして――本来、クロエ編は書かない予定でした。
ですが、この物語があったからこそ、第三章へ至ります。
次回は例のアレですが、第三章もよろしくお願いします。
あとがきもお読みいただき、ありがとうございました。
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