第三十九話 穏やかな眼差し
クロエの心は、さまざまな感情で入り乱れている。
上手く心の整理ができない。できるはずなどなかった。
訳がわからない事態に加え、ライカムが発した言葉の数々――何がどうなっているのか、思考が霧のごとく散らばり、いまだ混乱を余儀なくされている。
そんな茫然とした状態で、咲弥達の戦いを眺めていた。
咲弥はどこか調子が悪いのか、素人のクロエから見ても、あまり動きがよくない。しかし赤髪の女のほうは、それこそ見惚れるぐらい華麗であった。
ライカムが苦戦した相手を、まるでものともしていない。
賊の男は、防戦一方に回るしかない状況へと陥っていた。紋章術を唱えようとするなり、風の塊に襲われている。
咲弥と親しい間柄だった彼女は、ライカムの発言いわく、中級冒険者らしい。階級に疑わぬ実力は持っているようだ。
(アニキ……)
また咲弥に、クロエは視線を戻す。
その瞬間、虎女が赤い紋様を虚空へと描いた。
咲弥は間髪を入れず、素早く白い爪を振るう。すると赤い紋様が裂かれ、ふわりと煙のように溶けて消え去っていく。
紋様や魔法陣は、描かれたら最後――本人の意識が大きくそれるか、または本人の意志なしでは消すことができない。
そんな話を、昔どこかで聞いた記憶がある。
だからそれを裂いたという事実に、クロエは驚かされた。
これには虎女も驚いたのか、顔がかなり強張っている。
調子が悪そうなものの、咲弥の力はとても不思議だった。
「謳うだけの実力は、あるらしいな」
突然、ライカムが弱々しい声を吐いた。
クロエは思うままに、ライカムに問いかける。
「教えて。なぜ、あなたが母の形見を……?」
ライカムの力強い金色の瞳が、クロエのほうへ向いた。
沈黙が、お互いを行き来する。
「……君を、探しだすためだ」
「私を……?」
クロエは訝しげに、ライカムを睨んだ。
痛みを堪えた表情をして、ライカムは説明してくる。
「君の両親と私は幼馴染だ。忌み嫌われる私に対し、二人が声をかけてくれたんだ。聞けば、彼らには両親というものがいなかったらしい。だから孤独に佇む俺を見て、同じ仲間をみつけたと思った……そう言っていた」
確かに、クロエに祖父母はいない。
幼い頃に出会った記憶など、一度たりともなかった。
「いつしか一緒にいるのが当然となり、三人で悪さばかりをしていたものだ。だが大人になって……家業のこともあり、二人と会うことも少しずつ減った」
ライカムはそのまま、ゆっくりと語り続けた。
「しばらくして、二人が縁組みしたと聞いた。そのときにはもう……ティアナのお腹には、新しい命が宿っていた。私は素直に二人を祝福した」
クロエは一瞬、男女間のもつれを疑った。
つい口を挟みかけたが、ぐっと口を噤む。
ライカムが顔に似合わない、優しい笑みを湛えたからだ。
「心優しい幼馴染達の幸せを、純粋に喜んだ。だからこそ、それを機に……二人とは、しっかり距離を置くことにした」
「どう……して?」
「私の家業は、世間的には褒められたものではないからな。裏組織の者として、きっちりケジメをつける必要があった。二人には猛反対されたがね」
腹部の傷みか、はたまた過去によるものか――
ライカムはどちらとも取れる、つらそうな顔を見せた。
「あるとき――私のミスから、組織に大打撃を与えたことがあってね。それをどこかで掴んだティアナとローアが、幼い頃みたいに、手を差し伸べてくれ――ぐっ」
ライカムは傷のせいか、途端にうめいた。
その額には、汗がひどく滲んでいる。
クロエが寄ろうとするや、ライカムは手で制してきた。
「もちろん、私は二人の申し出を拒否した。まだ小さかった君のこともある。二人の幸せを心から祈っていたからこそ、私には構ってほしくなかったんだ」
ライカムは痛みを堪え、必死に声を紡いでいた。
クロエはただ、黙って話を聞き続ける。
「あのときの決断が、私の人生で最大のミスだった。押しに押され、二人の申し出を受け入れてしまった。その道中――二人は賊に襲われ、命を失ったんだ」
ライカムはそっと、目もとから涙をこぼした。
「心の底から、私は絶望した。二人の亡骸を前に、自ら命を断とうとも考えたが……しかし君の存在が頭に浮かび、踏みとどまった。そこからすぐに、君を探した。だがどこにも、君の姿はなかったんだ」
あの日、クロエは母の言葉に従って行動していた。
必ず迎えに行くから――
そう言って、母は必死になって逃がしてくれたのだ。
まだ幼いクロエには、何が起こったのかよくわからない。気がつけば、どろまみれの状態で王都へと戻ってきていた。
王都の外側で、両親の帰りを待ち続ける。
ただひたすら、ずっと――
とはいえ、子供が一人で待ち続けるのには限界があった。
餓死寸前まできたクロエを、スラムに住んでいた子供達が救ってくれたのだ。
ふわっと、そのときの光景が脳裏によみがえる。
「賊に攫われたと睨み、二人を殺した賊を探しだした。誰を拷問しても、そんな子供は知らないの一点張りだったよ――そのとき、ネックレスも取り返したんだ」
「……私は、ずっと王都のスラムにいたわ」
「そうか……そんな、近くに……見つかりはしなかったが、私は君がどこかで、生きてくれていると、そう信じていた」
ライカムは、紅真珠のネックレスのほうを見た。
クロエもつられて、手にある母の形見に目を向ける。
「それは、二人と距離を置く少し前……私とローアで作ったネックレスだ。久々に再会した頃も、ティアナはずっと身につけてくれていたみたいで、嬉しかったよ」
幼い頃の記憶――
この世でただ一つの代物だと、そう言って母は微笑んだ。
クロエは母の言葉を、今になってようやく理解する。
「だから、私は考えた。そのネックレスをつけていれば……いつかきっと、それに気がついてくれた君に巡り会えると」
ライカムは首を左右へ振り、苦笑いをこぼした。
「たとえ期待が薄くとも、それに賭けるしかなかったんだ」
「私を探して、どうするつもりだったの?」
「二人に代わり、私の一生をかけて援助するつもりだった。普通の生活、普通の教育、普通の幸せ――全部何もかもだ。それが二人への、贖罪になると思った」
クロエは、何も応えられない。
かたきである可能性について考えていた。自分から大切な家族を奪った存在だと――彼も自分と同じで、奪われた側の人間だったのだ。
しかもクロエを探しだすために、男では絶対に似合わないネックレスを、ずっと身につけていてくれたのだと知る。
事の真相が明かされ、事情もすべて呑み込めた。
その瞬間、クロエの目もとからぼろぼろと涙がこぼれる。
母の形見を抱きしめ、クロエはその場にうずくまった。
きつく胸が締めつけられ、涙がとめどなくこぼれ落ちる。
「それにしても……まさかこんな、警戒態勢が敷かれている建物へ侵入してくるとは……血は、争えないものだな……」
ライカムはぽつりと、そう呟いていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
不意の泣き声が聞こえ、咲弥の意識が一瞬だけ奪われた。
「隙ありぃ!」
虎女の嬉々とした声が飛んだ。
気づいた頃には、虎女の爪は咲弥の喉元をめがけている。
「しまっ――!」
咲弥は不意の死を予感し、全身の肌がぞっと粟立った。
回避が間に合わない。
それでも咲弥は、死に抗う努力をした。
「死にぇ――っ?」
虎女の爪先が、咲弥の喉元に触れる瞬間の出来事だった。突然、銀髪の少女が瞬間移動のごとく現れ、虎女の顎を蹴り上げている。
虎女が、ふわりと上空を舞った。
一呼吸の間もなく、虎女の腹に紅羽が掌底を叩き込む。
「おげぇっ!」
血反吐をまき散らしながら、虎女が壁に激突した。
紅羽の右手付近に、純白の紋様が瞬時に浮かぶ。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
ずるりと地に崩れ落ちた虎女へ、白い光芒が放たれた。
壁をも砕く閃光に焼かれ、虎女の昇華が解かれる。
一瞬の出来事に、咲弥は茫然となるしかない。
紅羽はきっと、固有能力――魔女の悪戯を使い、この場へやってきたのだろう。
「咲弥様! ご無事ですか?」
紅羽がぐいっと、咲弥との距離を縮めてくる。
咲弥ははっと我に返り、ふと紅羽の様子に気づいた。全身血まみれとなっており、服がかなりぼろぼろになっている。
心配されておきながら、咲弥は逆に紅羽を心配した。
「いやいや! 紅羽こそ大丈夫っ? どこも怪我ない?」
紅羽は少し、きょとんとした空気を醸した。
「はい。問題ありません。ただの返り血ですから」
「返り血って……」
「建物の外で、数名の賊を無力化しましたので」
その情報は、プリムからも聞いている。
咲弥は何度か頷いてから、とりあえず安堵した。
「とにかく、紅羽が無事で本当によかった」
「それは、こちらの言葉です。私があと少し遅れていたら、咲弥様は殺されていました。もっと注意してください!」
紅羽の言葉には、珍しく感情が込められていた。
至極当然の叱咤に、咲弥は苦笑で誤魔化すほかない。
紅羽への対応に困っていると、背後からネイの声が飛ぶ。
「注意もそうだけれど、もっと練度を高めるべきね」
ネイは眼鏡の男の腕を掴み、ずりずりと引きずってくる。
男の眼鏡は割れており、完全に気絶しているようだ。
「あんたさ、なんか調子悪すぎじゃない?」
予想外の事態に加え、戦う相手が人だったのだ。
咲弥からすれば、無理もない話ではある。
しかし説明したところで、ただの言い訳に過ぎない。
「……うっ……すみませんでした」
咲弥は素直に謝罪する。
ネイは男の腕を離し、やれやれとため息を漏らした。
「ところでさ、紅羽」
「はい」
ネイが、クロエ達のほうへ指を差した。
「私の雇い主を、ちょっと治癒してあげてくんない?」
「了解しました」
ネイの頼みを、紅羽は快く受け入れた。
顔に傷をもつ男へと歩む。
道中――クロエはネックレスを抱き、泣き崩れていた。
何がどうなったのか、咲弥にはさっぱりとわからない。
ただ目的の品は、どうやら無事に入手できたようだ。
紅羽は純白の紋様を浮かべ、可憐な声で唱える。
「光の紋章第三節、光粒の陽だまり」
傷を負った男の体が、ぼやっとした光に包み込まれる。
少しつらそうな声で、男はぼそりと呟いた。
「ほう。治癒術……か」
「そっ。この二人は、私の仲間。ちなみに、この子のほうは私と同じ中級冒険者で、しかもなんと外にいた賊の退治も、きっちりとしたみたいなのよねぇ……?」
「ふっ……」
男は鼻を鳴らし、ネイへと金色の瞳が揺れ動いた。
「汚名返上……と、言ったところか?」
ネイは男の前でしゃがみ込んだ。
そして、凛とした顔に笑みを湛える。
「話が早いわね。お釣りがくるくらいだと思うけれど?」
「結果的には、だな」
「必要とあれば、ほかの賊も片づけるわよ? まだ賊の頭もどこかにいるでしょうから、ぱぱっと退治するけれど?」
男は首を小さく横に振り、苦笑を漏らした。
「その必要はない。君が倒した男が、賊の頭だからな」
「あっ……そう。あれが、そうだったの」
「賊の頭も、そのほかも――君の前では、大差ないか?」
男の問いに、ネイは少し困り顔で唸った。
「それは、人によるけれど……この程度なら、まあ? 私が普段、何を相手にしてると思ってんの? 魔法を使ってくる魔物の集団のほうが、もっと手強いわよ」
男はくっくっと笑った。
治癒術で回復してきたのか、顔色がよくなってきている。
「今後、何かあれば……君達を頼ることにしよう」
「ご指名? だったら、高くつくわよ?」
ネイは、不敵な笑みをもって応えた。
男のほうも、不敵な笑みを見せている。
咲弥は隙を狙い、ずっと抱えている疑問を呈した。
「あ、あの……すみません」
「なんだ?」
男の金色の瞳が、さっと咲弥を向いた。
「クロエさんがなぜ泣いてるのか……事情を少し、説明してくれませんか?」
「回復までは、もう少しかかりそうか……いいだろう」
裏組織の首領――男の名は、ライカム・ハーンといった。
その声は低く、厳かではある。
ただ彼の瞳はとても穏やかで、優しい色を宿していた。
真相を聞き終え、咲弥はなんとも言えない気分に陥る。
話を聞いたから、そう感じただけなのかもしれないが――まるで憑き物でも落ちたかのように、ライカムの顔はとても晴れやかであった。
きっと、ライカムにとっての暗く長い夜に、ようやく陽が射し込んだからなのだろう。傍らで泣き続けるクロエを見る目は、どこか親に近しい眼差しだった。
予想外の連続ではあったが、最後の最後に――
いい意味から、予想外の事態で幕を閉じた。